ブルーアーカイブ Last on Kivotos 作:ヴィーナス
予期せぬ形で開かれた門を前に、装甲車両の中は一瞬、驚愕と疑念に満ちた沈黙に包まれた。
天を衝く光の壁に、滑らかに、そして音もなく穿たれた通路。
それはまるで、巨大な獣が静かに口を開け、獲物を誘い込もうとしているかのようだった。
「……これは、罠か?」
最初に口を開いたのは、先生だった。
彼の声には、警戒と戸惑いが色濃く滲んでいる。
自らの信念である「対話」が試される以前に、相手の方から扉が開かれた。
このあまりに都合の良い展開は、楽観よりもむしろ不信感を煽る。
(誰が、何のために…?)
先生の思考が、高速で回転する。
クズノハという賢人が、自分たちの来訪を予期していた? それとも、内部に協力者が?
いや、それにしてはタイミングが良すぎる。
まるで、こちらの迷いを見透かしたかのように、絶妙な瞬間に道が示された。
これは、歓迎ではない。試されているのだ。
この門をくぐる覚悟があるのか、その先の混沌に足を踏み入れる度胸があるのかを。
「ククク…どうでしょうねぇ。歓迎の門か、あるいは我々を飲み込むための入り口か。どちらにせよ、退屈はしなさそうです」
アザゼルは、面白そうに口の端を吊り上げた。
彼の虚無的な瞳には、この異常事態すらも、一つの娯楽として映っている。
後部座席の隅で、黒服は静かに口角を上げていた。
その表情は他の者たちと同じく微笑に見えるが、その内実は全く異なる。
彼の心は、純粋な驚きと、それを遥かに上回る知的な興奮に満たされていた。
(ほう…これは、面白い)
黒服の思考が、他の誰にも感知できない速度で回転する。
百鬼夜行の賢人、クズノハ。
ゲマトリアの一員として、彼女の存在はもちろん把握している。悠久の時を生きる大預言者。世界の理そのものに近い、超越的な存在。
そして何より、自らの興味と気まぐれ以外では決して動くことのない、極めて厄介な相手であることも。
こちらから何を言っても、彼女が聞く耳を持つことはない。
彼女が動くのは、彼女自身がそう望んだ時だけ。
そのクズノハが、動いた。
自ら、この鉄壁の結界に穴を開けた。
それは、この百鬼夜行という閉鎖空間において、何か途方もない『問題』が発生していることを意味する。
あるいは、彼女の悠久の退屈を紛らわすに足る、極上の『玩具』が目の前に現れたか。
(どちらにせよ、これは私の予測を遥かに超えた事態です。素晴らしい…実に素晴らしい!)
黒服の視線が、隣に座る先生へと注がれる。
一度完全に消滅して、記憶を失った先生。彼の存在そのものが、この世界の理を歪めるイレギュラー。
そのイレギュラーが、百鬼夜行という停滞した水槽に放り込まれた時、一体どんな波紋を広げるのか。
クズノハは、それを観察するために、自ら舞台の幕を上げたのだ。
黒服は、この事実をチームに共有する気は毛頭なかった。
彼の第一目的は、あくまで先生という存在の観察。最初から種明かしをしてしまっては、面白さが半減してしまう。
この予測不能な舞台で、先生がどう足掻き、どう成長し、あるいはどう絶望するのか。
それを間近で見届けることこそが、彼の至上の愉悦なのだから。
「誰が開けたんだ…? 目的は何なんだ…?」
先生の純粋な疑問の声が、黒服には心地よく響いた。
躊躇。
一瞬の、しかし致命的になりかねない時間の空白が、一行の間に流れる。
進むべきか、退くべきか。
先生が、この先の行動を決断しようと口を開きかけた、その時だった。
「――構わんッ!!」
獣のような咆哮と共に、運転席のシラヌイがダッシュボードを強く叩きつけた。
彼の瞳は、開かれた門の向こう側、その一点だけを睨み据えている。
後部座席の連中が何を考えていようと、知ったことではない。
(イズナ…!)
シラヌイの思考は、それだけで埋め尽くされていた。
罠? 上等だ。地獄への入り口? 望むところだ。
10年間、この日だけを夢見てきた。憎き『先生』の幻影を追い、泥水を啜り、全てを犠牲にしてきた。
その執念が、今、目の前で道を開いたのだ。
彼にとって、この開かれた門は、天啓以外の何物でもなかった。
神が、運命が、娘の元へ行けと命じている。
ここで躊躇うなど、父親として、断じて許されることではない。
「チッ…! 乗り遅れるなよ! 俺の邪魔をするな!」
シラヌイは吐き捨てるように言うと、躊躇なくアクセルを床まで踏み込んだ。
大型装甲車両が、轟音と共に急発進する。
「うわっ!?」
「おっと…」
後部座席の先生とアザゼルは、不意の加速にシートへと強く押し付けられた。
先生の決断を待つことなく、車両は有無を言わさず、光の通路へと突入していく。
「早まるな!」
先生の制止の声は、猛々しいエンジン音にかき消された。
チームとしての連携が、最も重要な局面で、いとも容易く崩壊する。
これが、この歪な集団の現実。
自分の言葉は、娘への執念に燃える父親の前では、あまりにも無力だった。
後戻りは、もうできない。
先生は新しい世界へと、その一歩を踏み出すことになった。
光のトンネルを抜けた先は、まるで時が止まったかのような、静かな町並みが広がっていた。
いや、止まっているのではない。緩やかに、しかし確実に、死に向かって腐敗しているのだ。
かつては「祭囃子通り」と呼ばれ、多くの観光客で賑わっていたであろうメインストリート。その面影は、辛うじて残っている。
古風な木造建築が道の両脇に立ち並び、色褪せた提灯が力なくぶら下がっている。
しかし、そのほとんどは窓ガラスが割れ、壁には蔦が絡みつき、屋根には穴が開いている。
修繕する業者も、その気力を持つ住民も、ここにはもういない。
道の真ん中には、かつては華やかだったであろう山車の残骸が、巨大な骸のように横たわっていた。
車輪は朽ち果て、飾り付けは風雨に晒されて原形を留めていない。
その周りでは、痩せた生徒たちが、地面に直接置かれた僅かな野菜や、出所の知れないガラクタを物々交換している。
そこには、かつてのお祭りのような活気も、笑顔も、何一つ存在しない。
ただ、生きるためだけの、静かで切実な営みがあるだけだ。
道行く生徒たちや一般市民の顔には生気がなく、その歩みはどこか緩慢だ。
結界の影響か、彼女たちの姿は10年前から歳を重ねていない。
しかし、その瞳に宿る光は、明らかに10年分の停滞と絶望によって曇っている。
誰もが互いを監視するように視線を交わし、よそ者である先生たち一行の装甲車両には、あからさまな警戒と、僅かな恐怖を滲ませていた。
ここは、10年間の強制的な鎖国によって生まれた、巨大な村社会。
自給自足でかろうじて命をつなぎ、外部からの刺激も、未来への希望も失った、停滞した楽園の成れの果て。
先生は、窓の外に広がるその光景を、息を飲んで見つめていた。
アビドスの砂漠とは違う、もっと陰湿で、根深い「死」の匂いが、この町には満ちていた。