およそ2年ぶりに使えるようになった右手をさすりながら、そういえば爪が伸びていないな、とアイルは気づいた。
片手用の爪切りは調節が難しいし、夕香や両親に手入れをされていると恐ろしいほどの無力感に苛まされるから、なんだか解放されたような気分だ。
右手を補うための筋トレも不要なはずだが、こっちは最早日課になっているから辞めることはないだろう(無論VR空間では全くの無意味だが)。
もしデスゲームがどうとかを考えずにアインクラッドで生きられたら、それはとても心地良いんだろう。
肌荒れはしない。着替えはワンタッチ。レポートの期限を思い出す必要はなく、母親がよく吸っていたタバコ擬きや夕香が隙さえあれば飲んでいたビールの紛い物もある。探せばギターだってあるかもしれない。2年もブランクがあると思い出すのに時間がかかりそうだが。
視界に映る連中のうち、どれくらいそう思っている人がいるだろう。アインクラッドの生活が、便利で楽だと感じている人が。
広場は喧騒が支配していた。アイルのようにじっと座っている人も居るが、じっと座っているからならず者たちには何も言わない。
そもそもアイルだってチーターへの文句は山ほどある。2層を開放するだけしてアフターケアはせずにほったらかしとは、相当の考え無しか自分勝手かのどちらかだ。
足の間に挟んだ両手剣の柄に顎を乗せる。右手だけではグラグラするから、結局両手で支えた。
青髪の剣士、ディアベルと名乗った彼は上手く捌いていると思う。発言がどれくらい本心かは分からないが、自分の疑いを晴らしながらチーターへの敵対心を手綱に変換する手腕には感心する。
何故リーダーを買って出たのかは知らない。アイルはいつかバンドリーダーを決めたときのカラオケ大会を思い出した。ちょうど夕香が20歳になった、その翌日。そのときには彼は中心にいた。今は広場の隅の方、塀の出っ張りに腰を下ろしている。
夕香はどうしているだろう。
アインクラッドで生きるために夕香のことを考える必要など全く無いことは、宿を出たときから理解していた。
リーベの手には1冊の本があった。鼠のマークが目立つ、小さな本。ウルバスで消耗品を買い足すときに無料で貰ってきた代物だ。リーベがここにきた理由でもある。
表紙に描いてある鼠は、この本を書いた情報屋らしい。情報屋なのに無料で情報を流すのは矛盾を感じるが、“有志による協力のもと作成しています”という文言は資金面も含めているのかもしれない。
隣にはその鼠らしきプレイヤーが居る。怪しげで薄汚れたのを想像していたが、存外にかわいらしい女だった。
頬には鼠の由来らしき、髭めいた3本線。フード付きのマントはリーベのものより大きく、胴体まで覆い隠している。見た目通りなら身長はリーベの胸あたりまでしかなく、イタズラっぽい笑みも合わせれば中学生くらいといっても違和感はないが、まとう雰囲気は油断ならない。
「ザ・盗み聞きって感じで会議を覗き見てるのは何故カ、一応理由を聞いても良いカ?」
片言というか、わざとらしい喋り方だ。
「気になったけどレイドに参加する程じゃないから、では駄目でしょうか」
「駄目だネ。オレっちでも即座に看破できない隠蔽率の高さはちょっと無視できないナ」
大木を中心にした芝生の広場に50人程度は集まっている。リーベ達が居るのはそこからほど近い、街路樹の陰。誰かしら気づいた素振りは見えなかった。
「マ、まずはお互い自己紹介から入ろうカ」
鼠はフードを脱いだ。肩まで届く鮮やかな金髪で、随分と派手な色合いだとリーベは思う。
「てことで、オイラはアルゴ」リーベの手元を指差す。「
リーベも被っていたフードを上げる。フィールドでも用心して脱がないことが多いから、外ではあまり無い機会だ。入れ込んでいた髪も外に出すと、心地良い解放感が首元を撫でた。
「リーベと言います」
ホホー、と鼠は感嘆したような息を漏らしたが、すぐに元の子供っぽい笑みに戻った。
「こりゃーかなり稼げそうダナ」
「売るなら相応のロイヤリティは頂きますよ」
「オー、結構ちゃっかりもしてル」
もちろん売ったりしないから安心してくれヨ、と鼠は胡散臭い口調のまま言った。
リーベは色々と安心する。情報屋というだけあって信頼がどういうものなのかは知っているらしい。
「それで、その隠蔽スキルはどうやって上げたんダイ?」
緩い声色に対して、肉食動物じみた鋭い目付きが光っている。
「普段からどこでも使っていたら上がっていたんです」
これ自体は事実だ。
「どこでもネ。オレっちも結構色んなとこで使ってるけどそこまではいってないナ」
「街でもフィールドでも、どこでもですよ」
フーン、と鼻を鳴らす。「じゃあ隅っこの木陰に居るのはなんでダ?条件さえ満たしてれば会議への参加は無料ダゼ?」
「興味はありますが、大人数には慣れてないので控えているだけです」
これも概ね事実だ。嘘をつく必要性はリーベにはない。
「そうカイ、マア無理強いはしないヨ」
鼠は口元を歪めたまま言った。
「今のSAOで攻略を目指すなんて言い出した奴がどうなるかは、確かに気になるだろうシナ」
視線が動く。リーベもそちらに意識を戻すと、幾つもの腕が天に向かって伸びていた。
……「俺たちはチーターとは違う!」「誰も見捨てたりなんかしない!」
「全員の力で勝つんだ!」「チーターなんかにゃ負けねえ!」
「俺たちの手で攻略するんだ!」……。
随分と仲が良い。やはり知り合いが多いんだろうか。少なくとも中心にいる
「奴さん、嫌われてるナ」
鼠が気づいているのかは、なんとも言えない。勘の鋭いプレイヤーなら分かるだろうとは思っているし、特に情報屋ともなれば色々と見ているだろうから、気づいた上ですっとぼけていても驚きはない。
リーベも大して隠すつもりはなかった。ただ、目立つのが好きじゃないのと、
……考えたら、チーターの目撃情報には賞金がついていたはずだが、自白すれば貰えるんだろうか。好奇心はあるが別にコルには困っていない。
だが相手は情報屋だ。それならば別の稼ぎ方がある。
会議の翌日、鼠印の攻略本が更新された。
“あるクエストで敵mobを利用して岩を壊すとフロアボスの情報がある”というふざけたものだったが、無作為に選ばれた有志たちにより実在が確認され、その情報を踏まえた作戦が立てられた。
メンバー同士の交流を深めるための狩りも行い、ある程度均等な装備になるよう更新と強化も実施(両手剣は2層でのモンスタードロップが無くアイルは適当な店売り品だが)し、レイド戦におけるルールも決まった。
そして会議の2日後には、情報通りの敵が、想定通りに動き、訓練通りの戦いで討伐された。日付で言えば12月の17日、2層が開いてから6日。
楽勝だった。訓練で戦ったデカめの牛の方が強かったくらいだ。ステータス不足でジリ貧とか、連携が疎かになって戦線崩壊とか、アイルが想像していたハプニングは何も起こらなかった。
不謹慎と分かりながらもアイルは味気ないと思わざるを得ない。
その後の3層攻略会議で“チーターはチートじゃなく実力でボスを討伐した”説が出るのも、攻略組内で楽勝ムードが流れるのも納得してしまう。アイルもそうだった。
結果論だが、それは間違いと言えた。
長時間残る毒霧、緩慢だが高火力な攻撃、そして絶妙な硬さ。どれかがもう少しだけ強力だったら撤退もあり得たかもしれない。或いは2層で勢いづいていなければ。
特にステータス不足が顕著だとアイルは考える。タンク隊はSTR不足による衝撃ダメージを受けているメンバーがいるようだし、DPS隊は全体的に火力不足だ。
アイルは熟練度不足でソードスキルをあまり使えない。通常攻撃が強めな両手剣の特性で誤魔化しているが、DPS隊の大半を占める片手直剣組は明らかにダメージが低い。唯一黒髪の少年だけは上手くソードスキルを使いこなしているが、満足いくダメージは出ていない。
ディアベルもそれは分かっているはずだが、如何せん“イケイケムード”が撤退を許さないと判断したんだろう。それでももう戦闘開始から1時間が経つ。誰もが目に見えて疲弊していた。
ネリウス・ジ・イビルトレント(長いからアイルはネジ木と呼んでいた)のHPバーは既に3本割れ、最後となる4本目もあと半分。終わりが見えるが、だからこそ丁寧に行かねばならない。
削りダメージの激しいタンク3部隊が回復のために下がる。DPS隊も、タンクなしでの攻撃はディアベルが許さない。同じように下がっていく。
回復の時間を稼ぐために前に出るのは、アイルと、比較的HPに余裕のあるディアベルの2人だけだ。まずディアベルが攻撃を受け、次にアイルが受ける。ガード可能な装備なら対処しやすい攻撃が多いから
しかし頑丈な盾と違って両手剣によるガードは削りが厳しい。装備耐久値の消費も大きい。攻撃に対して少しでも斜めになるとすぐに限界が来る。そのせいで視界も塞がる。
集中して構えないといけないから、近づいてくる誰かが居ても正直分からない。
ディアベルが再び防御して、アイルと入れ替わったときだ。
「待て!」と制止するディアベルの声でようやくそれに気づいた。誰かがアイルの横を、高速で走り抜けていった。
勢いよく突進系のソードスキルを放つ。鋭さが際立つようなライトエフェクト、多分レイピアの≪リニアー≫だ。そのまま攻撃が続く。目で追いきれないスピードは細剣の使い手として十分すぎる動きではある。
多分回復に時間を使うのが焦れったくて攻勢に出たんだろう。気持ちは分かるが短気すぎる。
実際今の攻撃だけでは、まだ討伐には届かない。だからといって何度も繰り返すのも厳しい。
数本の根っこによる波状攻撃がくる。ガードしてしまえば全て大人しく引っ込んでいく連続攻撃だが、構えていたアイルにはいつまで経ってもなんの衝撃も無い。
最初のうちは上手く避けていたが、回避しているから根っこは元気に動き回る。やがて足が引っかかり、体勢が崩れたところを勢いよく打たれる。いとも簡単に宙に投げ出される。
人間が重めのボールみたいに吹っ飛ぶ様を見て、アイルは戦慄する。
それをなんとか堪えて走り出す。不要なことかもしれない。むしろディアベルに任せた方が良かった。頭では分かっていてももう走り出してしまった。
次の攻撃の予備動作は始まっていた。ネジ木は植物のくせに器用に身(幹か?)を捩る。さながらボクサーのように根っこのパンチを繰り出すつもりだ。
アイルは近くまで寄って、そこで初めて
ネジ木の触手めいた根が動き出す。ゴゥンと音を鳴らしながら2人に迫る。アイルは肩に両手剣を当てて体重を乗せる。
体が硬まる。足を地面に、砕けるんじゃないかと思うくらいに押し付ける。2年前、黒の軽自動車が目の前に
夕香の声がして、体が嘘のように宙を舞い、数メートルは後ろにあったはずの電柱が気づけば目の前で、頭の代わりに義人は右手を失くした。
今日は誰の叫びも聴こえなかった。足も地面についたままだった。アイルの体はその場から数メートルも動いていない。というか、想像していた衝撃はなかった。剣の耐久も意外と減っていない。衝撃ダメージはあるが不思議な程に少ない。
だが別にどうでもいい。
ディアベルを見やる。彼は既に指示を飛ばしていたようだ。軽く頷いてみせて、すぐに走り出す。傍には黒髪の少年がいた。
少年が攻撃をしてヘイトを取り、すぐに下がる。攻撃はディアベルが受ける。綺麗な
タゲが完全に移ったのを見てから剣を納め、アイルはすぐ後ろでへたっている少女を連れて離脱する。
大鎌を持った少女が出迎えたとき、回復の終わったタンク隊が威勢よく向かっていくのが見えたので、あとはサボることにした。
48人もいるレイド戦は、やはり様々な武器を見ることができる。
片手武器が多いが、中には両手剣や大きな鎌や大斧もいる。
リーベはそういうのを見るのが好きだった。武器の振り方や位置どりや攻めと引きのバランスなど、戦い方から性格が見えるのが好きなんだろうと自己分析している。
例えば青髪の剣士。1層でリーベを
目立ちたがりなら他にも。黒髪の少年。彼は片手剣一本で突出した火力を出しているが、他と比べると
その“待て”を堪え切れなくなったレイピア使い。まだ年端もいかない少女だ。彼女は指示を無視して単騎で突撃し、見事返り討ちにあった。身のこなしはリーベの目から見ても素晴らしいが、短気だ。
よく一緒にいる大鎌を持った少女も似ているが、こっちは引き際を弁えているようだ。扱いづらい大鎌を使いこなしている辺りも、器用さが目立つ。
そして器用といえば、リーベが最も注目している両手剣使い。リーベや青髪と同じくらいの背丈だが、身体の逞しさは段違いだ。その割には丁寧な動きで、躱して斬るを徹底していた。必要となればガードでタンクもこなす柔軟さと、青髪の指示を十全に全うする忠実さ。
その両手剣の青年がレイピアの少女を助けるときに
リーベは≪隠蔽≫スキルをフルに使い、プレイヤーに気づかれないようボス部屋の外周をグルグルと周りながら戦闘を眺めていた。
大人数で強敵に立ち向かい、苦戦を跳ね返す。そこには絶望ではなく戦う意志がある。
これだ。リーベが見たかったものはこれなのだ。βテストでは
閉塞感に悩まされることも減りそうだ。チーターという共通の敵は長生きしないだろうが、十分な働きをした(1層から出ることがメインで、それ以外はついでだったのだが)。
良いものが見れた。久しぶりに口元が緩んでしまうほど、リーベは満足していた。
やがて強大だった大木は討伐される。最後は黒髪の少年だった。やはり他人よりも先を行きたいらしい。
レイドメンバーと上辺だけ喜びあったあと、アイルはその筋肉質な体を縮こまらせながら人混みからの脱出を図った(こうなるのが嫌でアバターは小さめに作ったのだが、その努力はログアウトボタンと共に消えてしまった)。
そのときに彼は不思議な物を見つけた。他のプレイヤーは報酬の確認や互いを労うのに忙しいから、足元に落ちていた短剣には気づかなかったんだろう。
ようやく部屋の端の方まで辿り着いた。壁に背を預けて座り込むと、彼は拾った短剣をまじまじと見つめた。
ボロボロだがなんの変哲もない、ただの店売り品だ。強化も恐らくされていない。SAOの装備品は強化を行うと目に見えて金属光沢が出る(普通使い込んだものならむしろくすんでいくと思うが)から、パラメータを見なくても分かる。
実際にデータを見ても無強化で、耐久も酷く削れている。SAOは実体化したものを簡単に盗めるが、所有者の情報などは調べられない。だがフロアボス戦で無強化の武器を持ち込んで使用したなら、よほど切羽詰まったか遊んだかのどちらかだろう。
短剣を置き、両手剣を抱えて人混みを見やる。次の層、4層へ至る階段はもうしばらく空きそうにない。2層から3層に上がるときもこぞって門を開けに行ったから、予想はついていた。こうやって腰を下ろしているのは時間潰しも兼ねてだ。
ふと、人混みを抜けてアイルの方に向かってくる人影が見えた。青髪の剣士、ディアベル。右手の盾を僅かながら傷つけた彼は「お疲れ様」と軽く手を挙げた。アイルも応える。
「俺の指揮が甘いせいで苦労させたね、すまない」
アイルの隣に座る。「それに最後のことも」
そんなことだろうと思っていた。彼との交流は無かったし、擬似タンクとして選出されたのも武器種によるものだ。
だからアイルは用意していたセリフを言う。“気にしてないすよ”と、なるべく本当にそう思っているように聞こえる言い方で。
「そう言ってもらえると気は楽になるな」
あの少女は大丈夫だろうか。レイピアを持った
「彼女は元々血気盛んだし、今はご友人がケアしてくれてるみたいだから、大事にはならないと思う。また独断で動かれると困るけどな」
苦笑いしながら言った。彼がそう言うなら、アイルから言うことはない。信用しきっているわけではないが、角を立てる理由もない。
ディアベルが何かウィンドウ操作をし始めた。剣を抱えるアイルと違い、片手直剣を腰に納刀したまま座っているから両の手が空いている。少しだけ片手武器が羨ましい瞬間だ。
眺めていると唐突に、アイルの目の前にもウィンドウが開く。ギルド招待の受諾画面。“YES or NO”。
「断ってくれてもいいが」と前置きして「君は間違いなく今日のレイドのMVPだ。実績も実力も十分だと思う。だから君に、俺のギルドの参謀を任せたい」
参謀とはカッコつけた言い回しをする。要するに補佐だろう。彼は「まあそういうことだな」と苦笑いした。
アイルはこの提案を、自分でも驚くほどすんなりと受け入れた。
なにせここには、このギルドには、アイルが生きる理由は無いのだ。アイルが生きようとする理由はここには居ない。
しかしここはアインクラッドで、出る手段は今のところはない。夕香のことも新しい右腕も、受け入れるしかない。アイルははじまりの街の宿を飛び出したときからそのつもりだった。だからアイルは迷っているが、迷っていないことにした。
ギルドメンバーリストを確認したあと、ディアベルは改めての労いと、今後の予定を軽く伝えて立ち去っていった(クリスマスまであと3日だということにどうして俺は気づいていなかったんだ?)。
……いつの間にか短剣が無い。インベントリにも入れていないし、耐久限界で壊れたにしても気づくはずだが。
まあ、どうでも良いか……。
オリキャラばっか目立ってゴメンねぇ。
ちゃぁんと処すからネェヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘラクレスリッキーブルーってカッコイイよね
9/29追記
・リーベがボス戦で隠蔽スキルを使っているように描写を修正
・「......」を「……」に修正。