「賈文和、只今帰還しました」
跪いて頭を垂れる賈詡に、彼女は「おかえりなさい」と微笑んだ。
賈詡の姿を見るのは実に
「戦はどうだった?」
首を傾げながら尋ねる彼女に、賈詡は胸を濁すものを感じつつも笑って誤魔化す。
「あっははあ! まあ、負けましたよ」
「そっか……残念だったね」
「いや、そうでもありません。元より負けるつもりの戦でしたから。如何に被害を抑えるかに悩んだくらいですかね」
その言葉に彼女は不思議そうな顔をする。戦とは勝つために奮うものだと認識している彼女にとって、負けるつもりで命を懸けるなど想像も出来ない。得るものが無いとわかっているのに、なぜ戦うのか。それでは損をするばかりではないか。
作戦だから。命令だから。仕方ないから。そう説明されてもピンと来ない。
「……何人、その……亡くなっ、た?」
どこか空虚な彼女の言葉に賈詡はあっけらかんと答える。
「さて、数える気にもなりません」
それほど多くの人命を失ったと、戦争を知らない彼女に言う。彼女も帰って来た兵達が明らかに減っていることには気付いていた。しかし全員死んだとは考えられなかった。
考えたくないのではなく、
「……そう」
一つ頷いて、彼女は賈詡に休むよう言い渡した。事実疲れていた賈詡はこれ幸いと広間を出て行く。沈黙がガランと響くその場所で、彼女は静かに手を合わせた。どうか安らかに、と。
それに心が込もっているのかを問う者は居ない。
疲れを取るよう休めと言われた賈詡だったが、君主の前から向かった先は書物を保管している部屋だった。現君主の彼女が書庫と呼ぶその部屋は主にここ西涼を治めていた歴代の政治について記した書物を保管している場所である。
一言に政治と言っても今は群雄割拠の戦国時代。つまりは一国を支えるために成した『軍略』のすべてであるから、その記録はとにかく量が多い。
先ずこの軍略は大きく『政略』、『軍事』、『人事』の三つに分けられる。『政略』は主に国そのものが栄える目的で施行され、外交もここに当てはまる。『軍事』は徴兵や、集めた兵の鍛錬、他に武器や兵器の開発なども含まれる。『人事』は臣下の処遇を決めるのだが、発展した国ほど多くの臣下を持っており、役職の数そのものも同じように多い。
また、この三つ以外にも戦闘の記録、交易など金銭面の記録、その他公には出来ないような記録もこの部屋に詰め込まれている。そのため部屋は広く、天井は高く、並べられた棚には媒体を問わず様々な書物が収められているのだ。文章嫌いへの拷問に使われそうな部屋である。
勿論、賈詡は並べられた文章を読み耽るなど日常茶飯事なため苦にも思わない。あくまでも文章を読むことは、だが。
「いやはや、これは流石に目が足りない」
愚痴るように呟くその声は、しかしどこか充実感に喜んでいた。片付く気配も無い未読の山に辟易するのも確かだが心踊るのもまた事実。賈詡は生来鋭い目を書面へ落とす。貪るように、射殺すように。
そんな姿を見て、声をかけることを戸惑っている影が二つ。
「どうしましょう。お邪魔ではないでしょうか?」
「だな。ちょっと都合が悪そうだよなぁ」
「また後日伺いましょうか」
「そうしたいけど、やっぱり失礼じゃないか?」
「……どうしましょう」
「読み終わるのを待つ、か? いやそれもいつになるか……」
「……さっきから聞こえてるんだが、わざとか? アンタら」
呑気なやり取りにどこぞの君主様の顔が浮かぶ。先程より重くなった気がする頭を押さえ、賈詡は声の主へぐるりと向き直った。いきなり投げられた言葉に驚いたらしい二つの人影は、びくり、ガシャン、と身を竦める。
(……
まるで金属同士を軽くぶつけ合ったかのような硬質な音に、賈詡は自然と首を捻る。そして見えたものに思わず喉を詰まらせた。
目を疑うような美女と、目を疑いたくなるような全身鎧の男がそこに居た。
「ご、ごめんなさい! 私達、ご挨拶にと伺ったのですが……」
「あ、はは……いやすみません、結局お邪魔してしまったみたいで」
美女と鎧男は心底申し訳無さそうに縮こまる。その度にガシャガシャと鎧が音を立てた。どんな組み合わせだと突っ込みたかったが、それよりも、と賈詡は一つ咳払いをする。
「挨拶と聞こえましたが、それは一体?」
「あ、はい」
口を開いたのは鎧男だ。
「俺達、新しくこちらの君主様に仕えることになりまして」
――は?
数秒、間が空いた。せり上がってきた間抜けな声を必死に飲み下し、賈詡は努めて冷静に「と、言うと?」と詳細を促す。賈詡の声は動揺の所為で少し震えていたかもしれないが、呑気そうな二人は気にした様子も無い。至って素直に説明をするのは傍らの美女だ。
「私達、戦場から逃げて来たんです。そしてこの西涼の兵士さんに捕まって、君主様にご面会しました。その際君主様が、『このあと何をする予定も無いのなら、二人とも護るからここに居ればいい』と仰ってくださって……」
ここで二人は顔を見合わせる。言葉を続けたのは鎧男だ。
「それで、ただ何もせず居座るのも恩義に反するってんで、俺達で良ければ君主様のちからになろうとお仕えすることを決めたんです」
――何を勝手なことを。
賈詡は外聞も気にせず文字通り頭を抱えたくなった。ついでに言うなら悪態も一つつきたくなった。逃亡兵なんて忠義を疑うような輩を。護るからとそんなちからも無いくせに。「お優しい方で安心しました」と微笑む美女にあのお人は考え無しなだけだと言ってやりたい。
「あははあ、それはそれは……」
腹の中で暴れ回る感情を押し込めた末に苦笑という表情を選んだ賈詡に、美女と鎧男はそれぞれ大喬、夏侯覇と名乗る。賈詡も簡単に自己紹介をし、短い会話の後に急用を思い出したと言ってその場を立ち去った。二人は引き留めもせずに笑って見送った。その姿に嫌でも既視感を覚える。
向かう先は勿論、二人組の逃亡兵を疑いもせずに受け入れたお優しい君主様のところである。
――本当に、嫌になるほど優しい方だ。
と言うよりはお人好しが過ぎるのだ。狂ったように防衛を繰り返すのも、奪われたその地を奪い返せば済む話だろう。あの方は何をそんなに意固地になっているのだ。いや、理由はわかっている。わかっているからこそわからなかった。妄執に取り憑かれて身ばかりではなく国をも滅ぼすのは愚の骨頂。ああ愚かなる我が主よ、広くものを見よ。疲弊する国土を、民を見よ。貴方の護りたかったものを見よ。今の国のどこに平穏があると言うのだ。笑顔の民はどこに居る。――すべて、すべて、死んだではないか!
これでは乱世を終わらせることなど出来ない。
だから、とその男は立ち上がった。
一枚岩だったからこそ辛うじて掴んでいた希望を、足元から崩した。
残りは待つだけでいい。そうすれば、勝手に瓦解してくれる。
男は、誰よりもそれを知っていた。
「どういうつもりですか」
出て行ったと思ったら一刻と経たないうちに怒りの形相で戻って来た賈詡に詰め寄られ、肝の小さい彼女はすっかり気後れしていた。未だ城で養生している民達と少し話し合っていたのだが、彼等も賈詡の物々しい雰囲気を感じ取り、へつらうような笑みを浮かべて足早に立ち去ってしまった。一人残された彼女は上手く回らない口をもごもごと動かしなんとか言葉を発する。
「な、なにが?」
「何がとはお言葉な。あの逃亡兵二人ですよ」
怒られるようなことをしたかと必死に思い返していた彼女はあの人達がどうしたのかと首を傾げる。逃げて来たのを保護すると言ったら、では恩返しにと仕えてくれることになった。二人から聞いた内容とまったく同じことを彼女は言う。彼女にしてみればちからになってくれる人が増えて喜ばしいことなのだ。賈詡の負担も減るだろうとも思っていた。そのため、なぜこんなにも怒られているのか納得出来ない。
賈詡はどうにも頭痛がしてきたように錯覚する。考え無し、と思っていたがそれよりも厄介だ。考えてはいるのだ、一応。ただそれがべったべたに甘いだけで。
善意。善意。善意。根幹にあるのはそればかりだ。目の前しか見えていない、先を見ることをしない、身を滅ぼす理由としてはありふれている思考である。
しかし――それでは
「貴方という人は、」
ため息を吐きたくなるのを堪え、賈詡は絞り出すように低く低く声を這わせる。
「お人好しが過ぎる」
奇しくもそれは、遠くの地でとある男に決断をさせた思いと同じで。
その声音に彼女は、心の臓を直接殴られたかのような鈍い痛みを覚えた。
「……ごめんなさい」
胸に痛みを感じたとき、彼女は無意識に謝っていた。どこかで同じ痛みを受けたことがある。あれはいつだったか、どこで、何が原因だったか。この『見捨てられてしまう』と思わせる、自分へ向けられた冷たい苛立ちの正体は何だったか。
彼女は必死に思い出そうとしたが、ついに気付くことは出来なかった。