火曜日・第二十六週目、午前五時。
目覚ましが鳴る前に、俺は目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗く、世界は微睡の中にある。
だが、俺の心は眠っていなかった。
記録帳の最後のページ──そこには、昨夜ペンで記した文字が、まだ乾ききらぬように残っていた。
──『この記録は俺のものだ。誰の編集も、干渉も許さない』
その一文を見つめるたび、心臓が脈打つ。
俺はまだ、観察者でありたい。
このループに囚われながらも、せめて自分自身の視点だけは、失いたくない。
けれど、もうそれすらも許されなくなるかもしれない。
学校に着くと、空間の密度がいつもと違って感じられた。
空気が重い。呼吸が浅くなる。教室の扉が、何度開閉してもきしみ音を立てない。
周囲のクラスメイトはいつものように笑い、話し、授業を受けていた。だがその“日常”のどこにも、観測すべき価値が見つからない気がした。
──それすらも、誰かに“編集”されているとしたら?
俺は机に突っ伏したまま、記録帳の端を指でなぞった。
ページの隙間から、小さなカードが滑り落ちる。
白紙のように見えたそれは、光の角度によって文字を浮かび上がらせた。
──『観測権限コード/A25──抹消申請中』
脳がしびれた。
……俺を、“観察者”から外そうとしているのは、まだ続いていたのか?
昨日の記録破壊では、終わっていなかった。むしろあれは、始まりに過ぎなかった。
俺は放課後、旧校舎の地下に向かった。
誰にも見つからない場所。記録の干渉が届きにくい場所。
この火曜日の中でも、最も“孤立した空間”。
地下書庫の奥、誰も開けることのない鉄扉に、あの白いローブの影が立っていた。
「来ると思っていたよ。A25」
「……お前、誰なんだ」
「僕は記録系統の第三区画から派遣された“記録補正者”だよ。君が記す内容を、系統の秩序に沿って調整する仕事をしている」
「調整、だと?」
「君の観測は独立しすぎている。すでに主観の範囲を逸脱している。だから、上層が“君の視点”を封じることを決定した。これは、決定事項だ」
俺は拳を握りしめた。
「なら……俺は、どうなってしまう?」
補正者は静かに言った。
「観測権限が剥奪されれば、君は“記録される側”になる。個としての認識は保てない。……君が君であることの記録も、存在しなくなる」
脳裏でノイズが走った。
──記録されない俺。それはつまり、“消滅”だ。
俺は記録帳を開き、ページの余白に震える手で一文を走らせた。
──『俺はまだ終わっていない。記録を放棄しない限り、存在は継続する』
補正者は微かに目を細めた。
「君は……最後の抵抗者になった」
「それでもいい。記録を放棄するぐらいなら、ループの中で死んだほうがマシだ」
その瞬間、周囲の空間が波打った。
補正者の姿が滲み、空間の継ぎ目から“観察装置”のようなものが姿を見せる。
それは無数の目を持ち、俺を凝視していた。
──『観測者・A25、記録抵抗を認定。抹消手続きを中断。保留状態に移行。次週監視継続。』
俺はその言葉を聞きながら、記録帳の裏表紙に静かに記した。
──『火曜日・第二十六週目──抵抗成功。抹消回避。観測継続中。』
帰宅後。
部屋の窓を開けると、外の空がほんの少しだけ赤かった。
火曜日はまだ終わっていなかった。
だが、ほんの少しだけ“書き加える余白”が生まれていた。
希望ではない。自由でもない。
ただ──“続けることのできる意思”。
それが、今の俺にとっての全てだった。