ブルーアーカイブ Last on Kivotos 作:ヴィーナス
司令部の空気は、依然として絶望に満ちていた。
だが、先生の瞳に宿る光は、その重い空気をわずかに揺るがした。
彼は、作戦地図の前に立つと、アビドスの生徒たちと、静観を続けていた三人の大人たちに向き直った。
「これから、最後の作戦を伝える」
その声には、先ほどまでの無力感など微塵も感じさせない、静かな覚悟が満ちていた。
「まず、アザゼルと黒服」
先生は、二人の大人に視線を送る。
「陽動として、カイザーの残存工場を叩いてもらう。全力でだ。カイザーの注意を、完全にそちらへ引きつけてほしい」
「…正気ですか?」
アザゼルが、呆れたように言った。
「この状況で、さらに戦力を分散させると? それに、なぜ私があなたのために、そこまで危険を冒さねばならないのです」
「君のためだ、アザゼル」
先生は、アザゼルの目を真っ直ぐ見て言った。
「いつまで、カイザーの協力者呼ばわりされたままでいるつもりだ? 君は、キヴォトス最高の化学者だったんだろう。犯罪者と呼ばれることは受け入れても、カイザーのような三流の連中と、同類だと思われることは、君のプライドが許さないはずだ。これは、君が君自身であるために、汚名を返上するまたとない機会じゃないのか?」
アザゼルの表情から、いつもの皮肉な笑みが消えた。
図星だった。
アビドスに来てから、生徒や動物族たちに「カイザーの協力者」と蔑まれるたび、彼の内面では、犯罪者扱いされるよりも遥かに屈辱的な感情が渦巻いていた。
彼は、何も答えず、ただ静かに立ち上がった。
それは、沈黙の肯定だった。
「ふむ…実に非合理的な選択。ですが、観測しているだけでは、もはや退屈だ。最高のエンターテイメントには、最高の演出家が必要でしょう。よろしい。この黒服、自ら舞台に上がり、最高の悪役を演じて差し上げますよ」
黒服は、先生の狂気じみた計画に、自らの知的好奇心が限界まで刺激されているのを感じていた。
彼は、アザゼルと共に部屋を出ていった。
残されたのは、アビドスの生徒たちと、シラヌイ、そして先生。
「じゃあ、私たちは!?」
セリカが、食い下がるように尋ねた。
「残った私たちで、シロコちゃんたちを助けに行くのか!?」
「いや」
先生は、首を横に振った。
そして、信じられない言葉を口にする。
「君たちと、俺、そしてシラヌイさんは、ホシノの元へ向かう」
「――は?」
セリカは、自分の耳を疑った。
「何を言ってるんだ! シロコちゃんたちは、今もカイザーの集中砲火を浴びてるんだぞ! それを見捨てて、戦線を離脱したホシノ先輩を優先するって言うのか!?」
それは、戦術的には愚策中の愚策。
狂気の沙汰としか思えなかった。
「ああ。俺は、ホシノを一人にはしない」
先生は、セリカの非難を、真っ向から受け止めた。
「この戦いの元凶は、俺が彼女の心を壊したことにある。戦術的な勝利なんて、もうどうでもいい。俺はただ、生徒が泣いている時に、その隣にいてやりたいだけだ。それだけのために、この作戦を実行する」
「…ふざけるな」
セリカは、怒りに震えながらも、それ以上、言葉を続けることができなかった。
(なんで…)
かつての先生なら、きっと違った。
シッテムの箱を使って、魔法みたいなカードで、こんな状況、どうにかしてくれたはずだ。
なのに、この人は。
この極限の状況で、あまりにも非合理で、個人的な理由で、仲間を見捨てようとしている。
(でも…)
ホシノ先輩が、あのまま暴走していたら、もっと最悪の事態になっていたかもしれない。
誰かが動かないと、どうにもならない。
(前の先生と、同じであってほしかった…)
だが、目の前の男の瞳は、あまりにも真剣だった。
不合理な選択が、最善である場合もある。
10年という歳月は、彼女にその現実を教えていた。
言葉が、続かなかった。
それが、彼女の答えだった。
先生は、最後に、壁際で沈黙を続けていたシラヌイに視線を向けた。
「シラヌイさん。あなたにも、頼みがある」
「……」
「ホシノの居場所を、探し出してほしい。潜入と追跡のプロである、あなたの力が必要だ」
シラヌイは、冷静に先生の言葉を分析していた。
10年間、イズナが消えてから、彼は死を偽装してこのキヴォトスに潜入し、先生という存在を調査し続けてきた。
その影響力の大きさも、そして今、目の前にいる男が、記憶を失ってもなお、変わらない本質を持っていることも、彼は理解していた。
地下都市の動物族たちが、たった数日でこの男に絶対の信頼を寄せている。
この数万の民を支える少女たちに、これほどの影響を与える男。
今、この男に協力することは、そう遠くない未来、イズナを探し出すための、最も強力な手段になる。
「……分かった。協力しよう」
シラヌイは、打算と、そして心の奥底にある、ほんのわずかな共感が入り混じった声で答えた。
「ただし、貸しは高くつくぞ、先生」
三人の大人たちは、それぞれの理由で、先生の無謀な作戦に乗ることを決めた。
アザゼルは、失われたプライドを取り戻すために。
黒服は、最高のエンターテイメントを求めて。
そしてシラヌイは、未来への投資と、過去への贖罪のために。
「行くぞ」
先生の言葉を合図に、最後の作戦が、静かに始まった。
それは、勝利を目的としない、ただ一人の生徒の心を救うためだけの、あまりにも無謀で、最後の賭けだった。