「俺が行くしか無いでしょう」
「そうだけど、そうだろうけど、でも……」
賈詡の言葉に彼女は表情を曇らせる。彼女にとって見知らぬその地は恐怖の対象であった。今の自分が行くには荷が重い、他人を行かせるのは気後れする。しかし行かなければこの国が脅威に晒される。悩んでいても実質答えは一つしか用意されていないのだ。それでも嫌だと思ってしまうのはまだ『乱世』に慣れていないからか。
「ま、気持ちはわかりますけどね。こればかりはあなたに任せるわけにもいきません」
敵地へ、戦地へ赴くにあたって適した者というのは確かに存在する。しかし現段階、西涼でそのような人材は賈詡以外に期待出来なかった。彼女もそのことは重々わかっていた。民は論外である。だからと言って自分が行ったところで無事に帰って来れるとは思っていない。かろうじて動ける兵の中にも、未だ怪我や病気で寝込んでいる者達の中にも、賈詡以上に技量のある者は見られない。今から新たに人員を募集するとしても遅過ぎた。適任者は今この場に賈詡しか居ないのだ。
ごめんなさいと伝えたかった。何に対してなのかは彼女自身よくわかっていないが。
「……気をつけて」
送り出す言葉には不安が色濃く根付いていた。賈詡はそれに少し--ほんの少しの苛立ちを覚える。
「そりゃあ勿論。俺もまだ死にたくないんでね」
そうして賈詡は僅かばかりの兵を連れて西涼を後にした。
漢中の城は西涼よりも熱気に満ちていた。それは人口密度の高さが関係していることに間違いは無いだろう。一人の兵に城を案内されながらも、賈詡は油断無く周りを確認する。他の君主がどのような政治を行っているのか知っていて損は無い。
練兵場が近いのか、太く気迫のある声が聞こえてくる。今通り過ぎた窓から見えたのは馬を世話する兵たちの姿だった。馬の数は多かった。パタパタと足早に通り過ぎる文官や女官も、今の西涼とは比べものにならない数である。
だが、それでも、と賈詡は思う。
--少ない。
長安、天水、そして漢中。この大陸で三つの領土を統べる軍勢の城にしては仕えている人間が少なく感じる。それに、見た限りではあるが総じて余裕が無い。外交の使者である自分に挨拶するくらいの礼儀は欠けていないが、それでもすぐにその場を離れ走り去る様は切迫した心境か状況に陥っていなければまず有り得ない。さらに言えば、皆どこか暗い表情をしていた。いくら『同盟相手』とは言え敵は敵である。弱っているところを見せないに越したことは無い、それは相手も承知の上だろうが。
(どうにも嫌な予感がするな)
賈詡が内心で眉根を寄せたとき、先導していた兵が「こちらです」と扉を示した。
「西涼からの使者の方がお見えになりました」
数秒遅れて「入れ」と声がかけられる。その声を聞いて小さく、ほう、とため息にも似た驚きがこぼれた。流石に態度や顔色には出さなかったが。
思ったよりも若い。漢中が同じ君主に統治されてから何年か経っていると聞いていたが、いくらなんでも若過ぎる。
それは扉の先に待つ青年を見ても同じ感想を抱いた。賈詡は自分の主である彼女を思い出す。あくまで見た目だけで言えば、歳はそう離れてなさそうだ。傍に立つ筋骨たくましい老将が相対的にそう見せているのか。いや、だとしても、反対側でどこか面倒そうにこちらを見る男性より幾らか若く見えた。
「私がこの軍団を束ね、漢中他の地を統べている
一つ拱手をして自分も名乗る。
「これはこれは、お初にお目にかかります。俺は賈文和。以後お見知り置きを」
「……どこかで聞いた名だな」
姜維が賈詡の名に反応するが、それは賈詡としても同じだった。姜伯約、どこかで聞いた名である。確か『麒麟児』と呼ばれる英才ではなかったか。
嫌な予感が強くなるが、とりあえず双方それ以上は掘り下げず会話を進めた。
「生憎だが、こちらに長く話している暇は無い。早速本題に入るとしよう」
手早くまとめられた前口上には確かに意味が無い。賈詡としては多数相手に腹の探り合いも存分にしたかったが「それは願っても無い」と声に出すことで己の中の未練も断ち切る。
だが姜維の言葉で嫌な予感は確信へと変わった。余裕が無く、形振り構わない相手と対したときはこちらに損害無く場を収めることなどほぼ不可能だ。お互い無理難題を吹っかけ合う余力は無いが、それでも現時点で最悪であり最良の提案が出されるとは予測出来た。
「同盟は受けよう」
姜維は明言する。しかし案の定言葉はそこで終わらず、続いたのは今の西涼にとってはこれ以上無いほどの痛撃だった。
「しかし交誼を結んだからには、此度の長安防衛、貴殿らにも出兵してもらう」
「ほう、逃げ出さずによう来たわい」
「あははあ、こちらの君主はお人好しなのが売りでして」
二度目の会合は長安の地に置いた防衛線の奥地にて果たされた。先に述べた老将、黄蓋が賈詡に挑発的な笑みを向けるがそれも蚊に刺されるより軽いものだ。賈詡も狡猾そうな笑みを口角に乗せて躱す。逃げ出すなんてことをしたら同盟も反故、近隣諸国への印象も悪くなる。君主初心者である彼女も、言う必要も無いが賈詡も、そんな愚かな選択をする馬鹿ではなかった。
司馬昭が「おーい」と呼び声をかける。天幕で拵えた仮の部屋に招かれ、一つ、気持ちを切り替えるために息を吐いた。
「……では、これより軍議を始める」
姜維によって本陣に広げられた粗末な地図はこの長安の地の拠点を描いたものだった。敵軍が持つ十四の拠点に対して、こちらの拠点は本陣含め僅か五つ。本陣から左右に伸びた二つの駐屯地と、通常拠点、兵糧拠点が一つずつ。君主まで
「これは厳しいってもんじゃないね」
思わず呟いた賈詡にジトリと冷たい視線が刺さる。わざわざ口に出すなと咎めるその視線は誰もが同じだった。守らなければならないという切迫した思いと現実との格差が兵達に焦りを呼んでいた。
--これは好機だ。
ただ一人余裕を纏う賈詡は獲物を狙うような鋭い目付きで現状を俯瞰する。
今後の足がかりとするために、策を巡らせねば。何より賈詡自身がそれを望んでいるのだから。
「馬超殿」
己にかけられた声に馬超は振り返る。煌びやかな鎧が陽光を反射して一層の輝きを見せる。反射光が眩しかったのか、声をかけてきた男は少し目を細めた。
「お時間です。出陣の用意をせよとのこと」
「そうか、わかった」
「此度の戦、先陣を切られるようですな」
その言葉に馬超は誇らしげに胸を叩いた。ガチャリと鎧が鳴る。その音すらどこか優美であるように感じられた。
「ああ! 俺の正義が我が主にも伝わったらしい。直々に先陣を命じられたのだ」
「なんと……それは素晴らしい」
男の言葉は本心であった。君主が直接指名するなど名誉以外の何物でも無い。そこまで認められた馬超を素晴らしいと思うことに躊躇いはなかった。
だが羨ましいかと訊かれたら、その男は言葉に困るだろう。
「貴殿も近頃健闘しているようではないか。いずれは俺のように先鋒を任されることもあろう」
馬超の言葉もまた本心であった。不遜も皮肉も一切無い。充実した様子の馬超に、男は苦笑いで答えた。
「許されるなら自分は、ゆっくりと地図を眺めたいのですが」
今のところ重要な面々はほぼ揃いました。これからは怒涛の展開(予定)です。
話は変わりますが、