X776年 フィオーレ王国
都市――オニバス。
フィオーレ王国でも有数の商業都市として知られ、各地へ伸びる街道を通じて人と物が絶えず行き交う物流の要衝である。
朝から石畳の大通りには露店が立ち並び、瑞々しい果物に色鮮やかな香辛料、武具に魔法アイテムと、ありとあらゆる品々が軒先を埋め尽くしていた。
商人が客を呼び込み、荷馬車が石畳を鳴らし、旅人と魔導士が人波を縫う。笑い声と怒鳴り声が入り混じる雑多な喧騒。それこそが、オニバスという街の日常だった。
「坊ちゃん! 今日も元気だねぇ!」
「ソーマ! 今朝いい魚が入ったから持ってくかい?」
「お菓子もあるよ!」
商店街を歩く一人の少年へ、あちらこちらから呼びかける声が聞こえる。
まだ五歳になったばかりの少年はふんわりとした金髪をぴょこぴょこと跳ねさせながら歩く。声をかけられるたびに足を止めては元気よく返事を返していた。
この街では、それなりに知られた顔だった。もっとも、それは少年自身が何かを成したからではない。
少年――ソーマ=ゴールデンの父親が、この街で知らぬ者の少ない人物だからである。
人の流れに沿って進んでいくと、やがて通りの一角にひときわ目立つ建物が姿を現す。
黄金を惜しげもなくあしらった華美な外装。正面には、大きく口を開いた四つ首の犬を象った彫像。閉じられた扉の向こうからさえ、男たちの野太い笑い声が響いてくる。その頭上に豪奢な看板が掲げられていた。
『
冥界の門を守る怪物の名を冠した魔導士ギルド。
歴史こそ他の名門ギルドに比べれば浅いものの、創設者である現マスターのもと、すでに王国内でも一癖ある実力派ギルドとして知られている。
何より、このオニバスにおいては――。
ここが彼らの
「んっ……!」
そんな大仰な建物の扉を、小さな少年が懸命に押していた。
まだドアノブにも満足に手が届かない。傍から見れば、いささか――いや、随分と場違いな光景だろう。
それでもソーマが体重を預けるように押し続けると、重い扉が少しずつ開いていった。
隙間から真っ先に漏れ出したのは、酒と汗が混ざった独特の臭気。
ただ、不思議と煙草の臭いだけはしない。ソーマが幼い頃から出入りするようになって以来、このギルドの中だけは禁煙になっていた。五歳児が眉を顰めてもおかしくないそれを、ソーマは気にした様子もなく吸い込んだ。
慣れ親しんだ匂いだった。
外観の華美さとは裏腹に、内部は随分と荒々しい。木造の壁には酔っ払いがつけた拳の跡が残り、床には長年染み込んだ酒がところどころ鈍く光っている。
まだ昼前だというのにテーブルを囲んでカード勝負に興じる男たち。バーカウンターでは大ジョッキを一息に空ける女魔導士。隅では昨日の依頼から戻ったばかりなのか、傷だらけの男が椅子を三脚占領して鼾をかいていた。
荒くれ者。ごろつき。事情を知らぬ人間が見れば、そんな言葉を思い浮かべたかもしれない。
だが――。
「おっ、坊! やっと来たなぁ!」
ソーマの姿を認めた途端、その強面たちの顔が一斉に緩んだ。
「坊ちゃん! 五歳の誕生日おめでとう! そろそろ私の彼氏にならない?」
「おいショタコン女! いくらなんでも手ぇ早すぎんだろ!」
「何よ! 予約くらいいいでしょ!」
「よくねえよ!」
ガハハ、と下品な笑い声が響く。管を巻く酔っ払いは誰しも厄介なものだが、ソーマへ向けられる声音だけは、親戚の子供を迎えるように柔らかい。
それもそのはずだった。
四つ首の番犬の面々にとって、ソーマは物心がつく前から見守ってきた子供だ。血の繋がりこそない者が大半でも、彼らにとってはとっくに家族のようなものだった。
「あとでおはなししてあげる!」
年上の女魔導士へ小生意気に言い返しながら、ソーマはギルドの奥へ進んでいく。
「きゃー! 約束ね!」
「本気にすんな! ボケェ!」
背中でまた笑い声が爆発したが、ソーマは慣れたようにそのまま奥へ進んでいく。
その騒ぎを聞きつけたのか、バーカウンターから一人の少女が駆け寄ってきた。
年の頃は十代前半。荒っぽい空気の四つ首の番犬には珍しく、整った容貌と清楚な雰囲気を持つ少女だった。
「もう、みんな朝から騒ぎすぎ」
「お姉ちゃん!」
ソーマの声が弾む。
彼女はアリア=ゴールデン。ゴールドマインの実娘であり、ソーマにとっては義理の姉にあたる少女だった。
アリアは駆け寄ってきた義弟の髪を軽く整えながら、苦笑する。
「ごめんね? 今日はみんなも嬉しくて仕方ないのよ」
「なんで?」
「なんでって……」
アリアは一瞬きょとんとして、それから弟の頬を両手で挟んだ。むぎゅっと潰れたソーマの頬がぷにぷにと変形する。
「今日からソーマがやっと、正式にギルドに入るからでしょ!」
「むぐ」
「お父さんも、ずっと待ってたのよ?」
そう――今日この日はソーマにとって特別な日だった。
ゴールドマインの養子となり、家族として暮らし始めてから既に年単位で時間は経っている。
けれど今日、五歳の誕生日を迎えたこの日からは、家族としてだけではない。
正式に――四つ首の番犬の魔導士となる。
「来たか、
低い声が響いた――それだけで、先ほどまでの騒音が嘘のように引いていく。
ギルドメンバーたちの視線が、一斉に奥へ向いた。
長い金髪を肩まで垂らし、つば広の黒い帽子を目深に被った男。目元はサングラスに隠れ、口には一本の
このギルドの創設者にしてマスター。
ゴールドマイン。
そして、ソーマの義父だった。
「お父さ――」
「ソーマ」
呼びかけようとした少年を、ゴールドマインが止める。
「今日からギルドじゃ、俺のことはマスターと呼べ」
「……ますたー?」
「そうだ」
ソーマはしばらく考えた。家ではお父さん。でもここではマスター。五歳児なりにその違いを噛み砕いてから、こくりと頷く。
「わかった、マスター!」
「おう」
ゴールドマインの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。そして彼はギルド全体を見渡す。
「テメェら。今日はよく集まってくれたな」
静まり返った室内に、低い声がよく響く。もっとも、普段ならこんな改まった真似をするギルドではない。
それが分かっているからこそ、メンバーの何人かはすでに笑いを堪えていた。
「今日は他でもねぇ。ウチの新入りを紹介するためだ」
ゴールドマインは自分の後ろへ隠れかけた小さな背中を、片手で前へ押し出した。
「改まって紹介なんざ必要ねえ気もするがな。本日付けで『
視線が一斉に集まった。先ほどまであれだけ元気だった少年の肩が、目に見えて固くなる。
五歳でのギルド加入。マスターの親族とはいえ、かなり珍しい例だった。
「俺の息子ってことを抜きにしても、センスはある」
なんてったってこいつはな……とゴールドマインが得意げに口を開きかけたところで、周囲から「はいはい」「親馬鹿が始まったぞ」と野次が飛ぶ。
どっと笑いが起きる中、ゴールドマインは少し恥ずかしげに「うるせぇ」と枝を咥え直し、カウンターの奥へ手を伸ばした。
取り出したのは、一つのスタンプだった。
ギルドの紋章を身体へ刻むための魔法アイテム。その印面には、四つ首の番犬を示す四つ首の犬が刻まれている。
「ソーマ。右腕出せ」
「……うん」
言われた通り、ソーマは緊張した顔で右腕を差し出した。普段は遠慮なく大人の輪へ飛び込んでいくくせに、こういう時だけは年相応に緊張するらしい。
「そんな固くなるな。痛かねぇよ」
「ほんと?」
「一瞬で終わる」
ゴールドマインが短く笑う。
ギルドの中が、少しだけ静かになった。
いつも騒がしい連中が口を閉ざして見守っている。それだけで、ソーマにはこの瞬間が特別なものなのだと分かった。
「いいか、ソーマ」
ゴールドマインは右腕を取り、低い声で言う。
「これはただの印じゃねぇ。『
ソーマはごくりと唾を飲み込んだ。
「一度入れりゃ、そう簡単には消えねぇ。オメェが何処へ行こうが、何をしようが、こいつはオメェがウチの人間だって示し続ける。だから下手な真似すりゃ、ウチの看板にも泥を塗ることになる。覚えとけ」
その覚悟はあるか――そんな問いに、ソーマはこくりと頷く。
「……うん」
「よし」
次の瞬間、スタンプが右腕へ押し当てられた。
「……?」
身構えていたのが馬鹿らしくなるほど、痛くなかった。
ゴールドマインが手を離す。
ソーマがおそるおそる自分の右腕を見ると、そこには金色に近い橙色の紋章が鮮やかに浮かび上がっていた。
父のギルドであり、自分の帰る場所であり、これから自分が背負う名だった。
「……同じだ」
みんなと同じ紋章がついた。それがただ嬉しかった。
ぽつりと漏れた声に、周囲が一拍遅れて沸く。
「おおーっ!」
「似合ってんじゃねぇか!」
「今日から立派なワイルド仲間だな坊!」
「よし、記念に姉ちゃんがいっぱい撫でてあげる!」
笑い声が広がる中、ソーマは右腕を抱えるように押さえた。痛くも、熱くもない。それなのに、胸の奥だけが妙に熱く感じていた。
「ホレ、ソーマ。なんか言え」
「……なんかって?」
「目標だよ。今日からお前も魔導士になんだろ。所信表明ってやつだな」
言い換えがむしろ五歳児には伝わりづらくなっている、なんてことには構わずマスターに促される。
ソーマはぎゅっと拳を握った。胸の奥で心臓が早鐘のように鳴っている。
ずっと憧れてきた場所。
ずっと成りたかった強い魔導士たち。
今日から自分も、その一員になる。
一歩。ソーマは前へ出た。
口から飛び出した言葉も、五歳児らしく真っ直ぐで、大袈裟だった。
「ぼく! せかいサイキョーのまどうしになる!」
一瞬、ギルドが静まり返る。ソーマは勢いのまま続けた。
「あと! くわとろけるべろすを、せかいでいちばんサイキョーのギルドにする!」
沈黙――ソーマの額に汗が浮かぶ。幼心に何か変なことを言っただろうかと不安に思った。
そんな動揺が顔に出始めた、その時。
一人の男が立ち上がった。拳を突き上げる。
「ワイルドォォォォ!!」
「「「「「「「「フォー!!」」」」」」」」
轟音。
天井の梁まで揺れたのではないかと思うほどの歓声が、ギルドを満たした。
酒杯が掲げられ、机が叩かれ、誰かが口笛を吹く。
「言ったな坊!」
「世界最強だとよ!」
「こりゃ負けてらんねえ!」
「まず俺を超えてからにしろー!」
ソーマは目を丸くしたあと、すぐに胸を張った。
父の誇りであり、家族の居場所。
いつか自分が、このギルドをフィオーレで一番にする。そんな幼い夢が、胸いっぱいに膨らんでいくのを自覚する。
「ふぉー!」
少し遅れて、ソーマも両手を上げた。また笑いが起こった。
だが今度のそれは、少年をからかうものではなかった。
同じ掛け声を口にした、ただそれだけのことでソーマには、自分が本当にギルドの一員になれた証のように感じられた。
「よし!」
ゴールドマインが声を張る。
「今日は宴だ! 俺の奢りだ、好きなだけ飲みやがれ!」
「ワイルドォォォォ!!」
それを合図に、静寂は完全に消え去った。
テーブルが動かされ、料理が運ばれ、どこからともなく酒樽が転がってくる。
ソーマの正式加入は、一瞬で宴会へと姿を変えた。
「おう、ガキ!」
人混みの向こうから、聞き慣れた声が響く。
振り向けば、酒樽を片手に担いだ長身の少年が、にやりと笑っていた。
「バッカスにいやん!」
ソーマの表情がぱっと明るくなる。
バッカス。
義父のギルドへ正式に入るよりずっと前から、毎日のように顔を合わせてきた相手。
肩車をしてくれたり、くだらない冗談で笑わせてくれたり、時にはアリアに一緒に怒られたり。ソーマにとっては、文字通り兄のような存在だった。
「ようやくギルドに入ったかよ」
バッカスは少年の頭を遠慮なく撫で回した。
「今日からはギルドでも身内だからな。これからは本気で鍛えてやる。覚悟しとけよ」
「ほんとに!?」
「ああ」
「じゃあ、まほうも! かくとうぎも! ぜんぶおしえて!!」
「おう。ワガママなやつだなぁ!」
バッカスは自信満々に頷いてから、担いでいた酒樽へ目を向ける。
「だが、その前に酒が飲める歳まで待て。そっからが本番だ」
ソーマは首を傾げた。
「にいやんも、まだおさけのんじゃだめだよね?」
「…………」
「バッカス?」
「…………」
アリアも同調するように、ジトッとした表情でバッカスを見つめる。
周囲の視線が集まり、やがて誰かが吹き出した。
「アハハハハハ!」
「五歳児に正論で刺されてやがる!」
「兄貴分が聞いて呆れるな!」
「うるせえ!」
バッカスの怒鳴り声。それを掻き消すような笑い声。アリアの呆れたため息。ゴールドマインの豪快な笑い。料理の匂い、酒杯がぶつかる音。
ソーマはその真ん中で笑っていた。
今日から、自分も憧れたギルドの一員になったんだ。兄ちゃんと、お姉ちゃんと、お父さん――マスターと。
みんなと一緒に——————そう思っていた。
「い、いだッ……!」
突然、小さな身体が崩れ落ちる。
「……ソーマ?」
最初に異変へ気づいたのはアリアだった。
先ほどまで笑っていた少年が、頭を両手で抱えたまま床へ膝をついている。蹲るその蒼い瞳は固く閉じられ、全身の筋肉が強張っていた。
「ソーマ!」
駆け寄る。触れた瞬間、アリアの顔色が変わった。
「熱っ……!」
額から異常な熱を感じる。ほんの数秒前まで、何の兆候もなく元気そうに騒いでいたのに。
ソーマの身体が震え、呼吸が荒くなっていく。
「おい、どうした!」
「ソーマ!」
誰かが叫んでいる。
バッカスが酒樽を放り捨てて駆け寄ってくる。ゴールドマインが人を掻き分ける。
だが、その声は。
もう、ソーマには届いていなかった。
◇
――うるさい。
最初に感じたのは、耳を塞ぎたくなるほどの歓声だった。
気がつけば、僕は大勢の人間に囲まれていた。
すり鉢状に広がった巨大な闘技場。埋め尽くされた観客席。地鳴りのような歓声が幾重にも重なり、何千、何万という視線が中央へ注がれている。
熱狂の渦がそこにはあった。
間違いなく知らない場所だった。こんなところ、来たことなんてない。
なのに胸の奥がざわつく。知っている気がする。僕じゃない何かが、ここを知っていたみたいに。
轟音で視界が揺れ、人影の奥に見覚えのある紋章が見えた。
「うちのギルド……?」
どうしてここに――そう思った直後だった。
『
誰かが馬鹿にするように叫んだ。
「……パピー?」
一瞬、意味が分からなかった。けれど、すぐに笑い声が伝播していく。一人、また一人。それは瞬く間に観客席へ広がり、やがて大きな嘲笑となって会場を満たした。
『今年も駄目じゃねえか!』
『番犬なんて大層な名前じゃなく、さっさと仔犬に改名しろや!』
笑われている。今日、僕が入ったばかりのギルドが。
お父さんのギルドが。
兄ちゃんと、お姉ちゃんと、みんながいる……大切な場所が。
「…………笑うな」
胸の奥から、知らない感情が湧き上がってくる。
悔しい。腹が立つ。それだけじゃない。何年も何年も積み重なったような重い後悔まで、一緒に押し寄せてくる。僕のものであって、僕のものじゃない――そんな感情。
「
叫んだ瞬間、会場が砕けた。
人も、歓声も、嘲笑も――何もかもが無かったかのようにひび割れて、暗闇へ落ちていく。ガラスが砕け散るように、光が散る。
その時の僕は、それが一番嫌な未来なのだと思っていた。――次の景色を見るまでは。
熱い――肌を焼くような熱気に、息が詰まった。焦げ臭い臭いで意識が無理やり覚醒させられる。
気づくと視界いっぱいに赤い炎が揺れている。
石造りの建物から黒煙が噴き上がり、通りを逃げ惑う人たちの悲鳴が耳の奥へ突き刺さる。何かが崩れ落ちるたびに地面が震え、舞い上がった火の粉が空を赤く染めていた。
知らないと思いたかった。こんな悲劇の場所なんて。
――だが、ここは知っている。
分かってしまった。頭の中に、勝手に名前が浮かんでくる。ここは――オニバス。
「……なんで」
朝、歩いたばかりの街だった。
魚を持っていけと笑っていた店主はいない。菓子をあげると手招きしていた露店は、屋台ごと焼け落ちている。荷馬車が行き交い、商人たちの声で溢れていた石畳は砕け、大地には大きな亀裂が走っていた。
全部、燃えていた。
全部、壊れていた。
ただ、怖かった。逃げたいのに、身体は硬直して言うことを聞かない。
それでも視界だけが無慈悲に先へ進んでいく。もつれる足を強引に動かすように、大きく揺れながら。
前へ、前へ――。
視界が止まる。炎の向こうに、人が倒れていたからだ。
「……兄ちゃん?」
人影は……バッカスだった。
ついさっきまで酒を飲みながら笑っていた人。僕の頭を乱暴に撫でて、これから鍛えてやると言っていた。
魔法も、格闘技も。教えてくれるって言っていたはずなのに……今は、血溜まりの中に倒れたまま動かない。
「兄ちゃん……?」
呼んでも返事がない。僕は思わず駆け寄ろうとした。
――けれど、足は一歩も動かなかった。
「待って……」
手を伸ばす。でも届かない。
景色そのものが引き裂かれるように消え、空間がちぎれた。
次に見えたのは、見慣れた白い服だった。けれど今は、赤く染まっている。
「……お姉ちゃん?」
アリアは答えない。
僕の頭を撫でてくれていた手も、優しく僕を見つめてくれていた瞳も、力なく地面へ投げ出されている。
「やだ……」
胸の奥が締め付けられる。
「起きてよ、お姉ちゃん……」
返事はない。
また景色が変わった。
黒いつば広の帽子。長い金色の髪。
「……マスター」
口から出た呼び方に、自分で首を振った。
「お父さん……!」
今日、初めてマスターと呼んだ。僕もギルドの一員だと言ってもらった。ずっと尊敬してきた人。
世界最強の魔導士になる。
四つ首の番犬を世界一のギルドにする。
そう言った僕を見て、お父さんも、みんなも馬鹿みたいに大きな声で笑っていた。
「立ってよ……」
だが、返事はない。
「僕、今日からギルドの一員なんだよ……?」
それでも動かない。どう見ても、眠っているんじゃない。
「お父さん……」
心臓を氷で掴まれたように、身体の芯から冷えていく。
その時だった。
燃え盛っていた街が、突然暗くなった。
夜になったわけじゃない。
何かが、空を覆っている。
僕はゆっくりと顔を上げる。見たくもないものを、見なければいけない。そんな予感を感じながら。
そこにあったのは――黒い翼。
街そのものを見下ろすほど巨大な身体。炎に包まれたオニバスの上空に、それはいた。
人間とは比べることさえ馬鹿らしいほどの、圧倒的な何か。
見たことなんてない。なのに、分かる。
頭のどこかが、その暴力をこう呼んだ。
あれは――竜。
黒い、竜。
「……なんだ、あれ」
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
花火が散るように脳裏が明滅する。
「っ――!」
痛い。イタイ。いたい。
頭が割れる。
それまで断片的に見えていたものとは比べ物にならない。知らない記憶が、一気に流れ込んでくる。
知らない景色、知らない人、見たこともない魔法。恐怖、焦り、怒り、後悔、絶望。その全部が、ごった混ぜの濁流となって頭の中へ押し寄せてきた。
「やめて……」
僕は知らない。こんなもの、知らないはずなのに。
分かる。知っている。自分で見たことのように、自分で経験したことのように。
「何なんだよ……!」
僕の記憶じゃない。そう思いたいのに、頭のどこかではこれは僕の記憶だと分かってしまう。僕が見て、僕が感じて、僕が後悔した。
――違う。違うのに。
「もう……やめてよ……!」
願っても止まらない。
四つ首の番犬を笑う声。
燃えるオニバス。
空を覆う黒い竜。
血の中に倒れた兄ちゃん。
動かないお姉ちゃん。
そして――死んだお父さん。
頭の中で記憶のピースが砕けては繋がっていく。
そこにはいつも、何もできず、誰も守れず――ただ見ているだけの僕がいた。
「……いやだ」
今日、僕は世界最強の魔導士になると言った。
意味なんて、そんなに考えていなかった。ただ憧れただけの大きな夢だった。
みんなが喜んでくれたから。僕も嬉しかった。僕もみんなのために頑張りたい――ただ、それだけだった。
でも、もし。これが本当に起こることなら。
「こんなの……」
喉が焼けるように痛い。それでも叫んだ。
「絶対に嫌だぁぁぁッ!!」
◇
「ソーマ!」
「ソーマ、しっかりして!」
アリアの腕の中で、小さな身体が激しく震えていた。
突然倒れてから、まだ大した時間は経っていない。それなのにソーマの身体は、信じられないほどの熱を帯びている。
「誰か医者呼んでこい!」
ゴールドマインの怒声が飛ぶ。
「もう行ってる!!」
「水だ! 冷やせるもんも持ってこい!」
先ほどまで宴に沸いていたギルドは、見る影もなく騒然としていた。
アリアは床へ膝をついたまま、ソーマの身体を抱き締めている。
「ソーマ、聞こえる? お姉ちゃんだよ」
焦点の合わない瞳が、アリアではない何かを見ていた。
「…………パピー……」
「……何?」
最初に零れたのは、誰にも意味の分からない言葉だった。
「パピーって……何のこと?」
答えはない。ソーマは苦しそうに首を振った。
「笑う……な……」
アリアが眉を寄せる。
「街……もえて……」
「…………何が燃えてるの!?」
小さな身体が大きく震える。
「兄ちゃん……」
「俺はここだ!」
バッカスがすぐ横へ膝をついた。普段の余裕など欠片もない焦りようだった。
「おい、ソーマ! 俺だ! 分かるか!」
それでもソーマの瞳が彼を捉えることはなかった。
「お姉ちゃん……死ん……」
「お姉ちゃん、ここにいるよ!」
アリアは弟の手を強く握った。
「ほら、ちゃんといるから。大丈夫。大丈夫だから……!」
ソーマの指が、ほんの少しだけ握り返す。その反応に安堵しかけた直後。
「お父……さん……」
今度はゴールドマインの表情が変わった。
ギルドの中ではマスターと呼べ。つい先ほど、そう教えたばかりだった。だが、そんなことには構っていられない。
「俺はここだ、ソーマ! どうした、起きろ!!」
ゴールドマインがしゃがみ込み、息子の顔を覗き込む。だが、その声も届かない。
「黒い……竜……」
小さな口から零れた最後の言葉に、その場にいた者たちが僅かに息を呑んだ。
「竜……だと?」
問い返しても反応はない。
ソーマは何かから逃れようとするように眉を寄せると、そのまま身体から力を失った。
「ソーマ!?」
アリアの叫びが、静まり返ったギルドに響いた。
◇
――どれくらい眠っていたのか分からない。
目を覚ました時、最初に見えたのはお姉ちゃんだった。
ベッドの脇に置かれた椅子に座って、腕を枕にしたまま眠っている。僕はしばらく、その姿を眺めた。肩がゆっくり上下し、呼吸している。
お姉ちゃんは生きていた。
「……お姉ちゃん」
喉が渇き、動揺で声が掠れた。それでも届いたらしい。お姉ちゃんがゆっくり顔を上げる。一瞬だけぼんやりして、すぐに目を大きく見開く。
「ソーマ!」
身体を起こすより先に抱き締められた。少し苦しい。いつもならそう言って、離してもらっていただろう。
でも今は、今だけは……僕の方から、お姉ちゃんの服を掴んだ。甘えたい気分だった。
「……生きてる」
「え?」
「お姉ちゃん……生きてる」
変なことを言っているのは分かっていた。でも、他の言葉が出てこない。
「当たり前でしょ?」
お姉ちゃんは困ったように笑った。その手が、いつものように僕の頭を撫でる。
その手は温かかった。決して冷たくはない。それだけで、泣きそうになった。
「兄ちゃんは?」
「いるよ。みんな元気だよ……」
よかった。本当に。
目を閉じれば、眠っていた記憶は残っている。
大勢の笑い声。
燃え落ちたオニバス。
血の中に倒れていたみんな。
そして、あの黒い竜。
ただの夢だったのかもしれない……そう思いたかった。
でも夢にしては、あまりにも多くのものが頭の中にこびりついていた。
知らないはずの景色、人、魔法。何より、あの時感じた感情だけは、今も消えていない。
右腕に視線を落とす――そこには昨日入れてもらったばかりの紋章がある。
僕も、そうであってほしいと思う。
お父さんも、お姉ちゃんも、兄ちゃんも――あのうるさくて、酒臭くて、馬鹿みたいに笑っているギルドのみんなも。
絶対に失いたくない。
だから、あれが本当に未来なのかなんて、今はどうでもよかった。
少しでも、あんなことが起こるかもしれないなら、僕は嫌だ。
何もできずに見ているだけなのは、絶対に嫌だ。
右腕の紋章に触れ、強く決意する。
『世界最強になる』
それはただの夢だった。でも今は違う。
――夢じゃ駄目だ。ならなきゃいけない。
僕はあの恐怖、焦り、怒り、後悔、絶望。その全てを塗り替えてやる。吹き飛ばしてやる。
そして――僕たちのギルドを、誰にも馬鹿になんてさせない。
僕は、僕たちは。
原作開始までストックしてあるので急足で行きます