ブルーアーカイブ Last on Kivotos   作:ヴィーナス

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アビドス編
第1話:覚醒


轟音。

閃光。

 

世界が、悲鳴を上げていた。

 

目の前で、暴力的な『色彩』の奔流が全てを飲み込んでいく。

それに触れた生徒たちが、糸の切れた人形のように崩れ落ちていくのが見えた。

背中しか見えない。

誰なのか、分からない。

でも、守るべき存在だったはずだ。

 

『―――せん、せい…!』

 

通信機から、ノイズにまみれた必死の声が聞こえる。

ザザッ…と耳障りな音が思考を遮る。

 

『……しか…!…このままでは…!』

 

何を言っているのか、聞き取れない。

だが、その声が、絶望的な選択を迫っていることだけは分かった。

 

違う。

それだけは、違う。

 

目の前で倒れていく、顔の見えない生徒たちを置き去りにはできない。

 

決断は、一瞬だった。

 

ぐにゃり、と時空が歪む。

次の瞬間、俺は『俺』ではなくなっていた。

周囲に、無数の『俺』がいた。

軍服の俺。スーツの俺。ラフなジャージ姿の俺。

あらゆる可能性の自分が、同じ場所に、同じ意志を持って立っている。

 

天を仰ぎ、全員が、同時に右手を掲げた。

その手には、一枚のカードが握られている。

 

――放て。

 

無数のカードが、一斉に光を解き放った。

世界から、音が消える。色が消える。

全てが、絶対的な『白』に塗りつぶされていく。

 

ああ、これで――

 

そこで、意識は途切れた…

 

***

 

密閉された空間から、空気が抜けていく微かな音が鼓膜を揺らす。

 

重く貼り付いていた瞼をこじ開けると、滲む視界の先で、無機質な白い光が明滅していた。

何かの液体に満たされていたような奇妙な感覚が、まだ身体にまとわりついている。

ゆっくりと上体を起こすと、自分が人間一人分の大きさのガラス張りのカプセル――ポッドの中にいたことを理解した。

 

見渡す限り、部屋は白で統一されていた。

壁も、床も、そして今しがた自分が出てきたポッドも。

まるで色という概念が存在しないかのような、静かで、冷たい空間。

窓一つなく、外の様子は窺い知れない。

 

「ここは……どこだ?」

 

掠れた声が、自分の喉から発せられたことに驚く。

 

そして、さらに根源的な問いが、空っぽの頭に響いた。

 

――俺は、誰だ?

 

名前も、年齢も、昨日何を食べたのかさえも思い出せない。

記憶は、この白い部屋と同じように、完全な空白だった。

まるで生まれたての赤子のように、彼はただそこに「存在」しているだけだった。

 

その時、ほとんど音もなく、部屋の一方の壁がスライドして開いた。

 

そこに立っていたのは、怜悧な光を宿す瞳と、静かに切りそろえられた青い髪を持つ少女だった。

連邦生徒会、と刺繍された腕章が、彼女の立場を示している。

彼女は男の姿を認めると、少しだけ安堵したように息を吐き、無表情の中にわずかな感情を滲ませた。

 

「お目覚めになられましたか、先生」

 

彼女は、何の疑いもなく、目の前の男を「先生」と呼んだ。

その響きに、空っぽのはずの頭の奥で、何かが微かに疼く。

 

「……先生?」

 

鸚鵡返しに尋ねるのが精一杯だった。

彼女の言葉が、何一つとして自分自身と結びつかない。

 

女性――首席行政官の七神リンと名乗る彼女は、彼の戸惑いを予測していたかのように、淡々と話を続けた。

その声は、広すぎる部屋に静かに響き渡った。

 

「…あれから、10年の歳月が流れています」

 

「10年……?」

 

「はい。10年前、あなたは、シッテムの箱、カード、そしてご自身の全てを対価に、『色彩』と呼ばれる脅威を概念ごと消滅させました。その英雄的な自己犠牲によって、キヴォトスは救われた…はずでした」

 

リンの言葉は、まるでどこか遠い国の神話を聞いているかのようだった。

色彩。シッテムの箱。英雄的な自己犠牲。

そのどれもが、今の彼にとっては意味をなさない単語の羅列でしかない。

 

「しかし、その代償はあまりに大きく、世界の理そのものが崩壊を始めました。この10年で世界は…キヴォトスは、緩やかに死へと向かっています」

 

彼女は、世界の崩壊が作戦の「失敗」の結果であるとは言わなかった。

あくまで、それは「英雄的な自己犠牲」に伴う、仕方のない「代償」なのだと。

その巧みな言葉選びが、記憶のない彼の心に、一つの巨大な「役割」を植え付けていく。

 

『あなたは、世界を救った英雄だ』

『そして、その英雄の遺志を継ぎ、この壊れゆく世界を再び救うべき存在なのだ』と。

 

「俺が…そんなことを……」

 

「信じられないのも無理はありません。あなたは今、記憶を失っている状態ですから」

 

リンは静かに一枚のタブレット端末を取り出し、操作する。

そして、それを先生に差し出した。

 

「まずは、あなたの目で、今のキヴォトスを見てください。それから、どうすべきか……先生ご自身で、考えていただければ、と」

 

ディスプレイには、一つの地名が示されていた。

『アビドス高等学校』

 

「ここは?」

 

「現状、私が把握している中で最大規模の生存者コミュニティです。あなたを知る生徒たちも、そこにいるはず。きっと、あなたの助けになるでしょう」

 

リンの言葉は、拒否を許さない響きを持っていた。

 

記憶のない自分には、他に当ても、行く場所もない。

示された道を歩く以外の選択肢は、存在しないように思えた。

 

先生は、こくりと小さく頷く。

それ以外に、彼にできることはなかった。

 

「……分かった」

 

リンは最低限のサバイバルキットが入ったバックパックを彼に手渡すと、静かに部屋の出口へと促した。

 

先生が重い足取りで部屋を出て、巨大なゲートの前で立ち止まる。

リンは彼の背中に向かって、最後にもう一度だけ声をかけた。

その声には、先ほどまでの無機質な響きとは違う、微かな祈りのようなものが混じっていた。

 

「どうか、ご無事で」

 

ゲートが重々しい音を立てて開いていく。

その向こう側に見えたのは、赤黒く錆びついた鉄骨が突き出す、灰色に沈んだ空だった。

先生は一度だけ振り返ったが、リンはもうそこにいなかった。

彼は覚悟を決め、死んだ世界へと、その第一歩を踏み出した。

 

 

ゲートが完全に閉まり、再び静寂が訪れた白い部屋で、リンは一人、深く長い溜息を吐いた。

彼女の表情は、先ほどまでの首席行政官としての仮面が剥がれ落ち、年相応の疲労と苦悩に満ちていた。

 

彼女は通信端末を取り出すと、サンクトゥムタワーの主――理事長へと、短い定型報告を送る。

 

「…これで、よろしいのですね?」

 

返事はない。いつも通りだ。

 

名誉職か、あるいは架空の存在だとすら思っていた理事長から、ある日突然、この「先生のクローン」が送りつけられた。

そして、『目覚めさせてカードと必要な物資のみ持たせて旅立たせなさい』と。

 

リンは、その一方的な命令に従ったに過ぎない。

しかし、彼女の抱く疑念は、もはや無視できないほどに膨れ上がっていた。

 

彼女は先ほど先生に渡したものとは別のタブレットを操作し、彼の検査データを呼び出す。

そこに表示された一文に、彼女は改めて戦慄した。

 

【対象個体データ:魂の波長の一致率:99.999%】

 

これは、単なる肉体の複製ではない。

魂ごと、死者を現世に呼び戻すに等しい、神の領域の所業。

キヴォトスの理そのものを捻じ曲げる、禁忌の技術だ。

 

(ここまで完璧な蘇生を成し遂げておきながら、なぜ…なぜ記憶だけを、意図的に消したのですか…?)

 

その理由も、目的も一切語られない。

まるで、意思も感情もない駒のように、先生を弄ぶそのやり方に、リンの理事長に対する不信感は、今この瞬間、決定的なものとなった。

 

(先生は、理事長の駒なんかじゃない)

 

リンの脳裏に、記憶を失い、ただ戸惑うばかりだった先生の姿が蘇る。

あの空っぽの瞳に「希望」という重荷を背負わせたのは、紛れもなく自分自身だ。

せめてもの贖罪か、あるいは責任感か。

 

彼女は、理事長からの直接の指示ではなかった「アビドス」という行き先を、改めて思い返す。

それは、彼女なりに理事長の命令を意訳し、今の先生がギリギリ受け入れられる可能性のある場所を選んだ、計算された行動だった。

同時に、記憶も力もない彼を過酷な旅へ突然放り出すことに、彼女は一人の人間として責任を感じずにはいられなかった。

バックパックに詰めた物資と新しいカードは、彼女のできるせめてもの配慮だった。

 

通信を終えた彼女は、理事長の監視を警戒しつつ、静かに決意する。

 

(私が、調べなければ。この異常な事態の真相を。理事長…あなたの、本当の目的を)

 

リンの視線が、部屋の隅にあるアーカイブへと向けられる。

そこには、10年前のキヴォトスを駆け抜けた「本物の先生」が遺した、膨大な活動記録が眠っているはずだった。

 

世界の崩壊という表の悲劇の裏で、キヴォトスの中枢でもまた、静かで、しかし深刻な亀裂が生まれ始めていた。

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