のはらリン「今度こそ悲劇の運命を回避するッ!!!」 作:しじみ兆
翌日、教室の空気は奇妙に整っていた。
誰もが昨日の出来事を、まるで最初からなかったことのように振る舞っていた。
担任も、他の子も、サクモという名を口に出す者はひとりもいなかった。
代わりに、「今日の天気」と「先生の口癖」と「変化の術の難しさ」の話が飛び交っていた。
その中で、彼だけが、どこにもいなかった。
カカシは、教室のいちばん奥の席に、ずっと黙って座っていた。
誰にも目を向けず、何も口にせず、ただノートを開いて筆を走らせていた。
筆圧が強い。
ページの裏にまで、線が滲んでいた。
(……全然、眠れてないんだ)
顔色が悪い。
姿勢は真っ直ぐなのに、背中が妙に小さく見える。
私は、それを見ているだけで苦しかった。
本当なら、今すぐ隣に座って、何でもない話をするだけでいいはずなのに──
足が、動かない。
(また、見てるだけになる?)
問いかけるように、胸の奥で“あの声”が響いた。
──お前は、何を守りたい?
私は立ち上がり、ゆっくりと彼の席に近づいた。
「……カカシ君」
声は震えていなかった。驚くほど静かに、まっすぐに出た。
彼は顔を上げた。
だがその目には、何もなかった。
感情も、拒絶も、優しさも、空虚すらなく、ただ“無”だった。
「……なんだ」
冷たい声。
表情は変わらないのに、体温が一気に下がるような言い方だった。
私は一瞬だけ、足が止まりかけた。
でも、引いてはいけない。ここで下がったら、もう届かない。
「大丈夫……じゃないよね、今。だから、少しだけでも──話、したくて」
ほんの少しだけでもいい。
黙っていてもいい。ただ、誰かがそばにいることで、崩れずにいられるかもしれない。
「…………」
彼は沈黙した。
だが、それは“葛藤の沈黙”ではなかった。
それは、“断絶”の沈黙だった。
「……別に、話したいことなんて、ない」
「でも、私は──」
「──放っておけよ」
その言葉は、鋭利だった。
切りつける意図も、怒りもなく、ただ無感情に、真っ直ぐに刺すような声だった。
「お前に何が分かる」
その瞬間、私は言葉を失った。
「父親が、自分の信念のままに動いて、結果、里からも、仲間からも見捨てられて、俺に何も言わずに死んだ。
──それを、誰かに語って癒えるとでも思ってるのか?」
彼の声が、少しだけ震えていた。
「同情も、理解も、いらない。……俺は、もう全部、自分で処理する」
それだけ言うと、彼は視線を逸らした。
机に戻った手の甲が、かすかに白くなっていた。力が入りすぎていた。
私は、立ち尽くした。
(……私、また──)
言葉をかけることに成功したと思ったのは、錯覚だった。
私は、また──拒絶された。
──どうして、泣いたのは私なんだろう。
机に戻ってから、私は自分の手の甲を見つめた。
無意識のうちに、爪が刺さるほど力が入っていた。
誰よりも傷ついたのは、カカシなのに。
何も言えず、何もできず、それで泣いたのは、私だった。
(……最低だ)
ひとつ、深く、息を吸った。
そのまま、こみ上げるものを押し殺した。
──だけど、その姿を、ひとりだけが見ていた。
「……リン?」
その声に、私は肩を震わせた。
後ろから歩いてきた足音が止まり、教室の空気が、音もなく揺れた。
振り返れなかった。けれど、わかった。オビトだった。
「……お前、泣いてるのか?」
机に突っ伏していた私の前に、ゆっくりとその影が差した。
「……違う」
反射的にそう言ってしまったけれど、喉が震えていて、言葉になっていなかった。
「……違くねぇよ。顔、見りゃ分かる」
オビトの声は、低かった。
普段の調子とは違っていて、どこか怒りを抑え込んでいるように聞こえた。
そして次の瞬間、彼はくるりと踵を返して、教室の奥へと向かっていった。
まっすぐに──カカシの席へ。
「……おい、カカシ」
鋭い声が、教室の隅に突き刺さる。
ノートを開いていたカカシが、顔を上げた。
無言のまま、彼はオビトを見返す。
「お前……リンに、何言ったんだよ」
「関係ないだろ、お前には」
「あるに決まってんだろ!!」
机がガタンと揺れた。
オビトの拳が、カカシの机を強く叩いた音だった。
「リン、泣いてたんだぞ。……俺、あんな顔、初めて見た。
言いたくないことも、聞きたくないことも全部我慢して、お前に話しかけたのに──
なんで、そんな言い方するんだよ!」
「……俺の気持ちは、俺の問題だ」
カカシは目を伏せたまま、静かに答える。
「誰にも分かってもらおうなんて、思ってない」
「分かってもらおうとしなきゃ、誰にも届くわけないだろ!」
オビトの声が、教室の天井に反響する。
「リンはさ……お前のことずっと気にしてた。
俺が見てるだけだったときでも、ちゃんと動いた。
泣きながらでも、傷つきながらでも、お前のために言葉をかけたんだよ!」
「……泣くのは勝手だ」
カカシの目が、ほんのわずかに揺れた。
「俺が悪いって言いたいのか?」
「そうだよ!!」
言い切った。
「お前の親父が死んで、お前が一番つらいのは、分かってる。
でもな──それを誰かにぶつけるってことは、誰かがそれを“受け止めてる”ってことなんだよ」
「……」
「リンがどんな気持ちで声をかけたか、お前は考えたか?
“お前が一番つらいから”って、自分の気持ち押し殺して、
怖くても、悩んでも、歩み寄ろうとしてたんだぞ……!」
オビトの拳が、震えていた。
「だから……だから、お前が誰よりもつらいのは分かってるけど、
リンに、あんな顔させたことだけは、……絶対、許せない」
その言葉に、誰も何も言わなかった。
カカシは、何も返さなかった。
私は、そのすべてを聞いていた。
声を出すことも、間に入ることもできず、ただ黙って、机に突っ伏したまま、息を殺していた。
──なにも、言えなかった。
助けたいと思っていたのに、
言葉を届けようとしたのに、
泣いたのは、私だった。
そして今、私のために怒っているのは──オビトだった。
彼が何を感じて、何を思っていたのか、私には分からない。
でも、ひとつだけ確かに分かることがある。
──あのとき、私が言えなかった言葉を、
代わりに叫んでくれたのは、彼だった。
私は、涙の残る頬を、袖で拭った。
まだ何も、変えられていない。
でも、少しだけ──前に進んだ気がした。
×××
夕暮れの木漏れ日が、畳の上に溶けていた。
私は、家に帰ってからずっと、何も口にできなかった。
母の問いかけも聞こえていたけれど、返事をする気力がなかった。
夕飯の匂いが漂ってきても、食欲はどこにもなかった。
自室に閉じこもり、私は膝を抱えて座っていた。
薄暗い部屋の中。
風がカーテンを揺らし、窓際の木々が、影絵のように壁に映っていた。
自分の呼吸音が、やけに大きく感じる。
そのたびに胸の奥が、かすかに痛んだ。
(……泣いたのは、私だった)
カカシが一番苦しいはずだった。
父を失って、信じていたものを踏みにじられて、それでも誰にも頼らずに立とうとしていた。
それが正しいかどうかじゃない。
“誰よりも傷を負っていた”という事実に、私は圧倒されて、追いつけなかった。
(それなのに……)
私は、自分が拒絶されたことに傷ついて。
自分の言葉が届かなかったことに傷ついて。
自分が“泣いた”ことに、腹を立てていた。
(結局、全部、自分のことしか考えてなかったんだ)
私は、机の端に置いたノートを手に取った。
ページをめくると、そこには──あのとき書いた言葉があった。
「次は、声をかける」
指先でなぞる。
滲んだインクが、記憶の中の“サクモの背中”を呼び起こす。
──私は、ちゃんと、声をかけた。
伝えたかった言葉は届かなかったけど。
拒絶されたけど。
でも、それでも、逃げなかった。
「……ちゃんと、声はかけたよ。失敗したけど」
私は小さく呟いた。
あのときの私が聞いたら、なんて言うだろう。
“やったじゃん”って笑うだろうか、それとも“それだけじゃだめだよ”って叱るだろうか。
どっちにしても──今の私は、まだ足りない。
私は、新しいページを開いた。
ペンを握る手が、少しだけ強くなった気がした。
「強くなる」
そして、その下に、こう書き足す。
「誰かを守るために泣くならいい。でも、自分のために泣くのは、今日で最後」
それは、言葉ではなく、覚悟だった。
未来を変えるっていうのは、たぶん、
誰かの“拒絶”にも、ちゃんと向き合うこと。
それでも、隣にいることを選び続けること。
私は立ち上がる。
もう泣かない。
……たとえ泣いても、それは自分のためじゃない。
誰かを守るために、泣ける強さを手に入れるまで、私は歩く。
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