ブルーアーカイブ Last on Kivotos   作:ヴィーナス

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百鬼夜行編
第18話:先生の憂鬱


後部座席に身を沈めた先生は、防弾ガラスの窓に額を押し付け、ただ黙って前方を、いや、空を見上げていた。

 

地平線の彼方に、天を衝くようにそびえ立つ、巨大な光の壁が見える。

それが、次の目的地である『百鬼夜行連合学院』を覆う大結界だった。

淡く、しかしどこか禍々しい光を放つそれは、物理的な障壁であると同時に、強烈な拒絶の意思そのもののようにも感じられた。

 

(みんな、見送ってくれたな…)

 

先生の脳裏に、生徒たちの顔が浮かぶ。

ホシノの屈託のない笑顔、シロコの静かな眼差し、セリカの不器用な優しさ、ノノミの揺るぎない信頼。

彼女たちの純粋な想いが、今も心を温めている。

 

アビドスでの日々は、奇跡の連続だった。

廃校寸前の学校は息を吹き返し、生徒たちは笑顔を取り戻した。

それは、ただ「対話」を、生徒一人ひとりと真摯に向き合うことを諦めなかった結果だと、先生は信じている。

あの場所で、空っぽだった自分は、初めて「先生」としての確かな輪郭を得たのだ。

 

だが――。

 

目の前にそびえ立つ、あの巨大な結界はどうだ。

あれは、対話はおろか、あらゆる物理的干渉を拒絶している。

10年もの間、外部との交流を一切断っているという閉鎖された学園。

そこに住まう人々は、アビドスのような純粋な生徒たちだけではないだろう。

もっと複雑で、もっと打算的で、もっと救いようのない現実が待ち受けているのかもしれない。

 

希望に満ちて送り出してくれた生徒たちの顔と、これから対峙する未知の障壁。

そのあまりにも大きな隔たりが、ずしりと重く、先生の心にのしかかっていた。

 

アビドスで得た「寄り添い、対話する」という信念。

それは、この停滞した楽園にも、通用するのだろうか。

 

車窓を流れる景色は変わらず、光の壁だけが、刻一刻と、その巨大な姿を露わにしていく。

先生は、胸に渦巻く一抹の不安を振り払うように、静かに目を閉じた。

 

旅は、まだ始まったばかりだ。

 

装甲車両が百鬼夜行の大結界に近づくにつれ、車内の空気は重みを増していった。

地平線を覆い尽くす光の壁は、希望よりも絶望を想起させる。

あれを前にして、楽観的でいられる者などいるはずもなかった。

 

ハンドルを握るシラヌイは、後部座席で交わされる会話など耳に入らないかのように、ただ前方の結界を睨みつけていた。

彼の思考は、ただ一点に集中している。

 

(イズナ……)

 

アビドスの狼――シロコがもたらした情報は、乾ききった彼の心に注がれた一滴の救いの水だった。

生きている。あの地獄を生き延び、故郷に帰還していた。

その事実だけで、10年間抱え続けた憎悪と絶望に支配された世界に、僅かながら色彩が戻ったような気さえした。

 

だが、同時に新たな不安が彼の心を締め付ける。

10年間、閉ざされた世界で、たった一人で。娘はどんな思いで過ごしてきたのだろうか。

栄養状態も悪いという、あの停滞した楽園で、無事でいるのだろうか。

かつて、自分がそうであったように、誰かに利用され、心をすり減らしてはいないだろうか。

 

(待っていろ、イズナ。今度こそ、必ず……)

 

シラヌイは、アクセルを踏む足に、無意識に力を込めた。

この旅は娘を取り戻すための、父親としての最後の戦いだ。

そのためなら、悪魔にだって魂を売る。隣に座るこの胡散臭い元医者も、後部座席の得体の知れない二人も、全てはそのための駒に過ぎない。

 

「……フン」

 

後部座席で、沈黙を破ったのはアザゼルだった。

彼は薄目を開けて結界を嘲るように一瞥すると、皮肉のこもった声で呟いた。

 

「かの『色彩』を退けた先生でも、あれをこじ開けるのは骨が折れそうですねぇ。物理法則を無視した、見事なまでの拒絶です」

 

その言葉は、明らかに先生に向けられていた。

アザゼルの隣に座る先生は、静かに首を横に振る。

 

「力ずくで開けるつもりはないよ」

 

彼の声は、揺るぎない確信に満ちていた。

 

「きっと、話せば分かってくれるはずだ。どんなに固く閉ざされた扉でも、心を開いてくれる人が一人でもいれば、道は拓ける。アビドスで、俺はそう学んだから」

 

「……やれやれ。おめでたいことですねぇ」

 

アザゼルは呆れたように言って、再び目を閉じた。

彼の目には、先生の信念が、現実を知らない子供の戯言のように映っているのだろう。

 

(本当に、そうだろうか…)

 

アザゼルは、先生の言葉を内心で反芻する。

『話せば分かってくれる』。

なんと甘美で、そして虚しい響きだろうか。

かつて自分も、理想を掲げたことがあった。神秘という不条理を科学の力で根絶し、誰もが平等で平和な世界を築くという、崇高な理想を。

だが、その結末はどうだ。世界は崩壊し、自分は全てを失った。

理想など、現実の前では砂上の楼閣に過ぎない。

 

(この男は、私を止めた『先生』だというが…)

 

アザゼルは、隣に座る男を密かに観察する。

見かけは同じでも、中身は空っぽ。記憶も、経験も、積み上げてきたはずの絶望さえも、何一つ持たない。

だからこそ、こんなにも純粋で、無垢で、そして無謀な理想を信じられるのかもしれない。

 

アビドスでの成功。

それも、相手がまだ何色にも染まっていない「生徒」だったからこその、幸運な例外に過ぎない。

これから向かう百鬼夜行は、10年という停滞の中で、人々の心は淀み、疑心暗鬼が渦巻いているに違いない。

そんな場所で、この男の理想論が通用するはずがない。

 

(…面白い。実に、面白い)

 

アザゼルの口元に、乾いた笑みが浮かぶ。

この男が、これから直面するであろう現実に打ちのめされ、その綺麗な理想が木っ端微塵に砕け散る様を、特等席で見届けてやるのも一興か。

あるいは、万に一つ、この男が本当にこの死んだ世界に変化をもたらすというのなら、それはそれで、最高のエンターテイメントだ。

 

どちらに転んでも、退屈はしないだろう。

アザゼルは、自らの虚無を埋めるための娯楽として、先生の旅路を観測することを決めた。

 

一方、先生はアザゼルの冷ややかな反応を意に介さなかった。

いや、介さないように努めていた。

 

彼の心の中では、アビドスでの成功体験が、確固たる自信として根付いている。

だが同時に、その自信を揺るがす、冷たい不安の影もまた、じわりと広がっていた。

 

(セリカが用意してくれた食料、ノノミが手配してくれたこの車両がなければ、俺たちはここまで来ることすらできなかった……)

 

先生は、後部座席の隅に積まれたコンテナに目をやる。

生徒たちの善意の結晶だ。

感謝の念が込み上げると同時に、自分の無力さを突きつけられるような気がした。

 

自分は、彼女たちに何を与えられただろうか。

与えられたのは、むしろ自分の方ではないのか。

居場所を、名前を、そして「先生」であるという意味を。

 

(結局、俺は生徒たちに助けられてばかりだ……)

 

アビドスでの成功。

それは本当に、自分の力だったのだろうか。

ホシノが、シロコが、セリカが、ノノミが…彼女たちが、自分を信じ、必死に戦ってくれたからではないのか。

相手が、まだ何にでもなれる可能性を秘めた「生徒」だったから、自分の言葉が届いたのではないのか。

 

記憶のない、空っぽの自分。

そんな自分を、彼女たちは無条件に受け入れてくれた。

だが、これから出会う人々も、同じように受け入れてくれるだろうか。

 

(もし、相手が打算でしか動かない大人だったら? 凝り固まった価値観に支配された、閉鎖的な社会だったら……?)

 

その思考は、冷たい水のように先生の心を蝕んでいく。

アビドスという特殊な環境で得た成功体験は、普遍的なものではないのかもしれない。

「大人や、閉鎖的な社会には、俺のやり方は通用しないのではないか」

その疑念は、この先の旅における、先生の「憂鬱」として、静かに、しかし確実に彼の心に根を下ろし始めていた。

それは、かつて世界を救ったという「先生」の幻影に対する、自身への劣等感にも似ていた。

 

「……」

 

先生は、このバラバラな同行者たちに目を向けた。

娘への執念に燃えるシラヌイ。

全てを嘲笑うアザゼル。

そして、後部座席の隅で微笑む黒服。

 

この歪な集団を、自分は本当に「チーム」として機能させられるのだろうか。

 

「……着くぞ」

 

シラヌイの低い声が、先生を思考の海から引き戻した。

いつの間にか、装甲車両は速度を落とし、巨大な結界のすぐ手前まで迫っていた。

 

天を摩するほどの光のドーム。

その表面には、理解不能な文様が絶えず明滅し、この世ならざるエネルギーが渦巻いているのが肌で感じられた。

 

「さて、どうします? 先生」

 

アザゼルが、再び面白がるような口調で問いかける。

 

「自慢の『対話』とやらで、あの壁にでも話しかけてみますか?」

 

先生は答えなかった。

ただ、じっと結界を見つめる。

ここから先は、アビドスで得た経験則が通用しない、全く未知の領域だ。

 

自分の信念は、本当に正しいのか。

それとも、ただの独り善がりな理想論に過ぎないのか。

 

先生の憂鬱。

それは、アビドスを救ったという事実とは裏腹に、未来への確信を持てない、一人の人間の、あまりにもか細い葛藤だった。

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