1話 HELLO my Trickster
それが起こったのは、キヴォトスに来て二日目の朝の事だった。
『みぎゃ──!?』
“!!?”
聞き覚えのある女の子の悲鳴が聞こえて、蓮は慌ててトーストを飲み込んだ。
“どうしたんだアロナ!何かあったのか!?”
『せ、先生!大丈夫です、心配しないでください!!』
シッテムの箱の住人、あるいはそれそのものであるアロナはそう言うが明らかに慌てている。
“待ってろ、すぐにモルガナと一緒にそっちに行く!”
『いやいや、本当に大丈夫ですからー!?』
シッテムの箱にログインした蓮とモルガナは、スパナを片手に
「この、このぉ!シッテムの箱にハッキングとはいい度胸ですね!私の目が黒いうちはそんなことさせませんよー!!」
ハッキングに対抗しているという割には乱暴にスパナで青い扉を叩き続けるアロナに蓮は声をかけた。
“アロナ、ストップ。とりあえず何があったのか教えてくれ”
「雨宮先生ぇ……朝起きたらバックドアが仕込まれてました…。早く壊さないとデータを盗まれちゃいます!」
“………なんか見覚えのあるデザインだな…”
何年も見ていないから確信は持てないものの、蓮はその扉に既視感があった。
”アロナ、それ壊すのちょっと待ってもらえる?”
「え、ええ…?」
「レンの言う通りだ。……ワガハイたちにはその扉に心当たりがあってな、もし想像が正しければ悪いモンじゃないと思うぜ」
「そ、そうなんですか…?」
アロナは怪訝な顔をして扉を見た。……もちろんスパナは構えたままで。
そうして待つこと一分、青い扉がギギッという音と共に開き始める。扉から出てきたのは青いワンピースを身に纏った少女だった。
「……っ!」
「……突然の訪問お許しください。私は……」
少女が自分の名前を言おうとしたその瞬間、蓮とモルガナは彼女の名前を叫んだ。
“ラヴェンツァ!” 「ラヴェンツァ殿!?」
「……!はい、お久しぶりですね二人とも」
ラヴェンツァは蓮たちの姿を見て嬉しそうに破顔する。彼女は現実と夢の狭間に存在する空間《ベルベットルーム》の住人である。複数のペルソナを使えるワイルドの素養を持つ蓮にとって彼女はなくてはならない存在であった。
「ええっと、お知り合いですか?」
「ああ、彼女はラヴェンツァ殿といってワガハイやレンにとって古い知り合いだ。……その、ラヴェンツァ殿?」
「なんでしょうモルガナ」
「……どうやってベルベットルームからシッテムの箱の教室に?」
「ふふ、知りたいですかモルガナ?……本当に知りたいですか?」
妙に威圧感のあるラヴェンツァの念押しに、モルガナはふるふると首を振るしかなかった。
「い、いえ!ワガハイは遠慮しておきます!」
「………冗談ですよ。そんな子猫のように震えないでください、私も悲しくなりますから…」
「ワガハイ子猫ではありません……」
落ち込んでいるモルガナにクスッと笑いながら、ラヴェンツァはどうやってシッテムの箱に入ってきたのかを説明し始めた。
「……数年前、かの悪神の謀略によってベルベットルームは乗っ取られ我々は後手に回らざるを得ない状況に陥ってしまいました。我が主もこの件に関して危機感を抱き、次はこのような事にならないよう幾つかの対策を講じたのです。そのうちの一つが悪神が作り上げたイセカイナビを基にした《ベルベットルーム・アプリ》です」
“ベルベットルーム・アプリ?”
「はい。いついかなる時でもスマートフォンやタブレットに入れたアプリを起動する事でベルベットルームに行くことができます。極論家から一歩も出なくてもベルベットルームを利用できるようになるという事です、便利ですね」
ラヴェンツァはフフンと自慢げだ。
「このシッテムの箱の教室にベルベットルームへの扉が現れたのはアプリとしてダウンロードされたベルベットルーム・アプリの影響です。とはいえ…勝手にアプリを導入したことそれ自体は謝らなければいけませんね。申し訳ありません」
「えっと…確かに驚きましたけど、ラヴェンツァさんは雨宮先生の味方なんですよね?だったら一緒に先生を支える仲間です!これからよろしくお願いしますね!」
「うふふ、物分かりのいい子は好きですよ。……そういうわけなので、これからはシッテムの箱に常駐させてもらいますね?」
“……あぁ、それは別に構わないが…。イゴールはどうしたんだ?”
イゴールとはベルベットルームの管理者である。長期間悪神に成り代わられていたため蓮とは短い付き合いであったが、その奇怪ななりとは裏腹に信頼できる人物であった。
「我が主は、現在新たなワイルド候補を探しておいでです。珍しく従者も連れず…。……ただ、気になる事は仰っていました。……『彼女の運命はもうすぐ始まるでしょう、今はただ準備をするのみ』…だそうです」
「そうですか…。…ですが、ラヴェンツァ殿がいてくれると心強い!」
ラヴェンツァは頷いてから蓮に近づいてきた。
「……トリックスター、今のあなたはかつてよりかなり弱くなっているようですね。ですがご安心ください、私の作った新しい刑務作ぎょ……訓練プログラムを行えばなんとかなります」
「………今刑務作業って言いませんでしたか?」
“色々あって看守をやってた時期があったから……”
「では、これからもよろしくお願いしますねマイ・トリックスター?」
ラヴェンツァはニッコリと微笑んだ。
それから数日後、シャーレの先生の噂がキヴォトスに広がり始めたころ蓮は砂漠地帯をフラフラと歩いていた。
“あ、暑い……”
『わ、ワガハイたちもう駄目かもしれんな……。せめて日陰はないのか…?」
蓮は空になったペットボトルを見てため息をつく。既にこれが最後の一本であった。事前に飲み物や塩飴などをたくさん用意していたが、アビドス砂漠を通るには不充分だったらしい。
『ワガハイたち、なんでこんなところで脱水に苦しめられてるんだっけ……』
“アビドス高等学校から支援を要請する手紙が来たから、一度会ってみようって事になったんじゃないか…。せめて車があればなぁ…”
『無茶言うなよ!影時間じゃないとワガハイが変身出来ない事は知ってるだろ!』
“………無理をしてでもシャーレの部費で車買うべきだったかもしれないなぁ…。いや、こんな砂漠じゃ砂が車の中に入って大変なことになるか…”
蓮は再び歩き出そうとするが、もはや疲労と脱水症状で身体が動かない。彼はそのまま倒れ伏してしまった。
『………レン?オイ、しっかりしろ!死ぬな!!』
“………モル……ナ……”
そのまま蓮の意識は途絶えた。
「………ん、遭難者」
砂だらけのスーツに肩掛けタイプの鞄、近くには空っぽのペットボトルが転がっている。見た感じ、学生ではなく大人のようだ。
「かわいそうだけど、これも自然の摂理。あなたの遺品は有り難く使わせてもらう」
シロコは自転車から降りて大人から遺品を永遠に拝借しようと試みた。とんでもねぇクソガキである。
「………にゃあ…」
「………?鞄から猫の声?」
鞄の中を確認するとそこにはフラフラと足取りが怪しい黒猫がいた。見るからに弱っているが、まだ意識ははっきりしているようだった。
「にゃあ、にゃー!」
「……?その死体がどうかしたの?」
シロコが大人を見ると、なんと死体だと思っていたソレがうめき声を出す。
“…………うぅ…”
「あ、まだ生きてたんだ。………ん、なら学校に連れて行った方が助かるかも」
シロコは自転車を適当な場所に停めてから、彼と黒猫を担いだ。
「にゃー!?」
「大丈夫だよ、あなたたちは運が良い。きっと助かるよ」
アビドス高等学校に辿り着いたシロコはみんながよく集まっている教室に入った。そこには『先輩』以外の全員が集まっている。
「おはよう、みんな」
「あ!おはようございます、シロコせんぱ……い?」
後輩の
「せせ、先輩!?その背負ってるのなんですか!?」
「わあ、シロコちゃんが大人を攫って来ちゃいました!とうとうやらかしちゃいましたねー」
「先輩、それもしかして死体…!?あぁ、こんな時が来るんじゃないかとは薄々思ってはいましたけど、まさか本当にこうなってしまうなんて…」
ニコニコと笑顔が素敵な同級生の
「まだ死んでない、ギリギリ生きてる。とりあえずソファに寝かせて水を飲ませて、ゆっくり休ませよう」
「えぇ!?こんな大変な時期に遭難者だなんて…私たちだって物資が余ってる訳ではないのに…」
「でも、きっと先輩ならこうしたと思う。もしかしたら助けたお礼が貰えるかもだし」
「………はぁ、しょうがないなぁ…」
セリカはため息をついてから貯蓄している水を取りに行った。見ず知らずとはいえこのまま見捨てれば心にしこりが残るからだ。
「にゃー」
黒猫はシロコに向かって鳴いた。なんとなくお礼を言っているのだとわかったシロコは黒猫を撫でながら言う。
「ん、どういたしまして。あまり平和ではないけれど、ゆっくりしていってね」
シロコは備品のソファに寝かせた大人の意識が回復するのを待った。
《ラヴェンツァ》
夢と現実、精神と物質の狭間に存在するベルベットルームの住人。数年前蓮が真のトリックスターとなるための手伝いを行った。
物腰が柔らかい少女だが、怒らせるとかなり怖い。キヴォトスでは主不在のベルベットルームからシッテムの箱に出張し、蓮たちのサポートをする。