火曜日・第三十週目、午前六時。
目を開けた瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
それは夢の中で何かを失ったような痛みだったが、目覚めと共にその内容は霧散してしまっていた。何か重要なことを知りかけていた気がするのに、思い出そうとするたび頭の奥が鈍く痛む。
俺は起き上がり、無意識のうちに記録帳を手に取っていた。
──『火曜日・第二十九週目──観測階層に移行。新構造認可。媒介承認中』
それは俺が書いたものだった。しかし、その文面がまるで“他人”のもののように感じられた。俺の記録のはずなのに、俺の言葉ではない。
ペンを持つ手に微かに力が入る。
自分は今、どこに立っているのか。
観測階層──媒介承認──
それらの単語が、俺を記録という檻に閉じ込めようとしているように感じた。
午前七時。
母の呼ぶ声で我に返り、着替えて朝食を取り、家を出る。火曜日の通学路。だが、前週までとは明らかに空気の質が違っていた。
すべてが“静かすぎる”。
電車の車内に誰もいない。改札を通る音が、やけに大きく反響する。
世界が薄膜に包まれたように、現実感が希薄になっていた。
学校に着くと、教室には誰もいなかった。
いや──正確には、誰も“認識できなかった”。
俺以外の存在がすべて、“背景”になっている。
声も、音も、気配も、俺の意識の範囲外へと押しやられているようだった。
「これは……観測階層の影響か」
誰にも届かぬように呟いた言葉が、逆に空間に深く突き刺さる。
記録帳を開くと、またしても見覚えのないページが増えていた。
──『観測対象A25、媒介認識レベル上昇中。記録境界曖昧化警告』
──『自己記録と世界記録の重複確認。修正保留』
俺の記録が、世界そのものに干渉している──?
記すことで、現実が書き換わる。
あるいは、記された内容に現実が“追従”する。
そのどちらなのかは、もはや判断がつかなかった。
午後の自習時間、俺はふと教室を抜け、旧校舎の裏に向かった。
誰にも気づかれず、風の音すら消えたような世界で、俺はただ、存在の確かさを求めて歩く。
裏庭の小さなベンチ。その下に、見慣れた封筒が挟まっていた。
中には、一枚の紙片があった。
──『君が書くこと、それ自体が観察を成立させている』
──『記録は、世界の残響であり、起源でもある』
震えた。
この言葉を書いたのは誰だ? 俺と同じように、記録の檻に囚われた誰かか?
あるいは、未来の俺自身──?
夜。
記録帳を開き、俺は震える手で新たなページに記す。
──『火曜日・第三十週目──記録構造の自己反映化進行。媒介効果不安定。現実との干渉率上昇』
俺は、観測の頂に立ったわけではない。
ただ、“書くことでしか存在を保てない存在”になっただけだ。
この記録帳がある限り、俺はここにいる。
だがそれが、果たして“自由”と呼べるのだろうか。
──誰か、見ているか?
その問いだけが、唯一残された真実のように思えた。