ガッ、とちから強く地面を蹴った。得物の推進力に任せ突進するもそれは容易く避けられる。横から振り下ろされる凶器を、身をよじることでなんとか躱す。耳障りな金属音が響いた。躱しきれなかった刃は鎧に弾かれたようだ。おかげで怪我は無い。
しっかりと地面を踏み締め、左下から掬い上げるように得物を振るう。膂力に武器の重さと遠心力も重ねたそれはしかし空を斬った。敵はその場から飛び退がることでその一撃から逃れたようだ。この武器を見てまだ距離を取ろうとするとは、普通ならば下策である。しかしその武器を握る人物は小さく舌打ちをした。
--見透かされている。
「いやいやいや、冗談キツいだろこれは」
弱音を吐くつもりは無かったがその人は無意識に呟いていた。それも仕方ないことだろう。ただでさえ重い鎧に体力の何割かを獲られている上に、連日の防衛戦である。休む暇など与えるものかとばかりに絶え間無く侵攻してくる敵国はどれだけの兵力を持っているというのか。考えるだけで鎧の重さが増すようだ。
「こちとら、もう限界だってのに……」
肩で息をするその人も、満足する兵力を補充出来ないこの国も。
そろそろ潮時か。その人はじりじりと距離を取る。相手の間合いから離れ、すぐには縮められない距離まで退がった。そして相手の集中が途切れたその一瞬の隙を見計らい、踵を返し脱兎の如く後退した。
「なっ……逃げるか、卑怯者!」
「卑怯だろうが、俺も自分の命は惜しいんでね!」
追撃せよと叫ぶ声を背中に受けながら、その人は強く唇を噛み締めた。
そうだ。もう、限界なのだ。
背筋を伸ばし、目線は真っ直ぐ。顎は少し引く。肩のちからは抜き、腕のちからは軽く自然に。足は両方ピタリと合わせて少し斜めにすること。そして表情はいつでも真面目に、余裕があるなら笑みも浮かべること。
「……こう?」
「あははあ、まるで置き物だ」
行儀作法のレクチャー、などと言えば少しは聞こえが良いが単なる『玉座の座り方』である。賈詡に習った通りに微笑んでみせた彼女だったがその顔はぎこちなく引きつっていた。賈詡はやれやれと肩を竦める。
君主になって二ヶ月目、現在習っていることは『人と対する際の姿勢』である。
それくらい出来ると胸を張る彼女だったが、「なら『君主として』外交の使者と接するときは?」と問いかけた賈詡にあのそのえっとと口ごもるばかりで何も言い返せなかったことがこうして教えられている理由だ。普段無意識にやっていることも『君主として』行わなければと意識した途端に難しくなる。ちらっと賈詡を盗み見れば、そら見たことかとばかりに鋭い視線を向けられた。全く敵わない。
「兎にも角にも慣れないことには話にならないんでね」
そこで賈詡は玉座に座ったまま自分の話を聞くよう彼女に言う。居心地の悪さに小さく呻りながらも彼女はそれを聞き入れた。素直で結構なことだ。彼女のあまりの殊勝さに少なからず思うところはあるが、一先ずそれは思考の外に置き、賈詡は先日書きまとめた情報を報告する。
「先ず兵力についてですが、ほぼ無いですね」
真っ先に告げられた内容に彼女は首を傾げた。へいりょく、と言われても現代っ子である彼女にはピンと来なかった。兵力とは兵員数や兵器数などを全部ひっくるめて『兵隊』のちからとしたときの
「先の戦で、この国を護る軍は壊滅状態。まだ兵として戦える者、怪我の治った者を数に入れても千より下です」
「……えっと、つまり?」
「今攻められたらまともな抵抗も出来ず、あっという間にさようならってことです」
危ないじゃないか。顔色の変わる彼女に賈詡は「そりゃ危ないですよ」と頷いてみせる。自身もそれを知った際は愕然としたのだが、そこは軍師。今はとっくに落ち着いて最良と判断した考えを口にする。
「というわけで、同盟を結びましょう」
同盟。彼女が復唱する。その単語は何度か聞いた憶えがあった。
「……誰と?」
彼女が言葉の意味を理解した上での質問に賈詡は嬉しそうに笑う。
「あははあ! そう、そこが一番重要でして。……さて、我らが西涼の君主様は、他の国を誰が治めているかご存知で?」
わかりきったことを。彼女は首を横に振って答えた。西涼がどこなのかすら知らなかったのだ、他の国、ましてやその統治者など知る筈も無い。
勿論賈詡も答えが出て来るとは思っていない。彼女が見当違いなことを言い出すより早く視線を横に向けてそこに控えている兵に合図をした。その兵は彼女の手当てにより無事に回復出来た者だった。見憶えのある顔に彼女は頭を下げ--ようとして賈詡に怒られたことを思い出し手を振るだけに留める。それでもこちらに笑みを向けてくれた兵にほっとした。
その兵が手に持っていた地図を広げる。いつかの大陸全土が描かれた地図だった。賈詡はその一番左上の石川県、いや西涼を指差し、次にその指を西涼の下へ滑らせる。
「西涼へ侵攻する道は二つ。ここ長安と、天水です。そして我々にとって幸運なことに、そのどちらも姜維という君主が治めています」
西涼へと続く道を唯一塞いでいるのは長安、天水、そして漢中の三地域を治める姜維勢力である。知勇に恵まれたその人物は『仁』を知る真面目な人物らしい。それを聞いた彼女は安心する。
「いい人なんだ?」
しかし賈詡は「それはどうかな」と渋い顔だ。
「言ったでしょう、『西涼は攻められてボロボロだ』と」
「うん、聞いた。だからその姜維って人と同盟を……」
「もう一つ『西涼への道は二つとも姜維軍の勢力下』とも言ったんだが、それは?」
答えを求められて彼女は黙り込む。
賈詡の言うことがどちらも正しいとすれば、それらが指す事実は一つである。しかしそれならどうして賈詡は『同盟』なんて提案をしたのだろうか。
「……西涼は、姜維軍に攻められた……?」
彼女は恐る恐る口を開いた。
「ご明察! 理解が早くて助かりますよ」
「良かった合ってた……じゃない、良くない。つまりそれって、攻めて来た人に同盟をお願いするってことです……だ、よね? そんなことして大丈夫なの?」
途端に慌て出す彼女に賈詡はあくまでも余裕を崩さない。君主らしさが身についていない彼女は同じように『軍師』というものもわかっていないらしい。
「そこを大丈夫にするのが俺の役目、というわけで。既に用意は万全です」
賈詡は兵に指示して地図を仕舞わせ、代わりに二つの竹簡を持って来させた。
「まあ手土産と言いますか、貢ぎ物は何とでもなるとして、ここで一手。これは西涼のとある鉱山の村についての情報なんですが、過去何回か上質な玉が出土し、その都度開発を援助されてきたらしく、今では結構な収入源になってます。そこで我々はあちら側に『同盟を了承してくださればその村の資源を売買する権利を渡しましょう』と持ち掛けるわけです。恐らく侵攻の目的にも資金源の獲得は含まれていたでしょうからね」
「そうしたらわたし達が困らない?」
「困ることは困るでしょうが、なに、我々が攻め滅ぼされるよりは困りませんよ」
それもそうか、と彼女は頷く。どんなに潤いをもたらす収入源が断たれてもそれがすべてではないのだ、目先の金銭を惜しんで命を散らすような真似をするのは愚かである。それはいくら現代っ子でも理解出来た。異論は無いと賈詡の考えに同意した。
それでも不安が残るのは、『国同士』という規模の大きさが想像出来ないためだろうか。
「情報も渡してすんなり同盟を結んでくれるならいいんだけれど、その……もし断られたら……」
「ご安心を」
彼女の言葉を遮って賈詡は口を開く。その顔はどこか喜んでいるようでありながら眼差しには鬼気迫るものがあった。
「向こうは必ず了承してくれますよ」
君主・姜維の居城は漢中にあった。城の一室、軍議等を執り行う際に使うその部屋に信を置ける者を集め、中心で姜維は端正な顔を沈痛に歪めていた。
「恐れながら申し上げます! 防衛に参戦していた兵の一部が、投降したとのこと!」
慌ただしく入って来た伝令兵の報告に多くが騒ぎ始める。それは動揺というよりは『やはり』という確信をより深めるための呟きを各々吐き出しているようだった。姜維もその中の一人である。
「そうか……」
殺すか殺されるかの中で自分の命を何より重んじるということは臆病とも取れるが姜維は兵達を責めるつもりは無かった。よほどの才と幸運が無ければ降将の未来とは総じて明るくないものだ、誰かが許してやらねば兵達の心は救われない。
しかし思想とは対立するものである。
「ええい情けない!」
皮を突き破らんばかりに拳を握り憤っているのは黄蓋という老将だ。姜維とも長い付き合いがあり、また戦場で数多くの功績を残したことから大将軍に任命されている。戦への思想を言い表すなら『前線主義』が妥当だろう。
「命を散らすまでが戦いよ! やはりわしが出るべきだったのう」
「いや黄蓋、そうもいかないのだ。……皆も聞いてくれ。ここに集まってもらったのは防衛戦の話をするためだけではない」
「へぇーそりゃまためんどくさそうな……いやいや、とっても重要そうな別件でいらっしゃる」
ついこぼれた失言を噛み殺し、慌てて言い繕ったのは司馬昭である。空気が読めないのかそれとも読まないのか。普段からこの調子なので想像もつかないが、これでも一応軍師の任を託されている。
司馬昭の言葉に、姜維は思わずため息を吐いた。
「このような場でその口癖は控えろ……と言いたいが、今回だけは私も同意だ」
「と言うと?」
「……西涼から同盟の提案を出された。近日、正式な使者がこちらを訪れるらしい」
ざわり、場が先程よりも大きくどよめいた。
「あちらさんも大胆に踏み込んで来ましたね」
「西涼と言えば『あのあと』新しい君主が起ったと聞いたが、まだ碌な兵力も集まっておらんのだろう?」
「再建のために傷付いた民を手厚く看護しているらしいが、以前と同じとまではいっていないそうだ」
「なーるほど、そりゃまためんどくせ」
納得したような姜維と司馬昭だが、黄蓋にはまだ上手く理解出来ていなかった。無骨な手で顎髭を撫でつつ首を傾げた。
「ふむ……国力を蓄える期間を得るためではないのか?」
「そりゃあそれも理由の一つにはあるだろうが……ま、『盾』に使いたいんだろ、俺達を」
司馬昭が『お手上げだ』とでも言いたげに肩を竦めながら首を振る。それが黄蓋に対してか西涼の軍に対してかは本人しか知らないことだ。
「何せ、俺達が今まさに攻められてるのは
そこまで言うと司馬昭は口を閉じる。これ以上の説明は『めんどくせ』ということらしい。投げやりな態度だがいつものことなので気にせず黄蓋は思考に耽る。
「長安は西涼へ続く道の一つだのぅ。成る程、そこが落ちれば敵は勢いに乗ったまま瀕死の西涼を攻める可能性が高い。だからわしらと同盟を結び、その
「そーゆーこと。ついでに言えば西涼の新しい君主様とやらは息をするのもやっとな民を助けて評価が上昇中、そんな相手から持ち掛けられた同盟を断れば『あちらの君主様はなんて冷たいお人なの』とこっちの評価が下がること受け合いだ。そうなるまで向こうを攻めたのはこっちだしな」
--相手は相当意地が悪い。司馬昭の一言に姜維は苦いものを噛み潰したような顔をした。
周囲の目を利用し最大の利益を得る。向こうは間違いなく遣り手だ。君主が賢明なのか優秀な軍師が居るのか、またはその両方か。いずれにせよ西涼の新しい君主も一筋縄ではいかないようだ。尤も、乱世に起つ者とはそういう人間ばかりなのだが。
「どのような条件を提示されるかはわからないが、この同盟、断るわけにはいかないな……」
独り言のように呟かれた姜維の言葉が聞こえた者達は一様に頷いた。
「だが、してやられるばかりでは終わらんぞ」
姜維は頭を働かせる。
同盟とは良くも悪くも国同士縁を結ぶことである。そこに如何にして個人の意思を練り込ませ、利を得るか。一代で国主と成ったその若い才能への称賛と皮肉から『麒麟児』と呼ばれた青年は鋭い眼差しでとある方角を見つめる。
その双眼は西涼の地を睨んでいた。
自ら寄る辺を捨てたその人は疲れた脚を川につけて火照りを冷ましていた。野に下ったはいいがその先で戦乱に巻き込まれ、自分を慕って着いて来てくれた兵の多くを失いながらもなんとか無事に逃げてきたのだ。踏んだり蹴ったりとはこのことか。水面に映るその人の顔は相変わらず美しいが未だに明るく晴れることは無い。
「どうしましょう……私、一体どうしたら……」
悪いことが続き、すっかり気が落ちてしまっていた。やはり離れるべきではなかったのか。あのまま針の筵に包まれ飼い殺されていたほうが良かったと言うのか。このままでは遅かれ早かれ死ぬだけではないのか。そういえばこの付近では最近凶暴化した野犬が出没するらしい、この精神状態で襲われでもしたらたいした抵抗も出来ず食べられてしまいそうだ。後ろ向きな考えがぐるぐると頭を回る。
そんな落ち込んだ背中に近寄る影があった。
「……あのー、少しお尋ねしたいんですが……」
唐突にかけられた声に肩が跳ねる。反射的に目を閉じ、悲鳴を上げて振り返りながら川の水を手で掬って飛ばした。実に早業であった。
「きゃああああ! 私っ、食べても美味しくありません!」
「どわぁ! いやいやちょっと待っ……! 人間! ちゃんと人間だから俺!」
その言葉に恐々と目を開くが、視界に飛び込んで来たのは全身を覆う鎧のあちこちに木の枝や草花を貼り付けた、どう考えても不審者にしか見えない男であった。先程よりも切迫した悲鳴が上がる。そのあとに続いたのは水をかける音と、男の必死な弁明であった。ぎゃあぎゃあと喧しいその出会いは男が兜を脱ぎ顔を見せた状態で危害を加えるつもりの無いことを証明するまでしばらく続いた。
付近をまったりと散歩していた野犬が、その騒ぎに尻尾を丸めて怯えていたことは誰も知らない。
初手外交は甘えじゃない、いいね?