ブルーアーカイブ Last on Kivotos 作:ヴィーナス
サンクトゥムタワーの巨大なゲートが、重々しい音を立てて背後で閉じていく。
その音を合図に、先生は完全に一人になった。
リンがいた無機質な白い部屋の静寂とは違う、もっと根源的で、圧倒的な静寂が世界を支配している。
一歩、外の世界へ足を踏み出す。
そこは、リンが語った以上の、死んだ世界だった。
かつてここが「キヴォトス」という学園都市であったことなど、想像もできない。
空を覆うのは、生気のない灰色の雲。
その下には、文明の残骸がどこまでも広がっていた。
天を突いていたはずのビル群は、その多くが崩れ落ち、錆びて赤黒く変色した鉄骨が、まるで巨大な墓標のように突き出している。
アスファルトはひび割れ、そこかしこから枯れた雑草が顔を覗かせていた。
風が吹く。
壊れた信号機が、その風に煽られて「カタン…カタン…」と乾いた金属音を立てている。
それが、この世界で唯一、生命の活動を思わせる音だった。
先生は、ゆっくりと息を吸い込む。
むっとするような、乾いた埃の匂いが鼻をついた。
壁にそっと手をつくと、ざらついた冷たいコンクリートの感触が伝わってくる。
五感で感じる全てが、この世界から「命」が失われていることを雄弁に物語っていた。
リンから渡されたタブレットを開く。
ディスプレイには、現在地を示す光点と、遥か彼方で点滅する目的地『アビドス』が表示されていた。
その間には、ただ広大な廃墟の地図が広がっているだけ。
途方もない距離だ。
そして、移動手段は己の足のみ。
タブレットの情報を見ると、かつての先生はカードで何でも出来たようだが、今の俺の手元にあるカードは試しに使ってみても何も変わらない。
どうやら使うにはかつてと違って条件があるらしい。
普通なら、絶望するのだろう。
しかし、不思議なことに、先生の心は凪いでいた。
いや、凪いでいるというよりは、まだ感情というものが上手く機能していない、と言った方が正しいのかもしれない。
過去の記憶がない彼は、この世界の厳しさも、この旅がどれほど無謀で困難なものであるかも、本当の意味では理解できていなかった。
リンに与えられた『アビドスへ向かう』という最初の目的。
それが、空っぽの自分にとって唯一の道標だった。
「まぁ、どうにかなるだろう」
誰に言うでもなく、彼はそう呟いた。
何の根拠もない、しかし不思議と心からの言葉だった。
それは、彼が失った記憶の奥底に眠る、本来の性質の欠片だったのかもしれない。
彼は、リンから渡された最低限の物資が入ったバックパックを背負い直す。
ずしりとした重みが、これから始まる旅の現実を突きつけてくるようだった。
彼は歩き始めた。
瓦礫の山を避け、ひび割れた道路の上を、ただ黙々と。
時折、風に舞う古い新聞紙が足元を通り過ぎていく。
見出しの文字は掠れて読めないが、そこにはかつて、生徒たちの賑やかな日常が記されていたのだろう。
今はもう、その痕跡すらない。
歩き続けて数時間。
太陽が空の最も高い位置に昇る頃には、サンクトゥムタワーの巨大な影は、もう見えなくなっていた。
前後左右、どこを見ても同じような廃墟の風景が続いている。
方向感覚が狂いそうになるのを、彼はタブレットのコンパス機能だけを頼りに進んでいく。
喉が渇き、足を止める。
バックパックから水筒を取り出し、乾いた喉を潤した。
ほんの数時間歩いただけなのに、体は鉛のように重い。
額から流れる汗が、顎を伝って地面に落ち、すぐに乾いた土に吸い込まれていった。
「……」
彼は、自分が今いる場所を見渡した。
そこは、かつて商店街だった場所のようだった。
ショーウィンドウは割れ、マネキンが不気味な角度で倒れている。
色褪せた看板には、可愛らしいキャラクターの絵と共に『SALE!』の文字が残っていた。
その横には、クレープ屋だったのだろうか、動物の形をしたメニューの写真が、埃を被って虚しく微笑んでいる。
ここで、誰かが笑い、誰かが買い物を楽しんでいた。
そんな当たり前の日常が、確かに存在したのだ。
その光景を想像した時、初めて先生の胸に、ちくりとした痛みが走った。
それは、郷愁とは違う。
自分が失ったものに対する感傷でもない。
この、あまりにも静かで、美しかったはずの世界を壊してしまった「何か」に対する、静かな怒りのような感情だった。
リンは言った。
『あなたの自己犠牲によって、キヴォトスは救われた』と。
だが、目の前に広がるこの光景は、どう見ても「救われた世界」には見えなかった。
この孤独な旅は、罰なのだろうか。
自分が犯した、あるいは、自分が成し遂げたことの結果を、その目で確かめるための。
いや、と彼は首を振る。
今は、感傷に浸っている場合ではない。
アビドスへ行かなければ。
そこに行けば、何か分かるかもしれない。
自分を知る生徒がいるのなら、この空っぽの自分を満たす、何かが見つかるかもしれない。
彼は再び立ち上がり、バックパックを背負う。
その時、ふと視界の隅に、何かが動いた気がした。
先生は弾かれたようにその方向を向く。
崩れかけたビルの、暗い窓の奥。
一瞬だけ、何かの影が横切ったように見えた。
「……誰か、いるのか?」
声を張り上げるが、返事はない。
風が瓦礫の間を吹き抜ける、ひゅう、という音が響くだけだ。
見間違いだったのかもしれない。
あるいは、この荒廃した世界に住み着いた、野生動物か何かだろう。
そう自分に言い聞かせ、彼は再び歩き出そうとした。
だが、背中に突き刺さるような視線は、消えていなかった。
それは、決して友好的なものではない。
獲物を定める捕食者のような、冷たく、そして明確な敵意を孕んだ視線。
先生は、知らず知らずのうちに、背中の汗が冷たくなっていくのを感じていた。
この死んだ世界で、動くものは何もない。
そう思っていたのは、ただの楽観に過ぎなかったのだ。
この世界には、まだ「生きている者」がいる。
そして、その全てが、自分の味方であるとは限らない。
孤独な旅は、まだ始まったばかりだ。
そして、その先に待ち受ける出会いが、彼の運命を大きく揺り動かすことになるのを、彼はまだ知らなかった。
ただ、背中に突き刺さる視線の正体だけが、彼の行く先に不穏な影を落としていた。