ブルーアーカイブ Last on Kivotos 作:ヴィーナス
歓迎と恐怖、そして監視の視線が渦巻く広場の中心で、先生は途方に暮れていた。
シラヌイは姿を消し、残されたのは自分と、傍観を決め込むアザゼル、そして全てを愉しむ黒服だけ。
この状況をどう打開すればいいのか、全く糸口が見えない。
(まずは、この学院の行政組織と話をしないと…)
先生は、シラヌイから事前に聞いていた情報を思い出す。
この学院には「陰陽部」という、生徒会に相当する組織があるはずだ。
まずは彼らと接触し、自分たちが敵ではないことを示し、協力関係を築く。
それが、この閉鎖された社会に足がかりを作るための、最も現実的な一歩のはずだった。
先生は、ひざまずく動物族の老婆に、できるだけ穏やかな声で語りかける。
「ありがとうございます。でも、俺は英雄なんかじゃありません。もしよろしければ、この学院の行政を担っている『陰陽部』の方に、取り次いでいただけませんか?」
しかし、老婆は困ったように首を横に振るばかり。
「陰陽部、でございますか…。我らのような者が、軽々しくお会いできるような方々では…」
その時、広場の入り口がにわかに騒がしくなった。
整然とした足音と共に現れたのは、揃いの制服に身を包んだ一団。
彼女たちの胸には、蓮の花をかたどった徽章が輝いている。
「百花繚乱紛争調停委員会だ!」
「彼女たちが、どうしてここに…」
遠巻きに見ていた生徒たちが、さらに距離を取る。
百花繚乱の生徒たちは、先生たちの前に立つと、一糸乱れぬ動きで扇状に展開した。
その視線は、ひざまずく動物族ではなく、先生たち三人にだけ、鋭く注がれている。
「あなた方が、大結界を乱したよそ者ですね」
隊長らしき生徒が、冷たく言い放つ。
「我々は、あなた方を危険分子と判断しました。これ以上の混乱を避けるため、我々と共に来ていただきます」
それは、10年間、この停滞した町の秩序を、ただ愚直に守り続けてきた者たちの、揺るぎない意志だった。
陰陽部からの「手出し無用」という命令は、通信網が寸断されているこの状況では、現場の彼女たちにまで届いていなかった。
彼女たちは、自らの判断で、この町の警察として、ただ職務を遂行しようとしているだけなのだ。
先生が弁解しようと口を開くより早く、百花繚乱の数人が素早く動き、先生とアザゼルの腕を掴んだ。
「抵抗は無意味です。大人しく従いなさい」
(これも、ダメか…)
為す術なく、先生たちは彼女たちに連行されていく。
広場から追い出され、彼女たちが管理する牢獄で取り調べを受けるのだろう。
最悪のスタートだ。
しかし、一行が薄暗い路地へと差し掛かった、その時だった。
「――待ちなさい!」
鋭い声と共に、伝令役と思われる百花繚乱の生徒が、息を切らしながら駆けつけてきた。
「た、たった今、陰陽部より緊急連絡です! その者たちへのいかなる干渉も禁ず、と! 即刻、解放しなさい!」
「なっ…!?」
隊長の生徒が、信じられないという顔で目を見開く。
「陰陽部が、なぜ…? 理由は何です!?」
「分かりません! ただ、これは最優先命令です!」
隊長は、悔しそうに唇を噛み締めると、不承不承といった様子で部下たちに命じた。
「…手を、離しなさい」
あっけなく解放された先生は、何が何だか分からず、ただ呆然と立ち尽くす。
組織間の連携が、全く取れていない。
この学院は、内部から崩壊しかけている。
百花繚乱の生徒たちが、苦々しい表情で去っていく。
先生は、再び広場へと戻るしかなかった。
行政組織との接触は、最悪の形で失敗に終わった。
(次は、どうすれば…)
先生は、住民たちの栄養状態の悪さに目を向ける。
このままでは、いずれ町全体が立ち行かなくなる。
先生は、かつて連邦生徒会があったサンクトゥムタワーの首席行政官、七神リンのことを思い出した。
彼女なら、何か知恵を貸してくれるかもしれない。
先生は、周囲の警戒の視線を背に受けながら、広場の隅に打ち捨てられていた、古びた公衆電話ボックスへと向かった。
幸いにも、かろうじて通信機能は生きているようだった。
その頃、サンクトゥムタワーの執務室。
七神リンは、鳴り響く通信機の表示を見て、深く、深いため息をついた。
『先生』。
その二文字が、彼女の心を複雑にかき乱す。
10年間、たった一人で、この崩壊した連邦生徒会を守り続けてきた。
誰もが責任を放棄し、逃げ出す中で、「いつか生徒会長が戻ってくる」という、今や霞のようになった希望だけを胸に、周囲から押し付けられる全ての責任を背負い、生き抜いてきた。
そんな彼女の前に現れた、記憶のない『先生』。
彼の規格外の行動力と、アビドスで見せた奇跡のような実績は、評価に値する。
だが、それとこれとは話が別だ。
リンは、覚悟を決めて受話器を取った。
『…先生? どうされたのですか、こんな時間に』
「リンさん! よかった、繋がった…」
先生は、百鬼夜行の惨状と、食料支援の必要性を必死に訴えた。
その言葉を聞きながら、リンは唇を噛み締める。
(やはり、こうなったか…)
先生の純粋な善意は、時に現実という壁を無視する。
アビドスでの成功が、彼に「連邦生徒会はまだ機能している」という誤った希望を与えてしまったのかもしれない。
このまま曖昧な返事をすれば、彼は今後も同じように、不可能な支援を要求してくるだろう。
それは、彼にとっても、そして自分にとっても、不幸なことだ。
今、正直に、この絶望的な現実を打ち明けることこそが、彼のためになる。
リンは、意を決して、冷徹なまでに現実的な言葉を紡いだ。
『…先生、申し訳ありませんが、それは不可能です』
「え…?」
『連邦生徒会に、もはや他学区を支援する余力など、どこにも残されていません。アビドスへの支援? とんでもない。あれは、ノノミさんの個人資産と、ネフティス社との直接交渉で成り立っている、例外中の例外です』
リンの声には、10年分の疲労と、そして自嘲の色が滲んでいた。
『今の連邦生徒会は、かろうじて生存している他の学園から、議席の維持を名目に徴収した支援金で、最低限の機能を維持しているだけの抜け殻です。他の政府機関や企業からは、とうの昔に見放されています。私たちにできることなど、もう何も…』
ブツリ、と通信が切れる。
最後の頼みの綱が、目の前で断ち切られた。
組織との交渉は決裂。外部からの支援も絶望的。
万策尽きた。
先生は、受話器を握りしめたまま、その場に立ち尽くす。
アビドスで得た自信は、この閉鎖された現実の前で、脆くも崩れ去ろうとしていた。
「……はぁ。見ていられませんねぇ」
その時、背後から聞こえてきたのは、アザゼルの呆れ果てたような溜息だった。
今まで腕を組んで傍観していた彼が、ゆっくりと先生に近づいてくる。
アザゼルのプライドは、限界に達していた。
アビドスでの屈辱的な扱いは、まだ耐えられた。
だが、ここは違う。百花繚乱の少女たちの、純粋な正義感に満ちた、しかし無知ゆえの侮蔑の視線。
そして、解放された後の、遠巻きに見る生徒たちの、恐怖と嫌悪が入り混じった眼差し。
それは、彼の心の最も深い部分を抉った。
(私の理想が…私の科学が、ただの恐怖の象徴だと…?)
神秘を根絶し、誰もが平等な世界を作る。その崇高な理想のために生み出した神秘無効化薬。
それが、自分の手を離れた後、ヘイローを破壊するだけの凶悪な兵器に転用され、夥しい死者を出した。
自分の愚かな思想は、結局、軍需産業に利用されただけだった。
その事実が、虚無主義者を気取る彼の仮面の下で、耐え難い屈辱となって燃え上がっていた。
(それでも…)
アザゼルは、自分の薄汚れた白衣の袖を、無意識に握りしめる。
生徒会の極秘ファイルにも記されていない、彼の過去。
まだ妹が生きていて、彼が狂気の化学者になる前。
彼は、ただ人の命を救いたいと願う、一人の『医者』だった。
ニヒリストを気取っても、この白衣を脱ぎ捨てられないのは、まだ良識があったあの頃を、家族がいた温かい日々を、忘れられないからだ。
そして、目の前に広がるこの百鬼夜行の惨状。
アビドスよりも、遥かに酷い。
彼の『医者』としての目が、栄養失調だけではない、数多の病を見抜いていた。
長く続くストレスによる精神疾患、不衛生な環境が引き起こす感染症、そして希望を失ったことによる、心の病。
ここには、治療を必要とする『患者』が溢れている。
そして、奇妙なことに。
自分の手元には、アビドスの少女から託された、最新鋭の医療キットがある。
神など信じない。だが、こういう皮肉な運命の巡り合わせは、信じてもいいかもしれない。
今、自分にできることは何か。
打ちひしがれている先生を慰めることか? 違う。
自らの過去を嘆くことか? 論外だ。
答えは、一つしかない。
「いつまで、そんな子供じみた理想論に浸っているつもりですか。交渉? 支援要請? そんなもので、この死んだ世界が救えるとでも?」
アザゼルは、先生の横を通り過ぎると、広場の中心へと歩き出した。
そして、警戒する生徒たち全員に聞こえるように、朗々と宣言した。
「――ここに、無料の診療所を開設します」
その場にいた誰もが、耳を疑った。
「治療費は一切いただきません。怪我でも、病でも、何でも診ましょう。ただし…」
アザゼルは、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「私の手は、安くはありませんよ。治療を受けた方には、それ相応の『対価』を、別の形で支払っていただきます」
彼は、セリカから渡された最高級の医療キットのケースを、地面に置いた。
パチン、と留め具を外す乾いた音が、静まり返った広場に響き渡る。
先生が、ただ立ち尽くすことしかできなかった状況を、キヴォトス最悪の犯罪者と蔑まれた男が、自らの意志で、たった一人で、動かし始めようとしていた。