何度目の   作:水瀬りんご

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アーカイブ

火曜日・第三十一週目、午前五時五十五分。

 

目覚めの直後、胸の内側に“誰かの視線”が刺さるような感覚があった。

 

だが、どこにも誰もいない。室内は静かで、窓の外には朝焼けがまだ滲み始めてすらいない。

 

俺は無意識に記録帳を手に取る。ページを開くと、そこには俺が書いた覚えのない記述が追加されていた。

 

──『火曜日・第三十週目──媒介反応安定。次段階移行可能。観測点座標:開示済み』

 

震える手でページをめくると、見慣れぬ地図が挟まっていた。

 

それは街の俯瞰図だったが、奇妙な記号と座標が幾つも書き込まれており、その中心に赤く印された円──そこに小さな文字で“観測点”と記されていた。

 

「……これは、呼ばれている?」

 

俺はその地図を折りたたみ、記録帳に挟み込んだ。

 

通学中、世界の“密度”が急激に変わっているのを肌で感じた。空気が澱んでいる。人の声が遠い。俺以外の存在が、“遠ざけられている”──いや、“観測の外”に置かれているようだった。

 

そして、放課後。

 

俺は誰にも告げず、地図に記された観測点へと向かった。

 

それは街の外れにある、取り壊し予定の古い天文台だった。

 

朽ちたフェンスをくぐり、ひび割れた階段を上りきると、そこにはかつてのドームが静かに眠っていた。崩れかけた観測機器、埃の積もった書類、誰もいない空間。

 

だが──そこで、俺は出会ってしまった。

 

「……君が、“媒介体”か」

 

低い声が、暗がりから響いた。

 

そこにいたのは、全身を黒で覆った人物だった。フードを深く被り、顔の半分以上が闇に沈んでいる。唯一見える目元だけが、どこか機械的な光を帯びていた。

 

「君は……誰だ?」

 

「名乗る必要はない。“観測点”を開いた時点で、君は既に“移行者”として承認されている。だが、名を欲するならこう呼ぶといい。“アーカイブ管理者”。」

 

男の声は感情をほとんど持たず、まるで記録された音声の再生のようだった。

 

「君の記録は、既に複数の階層に波及している。君が記す一文一文が、世界の構造に影響を与え始めている。これは危険だ。“観察の意義”を損なう」

 

「だから……観測者を外そうとしてるのか?」

 

「それもひとつだ。だが我々の本懐は、均衡の維持にある。君の記録が個としての観測に留まる限り、問題はなかった。しかし……今や君の“視点”そのものが、新たな観測構造の核になりつつある」

 

俺は一歩後ずさった。

 

「……それで、どうしろって言うんだ」

 

アーカイブ管理者は、記録帳を指差した。

 

「選べ。記録を続けるなら、“存在の独立”を失う覚悟を持て。君の視点は、今後“集合的観測”に組み込まれ、個の自由は縮小される。逆に記録を放棄するなら、君は存在の境界から外れ、“観測される者”として処理される」

 

──観測者か、観測対象か。

 

それは、もはや二項対立ではなかった。

 

どちらにせよ、“自由”はない。

 

俺は無言のまま記録帳を開き、新たなページに文字を刻む。

 

──『火曜日・第三十一週目──観測点到達。外部管理者と接触。選択提示。記録継続選択』

 

アーカイブ管理者の目元がわずかに揺らいだ。

 

「ならば君の記録は、“中央系統”に移行することになる。今後の記述は、選ばれた観測者として、階層化された実在性の上に刻まれていく。君の視点はもう、君だけのものではない」

 

「それでも、構わない」

 

「なぜ?」

 

俺は迷わず答えた。

 

「誰かに“見られている”という実感が、まだ俺を保っているからだ」

 

男は静かに頷き、やがて視界の縁に溶けるように消えた。

 

夜。帰宅した俺は、ベッドの上で記録帳の最後の行を見つめながら、震える指でペンを走らせた。

 

──『この世界の観測者であり続ける限り、俺は、俺のままでいられると信じたい』

 

──『観測点到達記録:完了』

 

その文字の下で、ページがゆっくりと黒ずんでいく。

 

記録はまだ、続く。

 

だが、それが俺自身の意志で記されたものであるかは──もう、誰にも証明できないのかもしれない。

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