ブルーアーカイブ Last on Kivotos 作:ヴィーナス
時間は、無情に過ぎていく。
アビドスの司令部は、墓場のような沈黙に包まれていた。
モニターには、カイザーの猛攻に晒され、絶体絶命のシロコとシロコ*テラーの姿が映し出されている。
そして、その隣には、戦線を放棄したホシノの、消えていく信号。
最悪の戦況。最悪の結果。
その全てを引き起こしたのは、自分の一言だった。
部屋の隅では、シラヌイが壁に寄りかかって腕を組み、アザゼルは椅子に座って天井を眺めている。
彼らは、この事態をただ静観していた。
先生が次の指示を出さない限り、彼らに動く義理はない。
無償の善意で動くような大人では、決してないのだ。
「…どうするんだ、先生!」
セリカの、悲痛な声が響く。
「このままじゃ、シロコちゃんたちが…!」
彼女の声には、焦りと、そしてわずかな苛立ちが混じっていた。
(なんで…なんでこうなるの…!)
先生の言っていたことは、正しかった。
罠の可能性も、戦力の逐次投入の危険性も。
でも、心のどこかで期待していたのだ。
かつての先生のように、あの不思議なタブレット「シッテムの箱」と、魔法のようなカードで、この絶望的な状況をひっくり返してくれるんじゃないかと。
今回の先生に、戦術的なミスはなかった。
自分たちの、生徒たちだけの力で何とかなるという、過信がこの事態を招いた。
無意識では、そう理解していた。
だが、それを認めたくなかった。
タイミングが悪かっただけだ、と自分に言い聞かせる。
先生は、セリカの声に答えることができなかった。
(俺の、せいだ)
手足から、力が抜けていく。
壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。
正しいと思った。最善だと信じていた。
戦術的には、あれしか無かったはずだ。
だが、現情報はどうか。
戦況は、最悪を通り越して、もう終わっている。
何が、正しさだ。何が、最善だ。
俺は、ただ、彼女の心を壊しただけじゃないか。
視界の隅に、埃を被った資料の山が映る。
何かに憑かれたように、その記録を手に取り、ページをめくり始めた。
そこにいたのは、俺じゃない、別の「先生」だった。
生徒たちとペンキまみれになって笑っている。
夜遅くまで、誰かの夢の話を聞いている。
その手帳には、俺が知らない生徒たちの名前と、その子たちの長所と短所、そして夢が、びっしりと書き込まれていた。
これが、「本物」か。
じゃあ、俺は、何だ?
この記録を読み、上辺だけを真似て、知ったような気になっていただけだ。
彼女たちの10年という歳月が刻んだ、本当の痛みも、苦しみも、何も理解しようとせずに。
ただ、リンに与えられた「救世主」という役割にしがみついていただけだ。
自分が何者でもないという、空っぽの恐怖から逃れるために。
(……そうか)
乾いた笑いが、漏れた。
俺はずっと、間違っていたんだ。
戦術や、合理性だけじゃ、人の心は救えない。
ホシノが抱えてきた、10年分の孤独と絶望は、なおさらだ。
彼女が本当に欲しかったのは、戦術的な勝利なんかじゃなかった。
きっと、もっと単純で、もっと不合理なものだったんだ。
『今度こそ、誰も置き去りにしない』
そんな、絶対的な信頼の証明。
それこそが、彼女を救う、唯一の方法だったのかもしれない。
先生は、ゆっくりと立ち上がった。
その瞳には、もう、絶望の色はなかった。
あるのは、静かで、しかし燃えるような決意の光。
俺は、救世主じゃない。
ただの、空っぽの器だ。
なら、それでいい。
奇跡を起こす英雄じゃなくていい。
生徒が間違えれば、共に悩み、頭を抱える。
生徒が傷つけば、自分のことのように、共に怒る。
生徒が絶望すれば、その隣に、ただ黙って座り続ける。
どんなに困難な状況でも、どんなに不合理な選択でも、決して諦めず、生徒と共に立ち向かい続ける、ただの「大人」であること。
それこそが、記憶を失ってもなお、この魂に刻み込まれた、俺という存在の、本質なんだ。
「セリカ」
先生は、振り返り、彼女の名前を呼んだ。
その声は、もう、震えていなかった。
「作戦を、立てる。
シロコとテラーを救い出し、そして、ホシノを連れ戻すための、最後の作戦を」
彼は、役割を脱ぎ捨て、初めて、本当の自分自身になった。
空っぽの器に、確かな意志の光が灯った、その瞬間だった。