崩れた遺構からの脱出から二日が経ち、一行は北西へと続く山道を進んでいた。
道のりは険しい。かつて栄えた街道は荒れ果て、霧に包まれた森を抜けた先には、冷たい風が吹き抜ける断崖と、広がる蒼い湖があった。
その湖の名は――《静謐の湖(セレーン・レイク)》。
「見て、あの湖……まるで、空の鏡みたい……」
リオが断崖の端から身を乗り出すようにして、目を輝かせた。風にたなびく尻尾が、わくわくと揺れている。
「この辺りも、“崩れ”の兆候があるって?」
ユウが背負っていた地図を開きながら、リィナに尋ねた。
リィナは微かに頷くと、目を閉じて魔力の流れに意識を傾けた。
「……魔流(マナフロー)の濁りは、この湖の中心付近から漂ってる。水面の下、何かが眠ってる」
その声には、確かな確信と警戒があった。
「この湖の伝承、覚えているわ。千年前、この地には《記憶を集める神殿》があったと。失われた知識や記録、精霊の言葉さえも、湖底の神殿に封じられていた……」
ミレイアが杖を軽く回し、宙に月を模した魔法陣を描く。そこに、かつての神殿の輪郭が浮かび上がった。
「ただ……あれから何度も地震と魔力崩壊があった。今、その神殿がどんな形をしているかは、誰にも分からない」
「よし、それなら調べるしかないね」
カイは前に出た。湖を見つめるその瞳には、恐れよりも使命感が宿っている。
「湖底に潜るってことかにゃ?」
リオが警戒心をあらわにしたが、リィナは静かに言った。
「その必要はない。私が《転位術式・水鏡門(ミラージュ・ゲート)》で、水中に転移する道を開く」
彼女が杖を掲げ、詠唱を始める。
「月よ、静けさの中に道を照らせ。夢幻の波紋を越え、沈黙の扉を開け――《ミラージュ・ゲート》」
空間が揺らぎ、水面に青銀の円が現れた。それは鏡のように静かな湖面を破り、湖底へと続く光の階段を作り出した。
「行こう。この先に、答えがある」
そして、五人は湖の底へと足を踏み入れた――。
湖底は驚くほど静かだった。水の抵抗は魔法障壁で打ち消され、まるで空間そのものが時間を止めていたかのような錯覚を覚える。
やがて見えてきたのは、古代の意匠を残した水中神殿。崩れた柱と、苔に覆われた石碑の中、中央の広間に、不自然に輝く石碑が浮かんでいた。
「これは……“記憶の核”」
ミレイアが近づき、手を触れようとしたその時――
「……来てはならぬ」
低く、重い声が水中に響いた。
空間がねじれ、神殿の中心に影が差す。水を裂くように現れたのは、半透明の身体を持つ巨大な精霊だった。
その姿は人のようでありながら、腕は水流のように揺らぎ、顔には仮面がかぶさっていた。
「貴様らは“記憶を穢す者”……ならば、試練を受けよ」
「《守護精霊・メモリア》……記憶そのものを守る存在。千年、封印されていたはず」
リィナが警戒の構えを取る。
「問う。“失う”という意味を知るか?」
仮面の精霊が問いかける。その声には感情がなかったが、確かな“悲しみ”だけが響いていた。
「失うことは……後悔だ。けど、それでも守りたいものがある!」
カイが前に出た瞬間、メモリアが右手を振り下ろす。
「ならば、“それ”を守り切れ」
《記憶干渉術・幻影連鎖(イマジナリー・リンク)》――
周囲の空間が歪み、一行の意識が強制的に引きずられるように“記憶の世界”へと放り込まれた。
リィナの視界に、燃える村が映った。
そこは、かつて彼女が守れなかった故郷。無数の叫び、崩れ落ちる家、そして手を伸ばした少女――
「……やめて」
彼女の肩が震える。けれど、背後からカイの声が聞こえた。
「これは、過去だろ?でも今、君は僕たちと一緒にいる!」
「リィナ!あなたの今の記憶で塗り替えて!」
ミレイアの叫びが響き、リィナは目を閉じて呪文を唱える。
「《ルナ・リフレクト》――偽りの記憶よ、真実の光に還れ!」
光が爆ぜ、幻が砕ける。空間が再び湖底の神殿へ戻ると、メモリアが僅かに身を揺らした。
「……“乗り越える”とは、こういうことか」
その仮面が、ゆっくりと割れる。
中から現れたのは、リィナによく似た、銀髪の少女だった。
「君は……」
「私は、“リィナが守れなかった少女”の記憶。だが、今はそれだけではない。あなたたちの絆が、私に形を与えた」
少女はふわりと笑い、手を差し出した。
「この《記憶の核》を、あなたたちに託すわ。次の“崩れ”は、記録を奪う存在――“虚無の書庫”にある」
核は光となり、リィナの胸に吸い込まれていく。
「これが……私の罪と、償いと、希望」
そう言い残し、少女の姿は水に溶けるように消えた。
地上へ戻ると、湖の霧は晴れていた。空は一面の青。月すらも、昼の空に淡く浮かんでいた。
「また……誰かを救えたのかもしれないね」
カイが言った。
リィナは頷いた。掌には、あの記憶の欠片が淡く光っている。
「私たちは、過去に負けない。リンクは、それを乗り越える力だから」
「にゃー、なんかかっこいいセリフで締めようとしてる!」
「うるさいにゃ、今は静かにしろ」
「こら、猫語にゃ!」
「……あんたたち、うるさい」
リィナが顔をそむけながらも、わずかに笑った。
風がまた、新たな旅の始まりを告げていた。