ブルーアーカイブ Last on Kivotos 作:ヴィーナス
(…眠い)
鳴り響く警報が、遠くに聞こえる。
瞼が、鉛のように重い。
体が、泥の中に沈んでいくみたいだ。
もう、何日、まともに眠っていないんだろう。
目を閉じれば、悪夢が待っている。
銃声と、悲鳴と、守れなかった誰かの顔。
だから、眠りたくない。
でも、もう、限界だった。
思考が、まとまらない。
うへぇ~…おじさん、もう疲れちゃったなぁ…。
ホシノの心は、薄氷のように、かろうじてその形を保っているだけだった。
カイザーのAIは、その瞬間を、決して見逃さなかった。
ホシノの心理的限界を見抜いたAIは、最後の、そして最も残酷な罠を仕掛ける。
その日、カイザーはこれまでの嫌がらせのような攻撃とは明らかに違う、大規模な攻勢を開始した。
「敵主力部隊、南西地区に集結! 目標は、第7採掘場跡地!」
セリカの切羽詰まった声が、司令部に響き渡る。
「第7採掘場…」
先生は、地図上のその場所を見て、眉をひそめた。
そこは、戦略的には何の意味もない、ただの岩と砂に覆われた不毛の地だ。
「罠だ。行くな!」
先生は叫んだが、その声は、すでに動き出していた少女たちには届かなかった。
「シロコちゃん、テラーちゃん! 行くよ!」
ホシノは、司令部の指示を待たず、単独で飛び出していった。
「待って、ホシノ先輩!」
シロコとシロコ*テラーが、慌ててその後を追う。
彼女たちは、先生を心から信用してはいなかった。
あの男の指揮で一度は勝利したが、得体の知れない大人たちと繋がっている男に、アビドスの運命を全て委ねることはできない。
この戦いは、自分たちの手で終わらせる。
その不信と、わずかな過信が、彼女たちを最悪の戦場へと導いていた。
◇
第7採掘場――そこは、かつて、彼女たちが「ユメ先輩」を失った場所に、酷似した地形をしていた。
そして、そこは、カイザーが用意した、巨大な処刑場だった。
三人が足を踏み入れた瞬間、地平線を埋め尽くすほどのカイザーの軍勢が、一斉に牙を剥いた。
無数のドローンだけではない。
重装甲の主力戦車が地響きを立て、空からは爆撃機が絨毯爆撃を開始する。
足元では隠されていた地雷が次々と炸裂し、遥か彼方からは超音速ミサイルが、回避不能の弾道を描いて飛来する。
今まで使われてこなかった、あらゆる凶悪な兵器が、たった三人の少女を無力化するためだけに、惜しげもなく投入されていた。
「くっ…! 多すぎる…!」
シロコが、必死に応戦しながら叫ぶ。
「誘い込まれた…! ここは、完全にキルゾーンになってる…!」
シロコ*テラーもまた、冷静さを失いかけていた。
ホシノは、二人を守るように、巨大な盾「アイアン・ホルス」を構え、最前線に立っていた。
降り注ぐ銃弾と爆炎が、彼女の小さな体を絶え間なく打ち付ける。
かつてのように、先生がカードを使って、奇跡の一撃でこの状況を覆してくれることはない。
神性を完全に解放すれば、この区画ごと吹き飛ばせるだろう。
だが、それは全てを終わらせる、後戻りできない最後の手段。
カイザーのAIは、ホシノがそれを使えないことまで計算した上で、この飽和攻撃を実行していた。
(いやだ)
鉄と硝煙の匂い。耳を塞いでも聞こえる、爆発音。
(いやだいやだいやだ)
腕の中で、だんだん冷たくなっていく、あの感触。
(もう、あんな思いは、したくない)
(誰も、失いたくないんだ…!)
ブツン、と、心の中で何かが切れる音がした。
視界が、ピンク色の光に染まる。
体の奥底から、抑えきれない力が溢れ出してくる。
「うああああああああああッ!」
ダメだ、コントロールできない。
このままじゃ、シロコちゃんも、テラーちゃんも…!
◇
「まずい! ホシノが暴走する!」
司令部で、モニター越しにその光景を見ていた先生は、叫んだ。
このままでは、全滅だ。
彼は、脳をフル回転させ、この最悪の状況を打開するための、唯一の活路を探す。
そして、苦渋に満ちた、一つの決断を下した。
「ホシノ! 聞こえるか!」
先生は、通信機に向かって叫ぶ。
「下がれ! シロコとシロコ*テラーは、俺が救出する! お前は、地下シェルターの住民たちを守れ!」
その声が、ホシノの耳に届いた瞬間。
世界から、音が消えた。
色が、消えた。
目の前の景色が、ざらついたモノクロームの映像に変わっていく。
(……ああ、まただ)
この感じ。知っている。
正しい判断。合理的な選択。
その言葉の下で、大切なものが、切り捨てられていく。
あの時と、同じだ。
守るって、決めたのに。
もう誰も失わないって、誓ったのに。
その「先生」が、私に、見捨てろって言うんだ。
「また…」
唇から、乾いた声が漏れる。
「また、同じなんだね…『先生』は…ッ!」
忘れていたはずの、理由のわからない、黒い感情が、心を塗りつubeくしていく。
もう、どうでもいいや。
「……もう、いいや」
ガシャン、と重い音がして、自分が盾を落としたことに気づいた。
足が、勝手に動く。
どこへ向かっているのかも、分からないまま。
◇
(――俺の、せいだ)
先生は、司令部のモニターの前で、ただ立ち尽くしていた。
画面の中で、ホシノの姿が消え、残された二人に、カイザーの総攻撃が集中していく。
自分の声が、彼女の心を壊した。
正しいと思った。最善だと思った。
戦術的には、あれしか無かったはずだ。
だが、現実はどうだ。
戦況は、最悪を通り越して、もう終わっている。
何が、正しさだ。何が、最善だ。
俺は、ただ、彼女を傷つけただけじゃないか。
リンに言われた「先生」という役割。
生徒を導く、希望の象徴。
その全てが、今、自分の手で、粉々に砕け散った。
俺は、英雄なんかじゃない。
ただの、無力で、愚かな、空っぽの男だ。
骨の髄まで染み渡るような、絶対的な敗北感が、彼の全てを支配していた。
そして、その時は、刻一刻と近づいていた。
誰もが疲弊し、誰もが追い詰められていく中で、次なる悲劇の引き金は、静かに、しかし確実に引かれようとしていた。