退がれ。退がれ。退がれ。
遠退く声がひたすら繰り返すその言葉が、段々とこちらに言い聞かせているように思えてくる。本陣へ、本国へ戻れ。決して追いかけてくるな。決して、我らを殺しに来るな、と。
「--
名を呼ばれた彼は沈んでいた顔を上げ、声の主へと振り向く。
「これは
「いえ、こちらこそ急に声をかけてしまって……」
陸遜はそう言って小さく頭を下げる。鄧艾より年若いこの男は知略に秀でてありながら謙虚さを忘れない好青年であった。未だ敵に対して非情になりきれていない未熟さもあるが、それを含み、鄧艾は陸遜を気に入っていた。何より、空いた時間には共に地図を見て語らってくれるところが。
最後にはなぜか必ず火計の話になっていることは不思議だが、それも一つの個性だろう。
「……もう少し経ったら夜営の準備をしましょうか」
空を見て陸遜がぽつりと呟く。もうじき日が暮れようとしていた。空の高いところには既に夜が訪れている。黒と言うよりは藍に近い色を目に入れた鄧艾もまた独り言のように心中をこぼす。
「陸遜殿。彼等はどこまで退がったのでしょう」
逃げた、とは言わなかった。
「兵の多くは疲弊しきっています。そうそう遠くまでは進めなかったでしょう」
陸遜も同じく言葉を選んだ。
姜維軍は撤退した。ただ撤退しただけなら、ここ長安は鄧艾達が得ることになる。防衛することを放棄した、というのは、その地をこれ以上所有しているつもりはない、と見做される。国の政策によって異なるが、国土を護ることはほぼ義務なのだ。義務を果たさなければ過激だろうが穏健だろうが結局は取り上げられる。一瞬だけ、土地はどの国の所有物でもなくなるが、それを侵攻側が見逃す道理は無いに等しい。結果的に土地防衛の放棄は侵攻軍への譲渡と同義であった。
つまり暗黙の了解に従うのであれば、鄧艾達はこのまま長安を手に入れることが出来る。
だが、相手はいくら攻めてもしつこく耐えてきた姜維軍である。そうすんなりと事が運ぶわけが無かった。
面会の提案を呑み、姜維軍の軍師・司馬昭と話し合うことになった日暮れ前を陸遜は思い出す。
「取り引きです」
司馬昭は間違い無くそう言った。その言葉は断定されていた。
「俺達が兵を引いたら、そっちも引き上げてもらいたい」
「何を馬鹿なことを……! 戦況はこちらの圧倒的有利、わざわざ要求を呑み込むなどという愚かな真似をするとでも!?」
身を弁えぬ物言いに思わず噛み付く陸遜だったが、対する司馬昭はあくまでも冷静であった。
否、冷淡であった。
「普通はそうです。だが、こちらには人質が居る」
「なっ……!?」
「もう一度言う。
ぎり、と歯を噛み締める音が静かではない部屋に響いた。陸遜が拳を握ったのは怒りからであろうか、それとも敵に逃げ道を与えた過去の自分を恥じたからだろうか。
「……まさか、貴方達がそのような手段を取るとは思いませんでした」
「俺達もここまでしたくありませんでしたよ。でも、誰だって命は惜しい」
恨みがましく睨みつける陸遜に、司馬昭は軽く肩を竦めた。
要求を呑まないという選択肢もある。二部隊、それを率いる隊長二名を見捨てることになるが、大きく見るとこの損失は寧ろ『当然』という言葉で納得出来る範囲内なのだ。侵攻の際に失った兵力、戦で喪った人命、そう考えれば仕方ないの一言で片付く。
しかし陸遜はまだ、それを選べるほど強くはなかった。
「貴方達が惜しいのはこの地では?」
最後、悔しまぎれに口にした言葉に答えた司馬昭の表情は切なくもどこか達観していたように思う。
「……そう思ってんのは一人だけだ」
あの軍師は、命は惜しいと言った。長安を惜しんでいるのは一人だ、とも。あの言葉の意味するところは、つまり――。
「陸遜殿?」
「あ、いえ、すみません」
今度は自分が思案に暮れていたようだ。陸遜は一つため息を吐いて空を見上げる。太陽はすっかり沈んでいた。こんなに長い時間が経っていたのかと少し驚く。だが鄧艾に訊くと、そう長くもなかったらしい。
「日暮れが早い時期です。夜営の準備を急ぎましょう」
鄧艾に頷き、陸遜は共にその場を去る。戦力差は圧倒的だったにも関わらず手に入れられなかった長安。その先の本国へ帰りたいような帰りたくないような、複雑な気持ちだった。
鎧に全身を包んだ男は名を
ちなみに君主である彼女は、思っていたよりも不審者っぽくない二人組になんだか申し訳無いような気持ちを抱いていた。
「私達、長安から逃げて来たんです」
なぜ西涼に、との問いに大喬はこう答えた。君主の傍ら(と言ってもやはり玉座からは遠い)に立つ兵が「逃亡兵か」と呟いた。その言葉は彼女も知っている。臆病故か上を見限ったからか、戦場から逃げてきた者。兵力が減るのは怪我や病気だけでなく、逃げ出す者も少なくないからだと賈詡から聞いた。
彼等もそうなのかと彼女が認識しかけた時、夏侯覇がさっと表情を曇らせた。
「いや、大喬殿は……」
「夏侯覇様」
言葉を遮るように大喬は首を横に振る。悲痛な面持ちだ。それを見た夏侯覇は口を閉ざした。玉座からでは細かい表情の変化や小さな囁きはよくわからないのだが、訳ありかな、と彼女は察することが出来た。しかもあまり詳しくは言いたくないような。
だから、と言及しないのが彼女だった。話を逸らすように彼女は口を開く。
「……それで、なんでまた城邑なんかに?」
彼女は直接見たことは無いが、民からはひどく荒れ果てていると聞いた。特に悲惨な場所は野盗や、それこそ逃亡兵の住処になっている、と。
夏侯覇は彼女の問いに「城邑だからです」と答える。城を守るように立ち並び、家々自体は塀に守られた城邑であるならば、きっと戦火に晒されようとも被害は少ないだろう。二人はそう考えたのだと言う。
何か――変だな。彼女の直感がぼんやりと違和感を訴える。何かが噛み合わない。何かが納得出来ない。しかしそれはあまりにも漠然とした疑問であり、何よりも彼女自身が概要を捉えきれていなかったため、曖昧な引っかかりはそのまま思考の片隅に追いやられてしまった。
そうしてこの違和感は未だ遠いある日まで忘れ去られることとなる。
「あなた達は、これからどうしたい?」
彼女がごく自然に意識しながら問いかけると、二人は少し驚いたように目を丸くした。
「どうしたい……ですか?」
「あ、ああ。うん。そうだ」
君主らしさがブレブレだが、今の彼女にはこれが精一杯だった。
夏侯覇と大喬は互いに顔を見合わせる。まさかそのような質問をされるとは思っていなかったのだ。良い意味で予想外だった。まるでそれが当然であるかのようになめらかな口調で、捕らえられた不審者の今後を尋ねたこの国の君主は、何を口篭っているのかと不思議そうな顔をしている。しかし急かす言葉はその口から出て来ない。「どうした」と二人を気遣うような言葉なら出て来たのだが。
「いえ……、差し出がましいこととは存じますが、よろしいのでしょうか?」
「なにが?」
「俺達は、自分で言うのもアレですけど、怪しいじゃないですか」
「え? ……ああ、いや、そうだね。そうだな。うん。それで?」
「いや、それでって……」
尋問や処断は、しないのか。
それを普通ならば『される』側から訊くというのもおかしな話ではある。とは言え、それ以上におかしいのは他ならぬこの西涼の君主であることだろう。不審者を『捕らえた』にも関わらず、彼女は当たり前のようにその手を離そうとする。
「……してほしいなら頑張る、が」
「いやいやいや、そりゃあ俺だって本当は勘弁願いたいですよ」
「じゃあやめよう。それで話は戻すけれど、どうするかは決まっているんで……決まっているのか?」
――やはりおかしな
揺るぎない意思を微笑みで表す彼女を見て、夏侯覇と大喬は再び顔を見合わせるのだった。
「では、貴方様がよろしければ――」
ああ、愚かしくて笑みが溢れる。
人質が何だと言うのだ。人道非道が何だと言うのだ。果たしたいことがあるのなら何と謗られようが構わず貫けば良い。成りたいものがあるのなら他者をどう扱おうと心動かさなければいい。敵軍の軍師は実に愚かな青年だった。あれでは軍師と名乗れる時期もそう長くは無いだろう。
規則正しく揺れる馬の上で、賈詡はゆるりと口角を上げる。
一晩明け、二晩明け、姜維軍はこまめに休息を摂りながらも着実に漢中へと撤退していた。その間、軍の頭たる姜維は終始無言であった。彼もまた愚かだと賈詡は思う。目先の損失にばかり気を取られて大局を見ようとしない。尤も、今回はそのおかげで西涼は一先ず生き存えられたのだが。
――さて、これからが肝心だ。
敵地にて、馬上にて、賈詡は独り狡猾に嗤う。
地に足をつけた己の姿を省みることもせず。
賈詡さんがようやく西涼に帰ります。お疲れ様です賈詡さん。
もっとさくさく進められるよう頑張りますね。