選べ——。
その言葉が、目を閉じても、夢から覚めても、俺の脳裏を離れなかった。
教室の喧騒、廊下の足音、黒板を擦る音。すべてが日常のはずなのに、そこに紛れ込むたった一つの“非日常”が、今の俺の全存在を揺らしていた。
俺の記録帳には、ユウとの接触、佐伯の言葉、夢の中で繰り返された「ここにいる、だが時間がない」、それらすべてが丁寧に記録されている。
この世界は確実に動いている。完璧なループなど、もうここにはない。
——そしてそれは、つまり“終わり”の気配でもある。
俺は、再び旧校舎の図書準備室へ向かっていた。
扉を開けた瞬間、ほこりの匂いと静けさが迎えてくる。その奥、窓際の長机に腰掛けていたユウが顔を上げた。
「来たね、アキラ」
「……どうして俺が来ると分かった?」
「ここにいる限り、君の選択肢はそう多くない。たぶん……私なら、ここに来るから」
相変わらず淡々とした声だったが、少しだけ、微笑んでいるように見えた。
俺は、例の紙を机の上に出した。
「佐伯にこれを渡された。『結末を書け』って」
ユウは紙を見つめ、しばらく黙った。
「彼女は……まだ“そこ”にいたんだ」
「“そこ”って?」
「観察の先。選択の手前。そして、その中間の揺らぎ。……私は、そこで止まってる」
俺は息を飲んだ。
「ユウ、お前は……もう何度、ループを経験してる?」
彼女は目を閉じて、そっと言った。
「二百七回目だよ」
俺は言葉を失った。
「そんなに……?」
「でも、君に会ったのはまだ数回しかない。君は最近、この時間軸の“観測者”になったばかりだから」
それは、皮肉にも聞こえたが、事実だった。
「佐伯は、観察者だった。そして今は違う……つまり、観察者にも“段階”があるってことか?」
ユウはうなずいた。
「観察者、干渉者、そして……選択者。最後には、決定者になる」
「決定者?」
「ループの出口を選ぶ者。選んだ時点で、世界は一つの結末へ向かう。誰か一人の意志で、すべてが決まる」
俺は紙を握りしめた。まるでそれが、時限爆弾のスイッチのように思えた。
「そんなの、俺には……選べない」
「……でも、選ばなければ、世界は崩れる」
「崩れるって、どういう——」
「存在そのものが収束できなくなる。記憶も、時間も、肉体も、すべてがバラバラになる。だから、選ぶしかない」
静かに、ユウは手帳を差し出した。そこには彼女の記録がびっしりと書き込まれていた。
「君が見た変化、記録した異常、そして人との交差。それをすべて読んで、君なりの選択をして。……それができるのは、君だけだから」
俺は手帳を受け取り、パラパラとページをめくった。
そこには、何度も書かれた日付、繰り返される言葉、そしてときおり混じる走り書きの“叫び”があった。
『何度目の月曜日?』
『倉科の笑い声が、今日は少し違う』
『同じ夢。白い教室、誰かの声』
そして、あるページにこうあった。
『アキラに会った。ようやく、私のループが変わり始めた』
「……俺なんかが、きっかけに?」
「ううん。君だから、だったんだと思う」
それは決して告白ではなかった。
けれど、俺の中の何かが揺れた。
選べ。
ユウが言った言葉と、佐伯が渡した紙。
そして、俺自身の記録帳のすべて。
選ばなければ、終わりはやってこない。
だが、選ぶことは——
誰かの終わりを意味する。
「……時間は、どれくらいある?」
「この世界であと三十回分の“月曜日”が残ってる。それが、限界」
三十回。
それが、俺たちに残された“猶予”。
「わかった」
俺は紙を、ノートの最後のページに挟んだ。
「あと三十回で……この世界のすべてを見極めてやる」
そう宣言した俺に、ユウは小さく、けれど確かにうなずいた。
このとき、俺はまだ知らなかった。
三十回の中に訪れる、最初の“崩壊”が、すでに始まりかけていたことを——。