火曜日・第三十二週目、午前五時五十八分。
目を覚ましたとき、俺は夢を見ていた感覚が消えていなかった。いや、夢から抜け出せていないのかもしれない。現実との境界が曖昧になっていた。
記録帳を開く。そこには、前夜に自分が書いた記録の続きに、また見覚えのない文字が添えられていた。
──『観測者A25、アクセス領域制限中。観測情報は部分的に秘匿されます』
一瞬、理解できなかった。
……制限? 俺の観測が、何者かの判断によって“削られている”というのか?
思わず立ち上がり、記録帳を強く握る。だがその文字はすでにインクと一体化しており、削除も修正もできない。
通学中、俺は異変に気づく。
通り過ぎる人々の顔が、ぼやけていた。見えているはずなのに、焦点が合わない。まるで、俺の記憶に“顔”という情報が与えられていないかのように。
「……これも、観測制限か」
学校に着くと、さらに不穏な感覚が押し寄せた。教室に入っても、誰がどこに座っているのかすら定かでない。クラスメイトの声が、誰のものか識別できない。全てが薄い膜に覆われたようだった。
記録帳のページを開いても、文字がにじみ始めていた。読めない。自分の記述が、自分の中で“曖昧”にされている──
これは、観測の“干渉”ではなく、“改ざん”だ。
授業中、俺は教室を抜け出し、旧校舎の地下へと向かう。前週、アーカイブ管理者と接触した場所──観測点。
ドーム状の空間に入った瞬間、空気が張り詰める。
「……来ると思ったよ」
あの男の声。闇の中から、再び現れた“アーカイブ管理者”。
「制限が始まったようだな」
「……俺の記録を、誰が制限してる?」
「“中央系統”だ。君が前回、記録を続けることを選んだ。その結果、君の観測は“階層上位”に接続された。だがそれは、自由を意味しない。むしろ“調整”を前提とした観測だ」
俺は息を詰めた。
「つまり……俺の視点は、もう完全な“俺”じゃない」
「厳密に言えば、君の視点は“集合観測領域”に編入された。君はまだ観測者だが、その観測内容は“フィルタ”を通して選別される」
観測者でありながら、記録を奪われる。
それはまるで──“生きたまま、誰かに日記を書かれている”ような感覚だった。
「なら……俺はどうすればいい」
アーカイブ管理者は、無言で一枚の紙を差し出した。
──『制限解除申請書/観測権限階層:暫定R3』
「署名すれば、一時的に制限を解除できる。ただし、次の週に“査定”が入る。その結果次第では、観測権そのものが剥奪される」
俺は紙を受け取り、見つめた。ペンを握る手が、震える。
──制限解除の代償は、“完全なる監視”かもしれない。
──あるいは、存在そのものの削除かもしれない。
だが。
「……書くよ。署名する」
「理由は?」
「俺の記録は、俺だけのもんだ。それを証明するには、誰よりも先に“書き続ける”しかない」
紙に署名した瞬間、視界の端が揺れた。
空間が歪む。観測点が一瞬、全く違う構造へと“書き換えられた”ような錯覚。
──『一時解除認証:観測者A25、R3権限一時付与』
目の前の世界が静かに、濃くなる。色彩が戻り、音が立ち上がり、人の顔が──戻ってきた。
俺は立ち尽くしたまま、記録帳を開く。
──『火曜日・第三十二週目──観測制限発生。R3署名認証により一時解除。査定待ち』
その文字が、俺の意思である限り──
俺は、観測者でいられる。
たとえそれが、どれだけ危うい“自由”だったとしても。