タイトルまんまのちょっとした地獄です。
それは、流し込まれた記憶の断片。
複数の場面が、ネオ・ロアノークの脳裏にちらついた。自分を〝ムウ〟と呼んだ栗色の髪の彼女を、困ったように微笑む彼女を、まばゆい光の向こうに幻視する。
しかし、それが自らの記憶ではないことを、光条と共に薄れる現実感が伝えてきていた。
ただ一つ、自分に〝ムウ〟と絶叫した彼女の声を除いては。
──それは自分ではない。
──だが自分を指している。
彼女が見ているのは、自分の向こうにいる知らない男だ。それでも、自分が惚れた女の泣いている所を見たい男はいない。
自らの凄まじい認識能力でもって、ネオは状況を全て理解していた。
だからこそ。
「大丈夫だ」
ネオは口にしたのだ。
「俺はもう、どこにも行かない!」
シン・アスカに返したものと同等か、あるいはそれ以上の嘘を。
思えばそれが、狂気の始まりだったのかもしれない。
それからはあっという間だった。トントン拍子に進んだ停戦、複数陣営で立ち上げた組織への派遣、いまだ抵抗を続けるブルーコスモス残党への武力介入。連日に渡った戦闘には、何故そこまで戦火を拡げたがるのかと呆れが勝る。
ベッドから起き上がって早々、疲労を訴える身体で洗面所へと向かう。洗顔のあと、タオルで水気を取って鏡を見つめる。
横に大きく傷跡が残るが整った顔貌。サファイア・ブルーの瞳と目が合って、軽い笑みを浮かべる。
そうして、穴の空いた
〝俺はムウ・ラ・フラガだ〟という意識を。
戦いが日常になってなお、人々は変わらず過ごしていた。軽口を交わし、コーヒーの味に文句をつけて、家に帰る。ネオもそうだ。常に死と隣り合わせであっても、当たり前に水も食事も喉を通る。
今日は快晴だ。雲ひとつない空を、鳥が数羽飛んでいく。
アークエンジェルの甲板に寝そべりながら、ネオはそれを眺めていた。
「ムウ」
降ってきたのは柔らかい女性の声。この一年で聞き慣れたものだった。視線を向けなくても、わかる。
「マリュー」
休憩中だったネオとは違い、彼女は先ほどまで会議に出席していたのだ。わずかに疲れが見えるが、それを認識できるのは彼だけだろう。
お互いにねぎらう言葉をかけて、マリューはネオの隣に腰を下ろした。何を話すこともなく、ただ静かに過ごすこの時間は、ネオにとって安心できる場所であり神経をすり減らす場所でもあった。
ごまかすための言葉もなく、取れるリアクションもない。必死に〝ムウ〟の姿を保つために必要な動作を封殺されてしまうのだ。
「気持ちいい風ね」
「ああ。こうして空を眺めるのも悪くないな」
自然に返した言葉。けれど、それが〝ムウ〟の口調としてふさわしいものだったかどうか。内心で反芻しながらネオは息を殺す。
横顔を覗き込むマリューの目が、わずかに揺らいだ気がした。──間違えたか? 一瞬、不安が首をもたげるが、マリューはすぐに視線を空に戻ず。しかしその横顔に、問いかけるような陰りが走ったことを、ネオは見逃さなかった。
「ムウ」
「どうした?」
「……いえ。何でもないわ」
ネオは笑みを浮かべた。いつも通りの軽い、ちょっと調子のいい男のそれを。
「何だよ、気になるじゃないか。ほら、話してみなって」
しかし、彼女は頷かなかった。潮風がマリューの髪を揺らし、香水でも整髪料でもないかすかな匂いがネオの鼻先を掠めていった。
「……本当に、何でもないのよ。ただ……貴方がそばに居てくれるだけで、安心できるから」
とうに鈍麻したと思っていた心のどこかで、茨に縛られたような痛みが走る。締め上げ突き刺されるようなそれに、ネオの身体が一瞬強ばった。
マリューの言う〝安心〟は、自分が〝ムウ〟をなぞることで生まれている。だがそれは、本当に彼女の為なのだろうか。それとも自分のためなのか。はたまたそのどちらもか。前者だと思いたいが、断言はできない。
「そりゃよかった。恋人の安心出来る場所でなけりゃ、ただの甲斐性なしなからな」
冗談めかして返したのは、本音であった。マリューの心の安寧に繋がるのなら、自分という器を〝ムウ・ラ・フラガ〟で満たすことなど容易い。彼女のためなら、どんな卑怯な手段も辞さない。それが〝ムウ〟として生きるネオの義務だから。
甲板まで上がってきたクルーがムウの名を呼ぶ。どうやら、ネオに用事があるようだ。マリューに頷いて、ネオは立ち上がる。
「また後でな」
「ええ。気をつけてね」
艦内に入っていく背中に、彼女の視線が逸れないのを感じる。見送るようでいて、どこか不安を宿した瞳。探るような眼差しが遮られた先で、ネオは息を吐いた。
──今のは、危なかったかもしれない。
何気ない一言が〝らしくなかった〟のか。あるいは、ほんの僅かな振る舞いが〝ムウ〟のそれと違っていたのか。自分を安心させながらも、自分を追い詰めているのはいつだって彼女だ。
愛しあった過去など持っていない。それでも、彼女がそうであったように、自分もまた、彼女に心奪われていた。
そんな彼女のためと与えているものは、ただの幻──否、そう称するのも烏滸がましい嘘で、虚飾だ。虚偽にすぎない。けれどそれを暴露するのは、今の自分にとって死よりもはるかに恐ろしい。
立ち止まったネオを、先に向かっていた彼がじっと見つめていた。
「ムウさん?」
「あぁいや、何でもないさ。それより、用事って?」
思案するあまり忘れていた。彼が隣にいることを。極めて軽くたずねて、帰ってきた答えは機体の調整に関することであった。意外と短く終わったそれの後、甲板から降りてくるマリューが見える。
どうやら用事が入ったらしい。短くやり取りして、彼女は足早にアークエンジェルの出口へと向かっていった。
いつだったかは、明確には覚えていない。
記憶の底に追いやってしまったから。
夜。僅かな照明が残った中で、マリュー・ラミアスは艦内を歩いていた。格納庫に忘れ物をしたのを思い出したのだ。別段必要なものでもないが、翌日になって忘れるかもしれない。そう思ってのことだった。
忘れ物は最後に見た場所と同じ所にあって、制服のポケットにしまい込む。部屋への帰り道、何の気もなしに食堂の方へと目を遣った。照明の落とされた薄暗い室内で、わずかに光を反射する青い瞳が目につく。
それがなければ、寝てしまったのかと思っただろう。そして、彼を起こして部屋に返しただろうとも。しかし、彼は何を見るでもなくそこに立っていて、声をかけることをためらわせる。
彼は微動だにしなかった。ただそこに、無機質にさえ思える立ち姿で、いた。
普段とは違う雰囲気が嫌に鋭く肌を刺した。なぜそう感じたのか、マリューはすぐに理解することになる。
普段とは違う、という言葉では済まない何かがそこにあった。例えば、全く違う人生を歩んできた双子や、見分けがつかないほどの他人でもいい。容姿だけは、いつもの〝ムウ〟だ。少なくとも。だからこそ、わからない。
もちろん、彼にも真剣な時はある。厳しい顔もするし、怒る時は怒る。だが、委縮させるような態度ではない。
「──ムウ?」
そう呼び掛けたのに、ネオが振り向いた。いつもの、重力にとらわれていないような軽い調子の笑みがそこにはある。
しかし、それが普段のものとはどうにも思えなかった。
「どうしたんだ? もう遅いだろ。寝る前の散歩か?」
「ええ、ちょっとだけ。忘れものもあったから、そのついでにね。貴方は?」
ややあって、ムウは答えた。
「何だったかな。悪い、忘れちまった」
「……そう」
違和感は既に、種ではなく芽吹き始めていた。確信はなく、枝を伸ばせないだけで。
彼女は、 何も言わなかった。否、何も言えなかったのだろう。彼がいるのなら、それでいい。彼はムウなのだから、それだけでいい。
──でも。
それが、心のどこかで棘となって、ずっと前から刺さっているのだ。
ミケール捕縛作戦が始まった。各部隊が散り、それぞれの役割を果たす中、キラ・ヤマトが不可解な動きをとった。それは譫妄か、錯乱か、あるいは反乱か。それからすぐ、アークエンジェルが味方のはずのブラックナイツに襲撃され、さらには連合から核が放たれたという情報が飛び込んでくる。
流れ出した水のように状況が推移していく。何がどうなっている。彼が反乱? ありえない。連合は愚かだがこの場で核を放つほどではない。なぜブラックナイツが、アークエンジェルを狙っている?
──マリューは、他のクルーはどうなっている。
「お前らあぁぁっ」
激高しながらも、ネオはアークエンジェルへと向かった。もちろんそれはブラックナイツが迎撃してきて、腕と頭部を破壊される。半ば墜落に近しい形で、ネオのムラサメは黒煙に包まれた谷底に落下していった。外壁も破壊され、艦内は露出しているアークエンジェルが見える。そこに寄りかかっているマリューをほとんどノータイムで視認して、ネオはムラサメを着艦させた。
「──すまん。待たせた」
ハッチを開け、身を乗り出した。マリューの士官服は煤や破れでボロボロであった。もう少し遅れていれば、どうなっていたか。
煙のせいか、安堵か、彼女は「遅いわよ」と気丈に振る舞ってムラサメの手に登る。
『我々は地上を追われた』
──まったく馬鹿馬鹿しい。
その言葉が欺瞞であることは、ネオでなくても理解できるだろう。オルフェ・ラム・タオの仰々しい演説をに白けた感情を抱いた彼は、慣性に従って航行する。
自分にはすでに役割が与えられていた。カガリ・ユラ・アスハからの〝密命〟。そのために、彼はマスドライバーで打ち上げられ、こうして宇宙を移動しているのだ。
──先だって宇宙に上がり、レクイエムの破壊を遂行する。それが、〝ムウ・ラ・フラガ〟に託された任務である。
コクピット越しに見える宇宙からは星が瞬いている。人類が醜い争いをしている間も、その光は美しくあり続け、自分に問いかけているように感じた。
なぜ、自分は〝ムウ〟を演じているのか。
なぜ、自分はそれを選んだのか。
なぜ、自分は罪悪感を抱いていないのか。
マリュー・ラミアスを悲しませたくないからか? そっくりな顔貌を持ち、彼女を惑わせた罪滅ぼしか? それともなんだ?
静寂がコクピット内を包む中、心の奥で冷徹な自分が笑った。
──違う。
──現状維持の番人でいるだけのお前に、そんな高潔な精神はない。
ただ、恐れているのだ。真実を告げ、彼女の信じた〝ムウ〟はいなくなり、残された〝誰でもないネオ〟が暴かれてしまうことを。
マリューが自分を呼ぶときの声音に、疑いともとれるいろが混じりつつあることを知っている。それでも彼女は何も言わなかった。違和感を口にせず、見ないふりをしてくれる。それに縋り依存し甘えている自分に吐き気がする。なんと矮小な人間なのであろうか。
座標変更を終えた偏光リングが見える。最後の移動を終えたネオは、レクイエムの発射口の目前で静止している。焼き尽くされた未来が、その奥で息を潜めている。。それを防ぐには、己の乗機たるアカツキはあまりにも小さい。デスティニーの追加装備たる〝ゼウスシルエット〟があっても。
大丈夫だって。俺は不可能を可能にする男だぜ?
出発の直前にかけた言葉を反芻する。嘘がここまで来た。ならば、最後まで貫き通せばいい。狂気であることはもとより承知している。その仮面を被って笑っていられるうちは、彼はまだ、彼女の隣にいることを許される。
射線が合った。レクイエムの偏光リングを正確にとらえ、ネオは引き金を引く。
願うことなどない。それが命中することは、ネオの勘が確信していたから。
荒れ狂う光の奔流の中で、無数のアラートが耳に届く。どうやら装甲の損傷が想定よりも甚大らしい。しかし、ネオの中に恐怖はなかった。最後まで貫き通す嘘、それがここで最後になるのも悪くないかもしれない──どこか疲れた心が、そう主張していた。
それに対し、アカツキは許しを与えてはくれない。金色の装甲は、破滅の光さえも跳ね返してしまうらしい。──不可能を、可能にしてしまった。
マリューが自分を呼んでいるのが聞こえ、そうだ、と思い直す。
ネオは、機体の中で肩をすくめて呟いた。
「やれやれ……不可能を可能にするのも辛いよね」
〝ムウ〟ならきっと、そう言うのだろうから。
すべてが終わった。ファウンデーションの目論見も潰え、ブリッジに入ったネオをマリューが抱擁と共に迎える。
クルーからの冷やかしや歓声を一心に浴びながら、ネオはマリューの腕の中で悟る。
とうに戻れなくなっていたのだ。
自分も彼女も。
細かいところで詰められていないと思いますが、お目こぼしを戴ければ筆者は助かります……。