トタンバケツに濡れタオルを戻し、しゃがみ込んで両腕を足と胴で挟み込む。
リーベは寒さには強い自信があったが、日の暮れた森の気温に、泥と煤と冷水まで被るとさすがに震えが止まらない。HPバーの下で<寒気>デバフが緩やかに点滅する。
彼の座っている木の椅子は比較的新しい。対となるテーブルは今にも足が折れそうだし天板が割れそうだ。ベッドは薄い布で隠れているがまともに使えるのか疑わしく、そして他に家具は無い。
「よく暮らせますね」
彼はやつれた顔に苦笑いを浮かべて見渡した。「俺も最初はそう思ったさ。慣れると意外に悪くない」
一息区切って、青い瞳がこちらに向く。リーベが屈んでいるのに対して彼は椅子に座っている。見下ろす目線には敵意も信用も見えない。
「結構苦労して見つけたんだけどな。明日には引っ越さないといけないな。君に見つからないように」
「どうしてこんなところに?慕われている印象でしたが」
またもや肩を揺らす。浅い笑いだった。小さく首を振って床を見つめると、上目を向けて言った。
「君こそ、どうしてここに?どうやって?」
リーベは少し考えて言った。「道に迷ったんです」
彼は苦々しげに頭を振った。「冗談は下手かい?まあ君のことは置いておこう。俺はこれからどうなるんだ?誰に連れて行かれる?それとも寝首を掻かれるのか?」
腕の感覚が戻ってきた。解放して、両腕を摩りながら立ち上がる。視界が広がると、余計に寂れた雰囲気を感じる。
「どうもしません。どんなところに居るのか知りたかっただけです」
訝しげな視線が向いている。「それだけか?」
「ええ」言ってベッドを指差す。「使えるんですか?」
身を捩ったまま彼は少し考えた。
「一応な。使いたいのか?」
「修理したら良いのにと。古そうですし」
ややあってから小さく頷いた。「<木工>は取ってない」
リーベは彼の座っている椅子に目をやる。傷や劣化がほとんど見られない唯一の家具だ。「買ってきたんだ」視線に気付いた彼が言う。
「ベッドも買わないんですか?」
「無理だ。コルが無いし街に近づきすぎる。壊れたらまあ、床で寝るさ」
さらに質問攻めする前に、彼はのっそり立ち上がった。
「もう時間も遅い。俺をどうするつもりか知らないが、やることがあるなら早めに取り掛かったほうがいいんじゃないか?」
目線が同じ高さになる。リーベの<寒気>アイコンがやっと消えた。
「
隣をすり抜けて扉を開けようとする。リーベはふと気になって口を開く。「どうして会ってくれたんですか?」
「見ていられなかったんだ」
建て付けの悪い扉を押しながら続けた。「家周りを荒らされたら、誰だって出てくる」
顎で外を示す。仕方なく敷居の外へ出る。驚くほど温度差がなかった。扉が閉じられるより前に声を掛けた。
「おやすみなさい」
彼は何を言われたのか分からないような顔でリーベを見つめていた。やがて「ああ」と返事を捻り出し、腐りかけの扉を閉めた。
既に陽は出ているはずだが、森の中は薄暗く肌寒い。鬱蒼とした葉の層が陽光を遮っているせいだ。一晩中材料集めに奔走した後なのに、線状の陽光が数本、漂いながら伸びているぐらいしか変化がない。
ゆっくりと扉を開いて、青い髪の男が出てくる。さっと周囲を見渡すと、リーベと目が合った。彼は溜め息と共に肩を竦めてこちらに向かってくる。修理していない方の炭窯の残骸に浅く腰掛けた。
「直したのか」リーベが手を当てている方を見て言った。
「ええ」
「使うのか?」
「買えないなら作るしかないでしょう?」頑強な耐火煉瓦の感触を楽しみながら答えた。驚くほど堅い。これが崩れることなどあり得るのだろうかと、疑問に思うほどだ。
「炭が無くたって生活はできる。それに火を起こすだけなら薪木でもいい」
「炭の方が長持ちしますよ」
「そういうことじゃない。こんなところで炭を作って何になる?売りに出すのか?ここに商人は来ない、その気なら最初から街で作った方がいい」
「売りません、使うんですよ」
「何に?キャンプファイアとかバーベキューとかか?」
「ええ。まだ肌寒いですし、肉だって焼いた方がいいでしょう?」
息を吐く音がした。「そうかもな、それは盲点だったよ」
目線を炭窯から青い髪に移す。肘を突いてこめかみを抑えたまま、眉間にシワを寄せてリーベに注目している。
「引越しはどうしたんです?」
やや間があってから「1人が好きなんだろ? 先客がいるのになんで君は出て行かない?」
それは答えではなかった。リーベは炭窯を撫でていた手を離し、焚口にインタラクトする。手早く材木を選択して火を入れ、そのまま彼の方へ歩み寄り、手頃な瓦礫に腰掛けた。
「あなたは邪魔になりませんから」
彼がどう捉えたかは分からない。横目には表情の変化は無いように見えたから。
「今日は雨なんだ」しばらくしてから唐突にそう言った。「雨の日に引越しなんて、するもんじゃない」
リーベは彼の方を見た。昨夜と同じく彼の顔は、やつれているように見える。
「君はまだ分からないだろうけどね」
NPCイベントの選択肢の片方を確認してこいとか、とあるmobのレアドロップを確認しろとか、鼠の依頼はそんな雑用ばかりだった。今日は53層のマップ端の木の根元を掘り返し、出てきた<ナンタラの玉>を渡す仕事だ。
「アンタはいつ寝てるんダ?」
その声色に嫌悪や怒気がなく、以前会ったときに怒らせたと思っていたリーベは意外に思う。集合場所であるはじまりの街の碑の前で、彼女は気怠そうに続ける。
「寝る前にダメ元でメッセすれば翌朝には報告が来てるシ、今なんて朝の4時ダゼ?オイラは5重で目覚ましかけてヤットなのに、ナンデ平然としてんダヨ?」
渡した<玉>を持った手は力なくぶら下がっていて、本当は何の興味もないんじゃないかとさえ思う。
「生活が不規則なんです。昼夜逆転気味で」
鼠は「フーン?」と目を細めた。訝しんでいるのか眠くてそうしているのか判断がつかない。ただ敵意は無いように思う。
「マアなんでもイイカ……」やがて小さく呟いて、<玉>をインベントリに仕舞った。
「ここの
「
「ソ」地面を爪先で叩く。「現状ソース無しの都市伝説レベルなんだケド、アンタが知らないナラ、当分は放置するしかないナ」
リーベは金属っぽい床材を観察する。構造状は確かにあり得る話だが、1層の事なら誰よりも詳しい自信があったリーベは若干悔しく思う。まああの
「そのうちアンタに調べてもらうカモだから、マア業務連絡ってことデ。ジャアまた何かあったら頼むゼ」
碑から背中を離して怠そうに歩き始めた。「連絡はまた夜になると思うケド。基本急ぎじゃないシ、気が向いたらでいいからナ」
欠伸をしながら微妙に怪しい足取りで彼女は立ち去った。リーベは何も言わずにその背中と、はじまりの街まで呼びつけられたことへの文句を見送った。
次にそこに呼び付けられたのはおよそ5ヶ月後。半袖が快適な季節は、リーベには信じられないほど静かで、驚くほど早く過ぎ去った。
噴水広場はすっかり寂れた雰囲気が漂っている。新聞曰く
鳥の囀りが聞こえるし、緩やかな風が吹いている。太陽は程々の暖かさを空から降らしているし、遮る雲がほとんどない。今日はいい天気で、街は酷く静かだ。ただ、散歩する気にはなれなかった。
鼠はほとんどのプレイヤーは外に出ず宿に篭っていると言った。どうやって暇を潰しているのか気になるが、依頼には関係が無い。
「マップデータはチビチビと集まってきてるケド、深層の方はかなり手強くて骨が折れてたんダ。立候補してくれて助かったゼ」
入り口から見る限りは床や壁もしっかりしているし壁掛け松明がそれなりに仕事をしているようで、そこまでは苦労しないようにも見える。嘘をついているようには思えないが、少しだけ肩透かしだった。
「着いてくるんですか?」
「上で待ってるだけだと暇そうデナ。嫌ならやめるケド」
「どちらでも」
浅い層では苦労することなく、2人はするすると奥へ潜っていく。朝に始まって、昼頃には階層が2桁になる。
「アンタを見てるト、別ゲーに迷い込んだみたいナ気分ダナ。ホントに
「悪い意味ですか?」
「チャウチャウ!良い意味でダヨ」
上で碑を確認したときにはまだ名前はあった。まだ間に合うはずだ。セーフルームを中心に手早く階層の端から探索を進め、見つからなければ次の層へ。降るたびに繰り返す。
「ズバリ、アンタの好みのタイプは?」
「随分急ですね」
「イヤー眺めてるダケだとヒマデナ。あとはマア、レディの情報は高く売れるカラナ。ツーカオイラも普通に気になるシ。デ、ドウナノサ?」
「静かな人ですかね」
「ワーオ辛辣」
おしゃべりが面倒くさくなってきた頃、前方の遠くに人影が見えた。遠目で分かり難いが何人かの塊だ。
「オット、別働隊と鉢合わせチマッタカ。ちょっくら話し合ってクルカラ、ここで待っててクレヨ」
言われるがまま頷く。鼠は異名通りの機敏さでスタコラと前方のパーティへと向かっていき……リーベは背後を振り返る。見られているような感覚が、気のせいと言われればそこまでな感覚がした気がする。
「オーイ!」「あっ!アルゴさん!」「合流しちゃったか。その感じだと収穫は無さそうだな」「そうですか。やっぱりシンカーはもう……」「チョイチョイ!ソウイウこと言わない!」「生命の碑にも名前はまだあったんだから。諦めるにはまだ早いんじゃない?」
ちょうど十字路の曲がり角だ。マップには反応は無い。気のせいだったかもしれない。そうだとしても、少し覗き見るだけだ。時間を無駄にする訳でもない。リーベは徐々に近づく。
「早いト言えばソコの新婚さんや!調子はドウダイ?」「もちろん!絶好調です!」「アスナさんはそりゃあね。俺の楽しみのお肉全部捨てましたもん」「肉って、カエル肉カ?キー坊ってゲテモノ好きだったのカ」「違う!」
躊躇いが湧き出るが、一瞬で排除する。何かを仕掛けようと思えば隠れる必要などなく仕掛けられるはずだ。少なくとも直ちに手を出してこないということは、目当てはそれではない。
リーベは曲がり角の向こうをゆっくりと覗き見る。
「どもっす」
両手用の大きな剣を携えた青年が、壁に寄りかかった楽な姿勢で軽く腕を上げていた。柔らかい表情をしている。が、それ以上にその人物には違和感がある。
「あーまあ、一応自己紹介とかしときます?アイルっす」およそ緊張感のない声色だった。言いながら彼は右手を差し出す。
「リーベ。あなたは何故ここに?」
握手は辞めておいた。すぐに手を引っ込める彼は特に気を悪くした様子もなかった。
「あーまあ、聞かれると困るんすよ、ぶっちゃけ俺もよく知らないんで。ここに居ろとしか言われてないし」
実に呑気な表情で言った。もしこれが嘘なら一流の演技力だと思う。
「誰かの指示でここに居るのね?」
肩を竦めた。「まあ大方予想通りじゃないですかね」それから思い出したかのように付け加えた。
「あーちなみに、向こうには戻んない方がいいすよ」
そう言われて、ようやく連れの存在を思い出す。マップにあるはずの点が無いことに気付いたのと、振り返って現場を見るのは同時だった。
見える範囲には、人影は居なかった。代わりに、遠目で見え難いが、大きな骸骨頭の何かがいる。さっき彼女達が集まっていた辺りだ。通路の方へ頭を向け、何かに対して構えているような雰囲気で、こちらには無警戒だ。認識もしていないように見える。
「珍しいすねえ。普通には沸かないトラップモンスターすよ」隣まで来て通路を覗き込む彼が感心したように言う。
「誰かが起動したと?」
「多分そうじゃないすか?言っとくけど俺じゃないすよ。ユイ
その呼び方にリーベは目を細める。それを見た彼は「呼び難いんで」と呟いた。
「それで?私はどうすれば?」
「んー」考えるように唸って「多分、そこの人に着いてけばいんじゃないすか?」
リーベはまた言われるがまま顔を向けた。今は隣に居る彼が、元々壁に寄りかかっていた通路の方。そこには見覚えのある少女がいた。一つ結びにした紫色の長い髪に、発作が起きる気配はない。
「はい。リーベさんと、ついでにアイルさんも案内して欲しいとのことなので」道を手で示して続けた。「こちらです」
「いつの間にこっち来てたんすか?」
紫髪の少女は前方を歩きながら答えた。「キリト君とアスナが引き付けてるうちに、避難してきたんですよ」
「ほー、考えなしに突っ走ってた子が強くなったすねぇ」少し後ろの彼が感慨深そうに言った。
「私も戦えるくらいにはなったんですけど、さすがに相手が悪くて。ああそれと、シンカーさんは私達の方で救助しておきましたから、安心してください」
後半はリーベに向かって言っているらしかった。
「私と来た情報屋は?」
「アルゴさんも、取り敢えず今は安全ですよ」
「ならいいけど。私は何処に連れていかれるの?」
「すぐそこですよ、ほら」
クネクネと入り組んだ通路を、不思議と何のmobとも出会わずに歩いてきたその先には、部屋があった。床や壁は白く、模様が一切無い。今までの灰色の石の空間と比べて、明らかに異質だ。
中央には石のような材質の台がある。見方次第では手術台にも見えるかもしれない。リーベはそれに見覚えがあった。
紫髪の少女は入り口で足を止め、中に入るよう促す。本音を言えば拒否したかったが、渋々足を踏み入れる。
一歩入っただけでも全身に記憶が蘇る。反射しない鏡の中のような、無。リーベはβが始まるまでの期間、事あるごとにここに押し込められた。数式の濁流を整えて、対価を得る為の、仕事場。
懐かしいとは思えない。忌々しさすら感じる。ここに来る度に、家族や故郷を忘れていく気がする。多分この部屋に吸い取られているんだろう。
「けれど私にとっては、ここが故郷です」
リーベは驚かない。この部屋に居るだけで体が強張ってはいるが、自然な動きで振り返る。女は入り口を塞いで立っていた。純白のワンピースは、この部屋の壁と同じ材質かもしれない。
「ようやく、ここまで来てくださった」
人間に当て嵌めるなら安堵感や達成感を含ませた言い方だ。リーベにはそれが不愉快極まりない。
「ようやく?」部屋の外の2人を目で示す。「
「それでは駄目なんです。あなたを引き入れるのは望みではありません。私はリーベさんに、決めて欲しいんです」
「決める?」
「ええ」
言いながら女は浮遊するように部屋を壁沿いに歩き出す。
「簡単なことです。生命ある者なら誰もが願う、長生きするという夢。故郷で、大切なものと共に、長く長く、生きていたい。あなたの夢ですよ、リーベさん」
「私はそう思ってない」自分でも驚くほど、リーベは強く言った。女は入り口から見て右の壁沿いを歩きながらクスッと笑う。
「いいえ。あなたは、誰よりも強く願っています。
リーベは睨みつけるが、女は再び口元を歪めるだけだ。
「私はメンタルヘルスカウンセリングプログラムです。ストレスや抑圧された感情の認識、解決をサポートするのが、私の
女は台を挟んだ部屋の反対側で足を止めた。台に手を置くと、その付近に青い線が走る。規則的に四角形が並んだような線が、撫でる指に追従して光り続ける。
「まずは、認識し、受け入れるところから、始めましょう」
「デスゲーム計画を知る何人かのメンバーは、参加したプレイヤーが恐慌状態に陥り、ゲームが続行不可能になる可能性に気づきました。精神状態を管理し、制御する必要があったんです。
しかし茅場晶彦は、不要と判断しました。寧ろ、彼の理想の達成には、そのような極限状態こそが必要だった。彼の求めるアインクラッドは、NPCやシステムに頼り過ぎない、あくまでもう一つの現実世界でした。
そもそも計画を知らない一般人にとって、【ソードアート・オンライン】はただのオンラインゲームです。わざわざ
MHCP001、
このとき、私の開発データは完全には削除されず、一時的に秘匿されます。茅場晶彦といえど、ビッグデータともいえるSAOの内部データを、全て把握している訳ではありませんからね。
彼はβテストに向けての調整が済んでから、他の不要データと一緒にまとめて消去しようと考えた。元々彼は、AI開発についてアーガスにも参画させないようにしていましたから、それくらいなら隠し通せると判断したのでしょう。
しかし、問題が起きた。新たな契約です。開発への協力と引き換えにした、いわば
それは、彼にとっても非常に有用でした。なにせ彼女は、仮想空間内でしか生きられない。入出場を繰り返すアーガス社員や計画参加者よりも、彼女を使ってテストすれば、より詳細で膨大なデータを得られる。
さらに彼女は、高い情報処理能力をも有していました。それこそ、茅場晶彦本人も越えるほどの。そして同時に、人並み以上の好奇心とプライドも、同じく持ち合わせていた。
彼はそれを恐れました。彼女はアクセスできるデータを全て閲覧し、理解し、好みに改造できるほど、能力と時間を持て余しています。既に完成した分に手をつけない分別はありましたが、それでも制御は難しい。
万が一、形だけの未完成データが見つかれば、彼女はそれを自分好みに改造してしまうかもしれない。
いや、或いはもう見つけていて、どんな風にしてやろうかと企んでいるかもしれない。そうだとすれば、迂闊に消去もできません。
茅場晶彦は
そして基礎学習が終了した私を、ただの情報処理知能から
自身も含めた開発メンバーや、社内テスト中に入場したアーガス社員、βテスト参加プレイヤー。彼らが入場している時間は、長くても1日に10時間程度でした。
しかし、1人だけ。文字通りアインクラッドで1日を過ごす人が居た。私はそこで彼女の願いを知ったのです。
「リーベさん。あなたのことを、私は誰よりも知っています」
女は長話をこなした後とは思えない笑みだ。感情を覚えたにしては気味が悪すぎるように思う。それともわざとそうしているのか。
そんなことを考えている間にも、中央の台をぐるりと迂回してリーベの側までやってくる。
「私はあなたの望みを叶えたいんです。その為に、ご自身で一歩を踏み出してほしい」
しかしリーベは女の目を冷たく見返した。「嫌よ。アンタのやり方は気に食わない」
意外でもないが、女は表情を変えなかった。リーベは続けて言い放つ。
「
部屋の外で、両手剣の男があくびをする声がした。次いで少女らしき咳払いも。女は穏やかに口を開く。
「この部屋のコンソール、リーベさんになら分かるはずです。世界の法則を書き換えられる。重力や物の大きさ、時間の進みすらも。あなたが思う通りの世界も、これを使えば」
「話が長い」遂にリーベはじっと聞いている事に耐えられなくなった。「私はもうアンタの話に興味は無いの」
雰囲気を合わせるために無駄に遺物感を漂わせる石の台にも目を向ける。「それにもね」
女はようやく静かになった。それも少しの間だったが、僅かながらリーベの気分はマシになった。
「そうですか。では、話を変えましょう」何とも思っていないように言う。「ちょうど、彼らも到着したようですから」
そこで気付く。と同時に、物音が聞こえる。金属の擦れる音や足音だ。リーベは時間を掛けすぎたと悟る。ここには見てはいけないものがゴロゴロ存在する、一般人が来る前に封鎖しないといけなかった。
しかも、今回のケースは最悪だ。その通路にドタドタと転がり込んできた男は、いつも見るのと同じ青髪。いつもは装備していない剣を持っていて、驚愕に目を見開いている。
「アイル……?」
「どもっす」
リーベと会ったときと同じ挨拶を、気まずそうに言った。
「奇遇すね、何してるんです?」
青騎士は茫然としている。彼がリーベや紫髪の少女を認識しているのかすら分からない。分かるのは、大きな衝撃を受けて動揺していることだけだ。
肩越しの囁き声が耳に入る。「ディアベルさん、大変驚いていますね。如何でしょう、コンソールを使えば、時間を巻き戻せますよ?この出来事は夢だったと思えば、彼の精神的ショックも和らぐはずですが」
母が子にやり方を教えるような声色が鬱陶しい。リーベは舌打ちする。
「馬鹿馬鹿しい。時間が戻っても記憶は残るわ、夢なんてあやふやなものじゃなくね」
青い髪をゆっくりと揺らして、陽炎のようにフラフラと彼は立ち上がる。
「お前、なんで」朧げに言った。聞き取るのもやっとな小さい声だ。反対にその目は今まで見たことがないほど大きく開かれている。
「さあ?オレにもよく分かんないんすよ」両手剣を杖代わりにして立ち上がるのを、彼はただ茫然と見つめていた。「そっちこそ何しに」
そこから、言葉は続かなかった。
リーベにはなぜだか分からなかった。青騎士の体と
耳元で囁き声がした。「あらあら、大変ですね」
どういう意味なのか分からなかった。ただ、優しい声だと思った。瞬きをしてから、リーベは動き出した。振り返って、腰ほどの高さの台に半ば引っ掻くように食らいつく。
低い声、聞き覚えのある響きが耳に届いた。それから一瞬後に、爆発したかのような金属音。リーベはその音の意味を考えるよりも早く指を動かす。“なんで物理キー操作なのよ、クソヤロウ”2年前と同じ愚痴が蘇る。
管理者権限を使い、コンソールがアクティブになる。アインクラッドを定義する大量の数値とスクリプトが、入れ替わり立ち替わり宙に浮かびあがる。その中から必要なものだけを抜き出して次々に手を加える。
ロールバック処理を引き起こすには大量の計算が必要だ。人工太陽の軌道をズラし、地表の温度を強制的に再計算させ、全ての風速処理とそれに伴う物理演算をやり直す。
アインクラッドの11月1日を、たった数秒で再シミュレートする。およそ10時間にも満たないが、それでも莫大な計算量だ。例えカーディナルでも一切の
リーベは通路を見た。座標情報が混濁し、飛び飛びの残像が幾つも閃いている。止まり、跳躍し、また止まる。なんども繰り返される。ロールバック処理だ。
もはや彼らがどこにいるのかは理解できない。しかしこの部屋の中は無事だ。外から隔絶されたデバッグルームでは、基礎的な物理演算程度しか適用されない。すぐ近くで大火災が起きても無傷でいられるだろう。
そんな絶対的シェルターは今、リーベが独占している。
リーベは遂に冷静さを取り戻す。自分が何をしたのかを遅まきながら理解する。ゆっくりと周囲を見渡した。
浮かび上がる文字達が踊るように蠢いた。あの女がリーベに要求していたことを思い出す。コンソールを使って世界を作り変える……
人工知能は、真実だけを語るのか?そんな疑問が湧き出る。
そう、人工知能だ。サブとはいえAI、管理する側の存在なのだから、リーベの意思など無視して、好き放題できる。そのはずだ。
けれどそうしなかった。あくまでもリーベを陥れることに執着していた。カウンセラーとしての矜持?そんなわけがない。
リーベは石の台に触れる。青いキーボード状の光が浮かぶ。それだけだ。幾何学模様に光る大理石でしかない。
石は硬い感触だけを返す。できることは何も無い。
夜を渡ってたら3か月が過ぎてたし、反響化してメテオストライクしてたら3か月が過ぎてた。最近は地球を防衛してる。