火曜日・第二十七週目、午前六時。
目覚めは不自然な静寂だった。
いつもの雑音──目覚まし、母の足音、台所の物音──それらがほんの一拍、遅れて届くような感覚。俺は天井を見つめながら、浅い呼吸を繰り返す。頭の奥に、こびりついたような鈍い重さがあった。
記録帳を開くと、前週の最後に書き加えた文が、わずかににじんでいた。
──『火曜日・第二十六週目──抵抗成功。抹消回避。観測継続中。』
続いている。まだ、俺は“外されていない”。だが、あの白いローブの補正者の目に焼きついた威圧と、観察装置の無数の瞳が、脳裏を離れなかった。
息を吸うたび、肺の奥がざらつくような違和感。体が、この空気を拒絶している。世界が、俺の存在をわずかに弾こうとしているようにすら感じた。
教室に向かう足取りは、いつにも増して重い。誰が味方で、誰が観察しているのか。そんな線引きすら、もはや無意味なものに思えてくる。俺の視点すら、誰かの編集下にあるのだとすれば──この世界における“俺”という存在は、いったいどこまでが本物なのか。
朝礼の最中、ふと目をやった教室の窓の向こう側──屋上のフェンスの影に、誰かが立っていた。
……また、誰かが“見て”いる。
だがそれは、以前までの“観察”とは違っていた。俺の存在を確認するような眼差しではなく──“見守る”ような、けれどそれでいて“距離を保つ”意志があるような気配。
思考がねじれていく。敵意もなく、干渉もなく、ただ“そこにいる”という存在。その不可解さに、俺の背筋はうっすらと冷えた。
昼休み、俺はそっと階段を上がり、屋上の扉を押した。
鍵は、かかっていなかった。
風が吹き抜ける屋上。だがそこに人影はない。ただ、床に一枚の紙が落ちていた。
──『距離を保て。君はまだ観測者だ』
手が、微かに震えた。
誰かが、俺の“観測者”としての立場を認めている。
敵ではない。だが、味方でもない。そう感じた。
だが、それ以上に重要だったのは、この存在が“俺の記録を追っている”ということだった。俺の言葉、思考、選択、それらを読み取った上で、なお距離を保とうとしている。
俺はその紙を記録帳に挟み、誰にも見られないよう慎重にページを閉じた。
午後の授業中、ふと目をやった窓の外。
──誰かがいた。
あの白いローブではない。制服姿。こちらを見て、何かを確認するように、すぐに姿を消す。
「……誰なんだ」
呟いた言葉に、誰も答えない。
だが確かに、“誰か”が距離を測っている。近づくわけでもなく、突き放すわけでもなく。
俺は思った。これは新たな契約の前触れなのか。あるいは、今までとは違う“実験”の段階なのか。
帰宅途中、駅のベンチでひとり座っていると、肩越しに声が聞こえた。
「観測というのは、盲目的なものだと思ってた。でも君は、見ようとする」
振り返ると、誰もいなかった。
空耳。……いや、違う。これは、試されている。
夜。記録帳の最終ページに、俺は書き残す。
──『火曜日・第二十七週目──観察継続。新たな観測者の接触あり。距離不明。敵対なし。観測意図不明』
──『視線を感じる頻度が増加。記録帳の内容に対応する反応確認。単なる記録閲覧以上の干渉がある可能性』
俺はまだ、生きている。
この世界に、まだ“記録する価値”があるのかもしれない。
それが、いまの俺にとって唯一の、希望の形だった。だが同時に、その希望は“観測されること”への甘えかもしれないという、不穏な恐れを孕んでいた。
存在を証明するために記録を残す──それ自体が、既にこの世界の掌の上で踊らされているのではないか?
だとしても、俺は止まれない。
この記録帳のページが続く限り、俺はまだ“俺”でいられる気がした。
そして、その希望すら誰かに見られているのだとしても。
──それでも、俺は記録する。