ブルーアーカイブ Last on Kivotos 作:ヴィーナス
第2話:賢人の決断
装甲車両が完全に停止し、エンジン音が沈黙に溶けると、車内には息苦しいほどの静寂が満ちた。
目の前には、ただ巨大な光の壁がそびえ立っている。
物理的な干渉を一切拒むその絶望的な光景を前に、一行は為す術もなく、ただ沈黙するしかなかった。
「……どうしたものか」
先生が絞り出すように呟いたその時、誰も知らない場所で、物語の歯車は静かに、しかし大きく動き出していた。
結界の内部、百鬼夜行連合学院の最奥。
怪談や幻影が生まれる形而上学的な領域、『黄昏』に繋がる寺院。
その中央で、一人の少女が煙管をふかし、紫煙をくゆらせていた。
百鬼夜行連合学院の創設者にして大預言者、クズノハ。
彼女は、その小さな身体に宿る全霊力を、この学院を覆う大結界の維持に注ぎ続けていた。
この結界は、彼女が古の災厄『黄昏』の力を、その身を賭して流用し、構築したものだ。
外敵から民を守るための苦渋の決断。しかし、その代償はあまりにも大きかった。
結界は楽園ではなく、文化も経済も停滞した、息苦しい村社会を生み出してしまった。
(やれやれ。わらわも、随分と息の長い過ちを犯したものじゃのう)
クズノハは、完全な神ではない。
黄昏の力を借り受けているだけの、半霊半人の人間だ。
民を救うという大義の裏で、彼らの未来を奪ってしまったのではないかという罪悪感に、彼女は来る日も来る日も苛まれていた。
だが、その感傷を表に出すことはない。それは、悠久の時を生きてきた彼女にとって、数多ある後悔の一つに過ぎなかった。
この大結界とて、永遠ではない。
黄昏の力は強大だが、それを御するわらわの器には限りがある。
いつかはこの力も尽き、結界は崩壊するだろう。それは避けられぬ定めじゃ。
問題は、その『いつか』が来る前に、この停滞した楽園の民が、自らの足で歩き出す力を取り戻せるかどうか。
(この停滞を終わらせる『風』は、まだ吹かぬのか……)
歴史の闇に眠る、他の脅威。
それらへの対抗策さえ見つかれば、すぐにでもこの歪な安寧を終わらせたい。
それが、彼女の切なる願いだった。
その時、クズノハの脳裏に、密偵からの報告が流れ込んできた。
『対象、結界前に到達。アビドスより供与されたと見られるネフティス社製装甲車両にて。同行者は三名。元ゲマトリア、アザゼル。所属不明、シラヌイ。そして……ゲマトリア、黒服』
(……ふむ。ようやく来たか)
クズノハは、ゆっくりと目を開いた。
その瞳には、常人には見えぬものが映る。『魂を見る力』。
その権能が、結界の外にいる一行の姿を、鮮明に捉えていた。
記憶を失いながらも、かつて世界を救った英雄の魂を持つ男。
過去の罪に苛まれ、贖罪を求める元科学者。
娘への執念だけで動く、孤独なスパイ。
そして、全てを愉悦として見届ける、混沌の観測者。
(なんという、歪な一団じゃ。まるで出来の悪い怪談の寄せ集めのようじゃのう)
そのちぐはぐな魂の在り様に、クズノハは思わず口元を綻ばせた。
だが、彼女の目は、その中心にいる『先生』と呼ばれる男の魂に釘付けになっていた。
10年前、このキヴォトスから消えたはずの男。
その姿は、当時と寸分違わぬ。歳月の流れが、彼にだけ作用していないかのようだ。
そして、その魂。かつての英雄の輝きはそのままに、しかしその器は空っぽじゃ。
記憶も、経験も、何もかもが抜け落ち、ただ純粋な魂だけがそこにある。
(一度起きたことは元には戻らぬ。死者が蘇らないのと同じじゃ。これは、わらわが知るこの世界の絶対的な理のはず…)
クズノハの眉が、わずかにひそめられる。
この男の存在は、その理を根底から覆している。
完全に砕け散った魂を、元の形に戻すどころか、新たな器に宿らせる。
そんな芸当、ゲマトリアの連中ですら不可能じゃ。
これは、死者蘇生ではない。もっと異質で、冒涜的な何か。
クズノハの魂を見る力が、先生の魂の背後に、巨大で冷徹な『何か』の影を感知していた。
それは、個人の意志や感情を超越した、巨大なシステムのような存在。
この男を駒として使い、何かを企んでいる黒幕。
(…面白い。実に、面白い)
その黒幕の狙いが何であれ、この『先生』という駒は、キヴォトスの理の外側にある。
ならば、この停滞した理の中に放り込めば、予測不能な化学反応を起こすやもしれぬ。
リスクは大きい。
あの男の背後にいる黒幕は、おそらくこの百鬼夜行をも利用しようとするだろう。
結界に穴を開けることは、招かれざる客を呼び込むことに繋がりかねない。
だが、このまま何もしなければ、結界が寿命を迎えると共に、この楽園はただ滅びるだけじゃ。
ならば、賭けるしかない。
(この歪な一団が、わらわの退屈を紛らわす以上の働きをしてくれるやもしれぬ。この停滞を打ち破る『劇薬』となるやもしれぬのう)
決断は、一瞬だった。
彼女は、この歪な一団が引き起こすであろう混沌を、ただ面白そうだと感じていた。
(賭けてみるか。わらわが待ち望んだ『風』が、この者たちであると。さて、そち達は、わらわを愉しませてくれるかのう?)
クズノハは、結界の維持に注いでいた意識の一部を、そっと切り離した。
全開にするのではない。ただ、彼らがいる一点だけ、針の穴ほどの隙間をこじ開けるように、力を緩める。
それは、彼女の持つ絶大な力と、繊細な制御能力があって初めて可能な、神業に近い所業だった。
その瞬間、結界の外。
為す術なく光の壁を見上げていた先生たちの目の前で、信じられない光景が広がった。
あれほど強固に見えた結界の一部が、まるで彼らを誘うかのように、音もなく、滑らかに『開いて』いく。
それは、先生たちの力によるものではない。
アザゼルの皮肉でも、シラヌイの執念でも、黒服の企みでもない。
内部からの何者かによる、明確な意志を持った、意図的な介入だった。
開かれた門の向こうには、10年間閉ざされていた、停滞の楽園が広がっていた。