――お人好し。
それは時に褒め言葉であり、時には悪意を以て使用される。
今回の例は後者だろうと彼女は理解していた。彼女は冷たい苛立ちに気付くことも出来ないほど子どもではなく、だからと言って向けられた矛先で傷付かないほど大人でもなかった。
「君主様、どうなされたのですか?」
気遣わしげにかけられた声にゆっくりと顔を上げる。彼女の『お人好し』によりここに居ることを許された少女、大喬がその柳眉を下げて心配そうな表情でこちらを見ていた。慌てて大丈夫だと告げる。少し考え事をしていたのだ、と。しかしその返答に、大喬は視線を落とす。
「……それは、私の所為でしょうか」
「ううん、違うよ。大喬さ……大喬の、ことじゃない」
「しかし賈詡殿も何やらご気分を害されたご様子ですし、やはりあのようなことを申し上げるべきではなかったのでは、と」
「そんなとこない、よ。大丈夫。賈詡が怒っているのはわたしに対してだから」
大喬のどうして、という問いには曖昧な微笑みを返した。怪しい者を召し抱えるなとの叱責を受けたと正直に答えたとして、目の前の『怪しい者』がやはりご迷惑だったのですねと己を責めることは明白である。大喬の心優しさを彼女は既に認識していた。それはきっと賈詡も同じだ。
だがおそらく、
――いやだなぁ、と呟く。優しい人を、頼ってくれる人を受け入れないというのはどうしても出来なかった。彼女の育った環境はそれを『酷い人間のやること』だと教えた。責められたくはない。だから、深く考えたくない。気楽に、遊ぶように、どうか過ごさせてはくれないだろうか。
しかし大声を上げて彼女のもとへ飛び込んで来た伝令が、他ならぬこの乱世が、それを許す筈が無かった。
漢中にて、反乱の一派有り。
君主・姜維が鎮圧に向け素早く兵を出すも、反乱軍は少数ながら個々の確かな力量と巧妙な策にてそれを一蹴。城を落とし姜維の喉元へと刃を突き付けた。
姜維は天水へと退き、ここに反乱軍掃討の陣を敷く。しかし漢中を手にした反乱軍は速やかに軍備を整え天水へと侵攻した。
勝敗など、最早わかりきっていた。
君主・姜維の所在は戦の最中に掻き消え、頭を失った兵たちは次々と討たれ捕らえられその数を減らす。反乱軍が天水を制圧するまで
――斯くして、姜維軍は戦乱の世から退場した。
「――さて、どうしたものか」
日が落ちかけている。強く差し込む赤い光に照らされ、机に広げた地図をぐるりと囲むようにして人が集まった一室で、賈詡は顎に手を当てて小さく呻く。
「こうなるのなら、同盟しないほうが良かったのかな」
全軍の長が居心地悪そうに周りを見回しながら声を出す。彼女としてはわからないことだらけなので賈詡に全て任せるつもりだったのだが、流石に顔だけは出してもらわなきゃ困ると呆れる賈詡に引きずられて来たのである。とにかく慣れろ、覚えろと言われたが、彼女にしてみれば慣れるまで軍議をすることがそもそも異常なのだ。
「それだと俺たちはとっくに攻め滅ぼされてますよ。折角追い込んだのに放っておくなんて手段を取るのは馬鹿か阿呆か奇跡だけ、ってね。
……とは言え、繋いだ糸を手繰られるのも厄介。早めに手を打ちましょう」
「手、って?」
「それを今から考えるんですよ」
不安しか無かった。思わずげんなりした彼女に気付いた夏侯覇がガチャガチャと鎧を鳴らしながら腕を組む。
「いやいや、こういうときにもお約束ってのはあるんで、あんまり気負うことありませんって」
「お約束?」
「えぇ。今回で行くと、また新しく同盟を結ぶってのが通例ですかね」
なるほど、と思わず呟く。何よりも真っ先に縁を結ぶ様はなんだか尻軽女のようで引っかかるものはあるが、それが一番早くて確実だろう。――しかし。
そっと賈詡を盗み見ると、見事な渋面を浮かべていた。
「……となると、こっちには見合うものがまだ無いんでね。門前払いが関の山だ。いくら早くて確実でも、可能性が無ければ話にならない」
「ですよね……」
大きな金属音と共に項垂れる夏侯覇。代わりに「では」と声を上げたのは大喬だ。
「見合うものがあれば良いんですよね? 何か用意出来ないのでしょうか」
「金のなる木はもう手元に無い、兵力も劣る、領地はこの西涼ひとつだけ。残念ながら、差し出せるものは何も持っちゃいないんだが」
改めて聞くと散々である。どうにもいたたまれなくなって「ごめんなさい……」と謝り始めた君主を大喬が宥める傍ら、夏侯覇が顔を上げて賈詡を見る。
「でも、心当たりはある……んですよね?」
「……どうしてそう思うんで?」
「さっきの賈詡殿、見合うものは『まだ』無いって言ってたんで。どこかしらにアテがあるのかなー、と」
――存外鋭い。自然と口角が上がるのがわかった。察しが良いのは嫌いじゃない。
良過ぎるのは、困りものだが。
「あっははあ、流石流石!」
ひとつ笑って賈詡は机の上の地図へと指を向けた。全員の視線が賈詡の指先へと集中する。指はその視線を誘導するようにゆっくりと動く。
とん、指がある一点を叩く。
「ここを餌にしましょう」
そう言って賈詡が指したのは、長安だった。
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