ブルーアーカイブ Last on Kivotos   作:ヴィーナス

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第23話:贖罪の診療所

アザゼルの唐突な宣言に、広場は水を打ったように静まり返った。

 

無料の診療所。

その言葉は、この10年間、まともな医療を受けられずにいた生徒たちにとって、にわかには信じがたい響きを持っていた。

だが、それ以上に、その言葉を発したのがアザゼルであるという事実が、人々に戦慄と、そして強烈な疑念を抱かせた。

 

「治療だと…? あんたみたいな犯罪者が、何を企んでる…」

「無料なんて、どうせ人体実験の材料にされるに決まってる…」

 

生徒たちの囁き声は、恐怖と不信に満ちていた。

先生が言い出すのなら、まだ理解できる。あの男は、そういうお人好しに見える。

だが、アザゼルは違う。キヴォトス最悪の犯罪者の一人、神秘を憎み、学園を滅ぼした男。

そんなボランティア精神とは最も縁遠い男が、自ら進んで人助けなどするはずがない。

 

アザゼルは、そんな視線を意にも介さず、医療キットから手際よく器具を取り出し、広場の隅に即席の診察台を設営し始めた。

その時だった。

 

歓迎してくれた動物族の集団の中から、一人の女性が、意を決したように進み出た。

彼女は狐の耳を持つシングルマザーで、その腕には、ぐったりと意識を失い、苦しそうに喘ぐ幼い子供が抱かれている。

 

「お願いします…! この子を、この子を助けてください…!」

 

彼女は、アザゼルの前にひざまずき、涙ながらに懇願した。

その行動に、遠巻きに見ていた人間や他の種族の生徒たちから、どよめきと非難の声が上がる。

 

「おい、やめとけ! 相手はあのアザゼルだぞ!」

「そんな奴に子供を預けるなんて、正気か!?」

「どんな薬を使われるか分かったもんじゃない!」

 

彼女たちの善意からくるであろう制止の声も、今の彼女には届かなかった。

彼女は、周囲の声に惑わされることなく、ただ目の前の男を見据えていた。

彼女たち動物族にとって、アザゼルの過去は、人間たちの世界の揉め事のように見えていた。

神秘無効化薬は良くない発明だったかもしれないが、元々ヘイローを持たない自分たちには、あまり関係のない話だ。

 

彼女が信じるのは、自らの嗅覚。

目の前の男から漂う匂いは、確かに過去の罪を示すどす黒いものだった。

だが、それだけではない。その奥に、微かに、しかし確かに、誠実な『医者』の匂いがした。

そして、隣に立つ先生の影響か、その匂いは少しずつ浄化されつつあるようにも感じられた。

多少の嘘は言うかもしれないが、この男が、腕の中の子供の命を弄ぶような真似はしない。

彼女の直感が、そう告げていた。

 

「もう、他に頼れるところなんてないんです…! このままでは、この子は…!」

 

彼女の悲痛な叫びに、アザゼルは短く溜息をついた。

 

「…やれやれ。騒がしいですねぇ。そこに寝かせなさい」

 

彼は、驚くほど手慣れた様子で子供を診察し、即座に診断を下す。

 

「重度の肺炎に、栄養失調による合併症ですか。随分と無茶をしましたね」

 

アザゼルは、最新の抗生物質と栄養剤を調合し、子供の腕に注射した。

数分後、子供の荒かった呼吸は、嘘のように穏やかになっていた。

 

「…息が、楽に…」

「当然の結果です。ただし、これは応急処置に過ぎません。本格的な治療には、薬草の現地調達が必要になりますねぇ」

 

アザゼルはそう言うと、呆然と立ち尽くす先生の方を振り返った。

 

「先生。あなた、体力だけはありそうですね。私の指示通りに、この辺りの野山で薬草を採取してきてもらえますか? ハーブや漢方に使うような、特定の植物です。あなたは『実行する手足』、私は『指示する頭脳』。悪くない分業でしょう?」

 

その言葉に、先生はハッと我に返った。

そうだ、自分にできることはまだある。一人で抱え込む必要はない。

自分にできる役割を果たせばいいのだ。

 

「…わかった。指示をくれ」

 

先生の目に、再び光が宿る。

 

先生は、アザゼルの「手足」として、彼の様々な助手を務めることになった。

薬草の採取、器具の洗浄、患者の呼び込み、そして治療を待つ人々との対話。

その中で、先生は現実を通して、この百鬼夜行連合学院が抱える問題と、そして秘められた強みを深く理解していく。

 

薬草採取に同行してくれた動物族の生徒からは、この土地の豊かな自然と、彼らが持つ専門的な知識の価値を教わった。

治療を受けた生徒たちからは、10年間の停滞が生んだ心の病と、それでも失われていない手先の器用さや、かつて得意だった技術の話を聞いた。

 

先生は、アザゼルから渡された図鑑を片手に、百鬼夜行の野山を駆け回った。

驚いたことに、この閉ざされた土地は、外部の汚染から守られていたためか、薬効の高い植物の宝庫だった。

先生は、言われた薬草を収穫しながら、念のために、どの場所に、どの種類の植物が、どれだけ群生しているかを詳細にメモしていく。

 

アビドスの地下都市で、治療薬の慢性的な不足に苦しむ住民たちの姿を見てきた。

この豊富な薬草は、いつか結界が解かれた時、アビドスと百鬼夜行を繋ぐ、有望な取引材料になるかもしれない。

リンとの会話で、先生は痛感していた。

一方的な支援や善意だけでは、関係は長続きしない。連邦生徒会のように、いずれ破綻する。

アビドスと百鬼夜行、双方にメリットのある、対等な関係を築かなければならない。

 

連邦生徒会の栄光を知らない先生は、過去の常識に囚われない。

ただ、目の前の人々と対話を重ねることで、無意識のうちに、新しいキヴォトスのための、独自のビジョンを構築し始めていた。

 

診療所に戻ると、アザゼルの手腕に、先生は改めて舌を巻いた。

彼が調合する薬は、人間だけでなく、多種多様な動物族、さらにはこの地に僅かに残る天使や悪魔の血を引く生徒にまで、的確な効果を発揮した。

それぞれの種族の体質の違いを完璧に理解し、薬草の配合を微調整する。それは、まさに神業だった。

 

アザゼルに使われるうちに、先生は彼への見方を変えていった。

彼は単なる虚無主義者ではない。黒服やシラヌイと同じように、複雑な過去を抱え、その罪に苛まれながらも、今、目の前の命を救おうと必死にもがいている、一人の人間なのだと。

 

アザゼル自身もまた、なんとも言えない気持ちになっていた。

かつて、神秘無効化薬を研究するために、キヴォトス中のあらゆる薬草や鉱物を研究し尽くした。

その知識が、今こうして、人を救うために役立っている。

数奇な運命の巡り合わせに、彼は自嘲ともつかない笑みを浮かべるしかなかった。

 

噂は、様々な形で、しかし確実に町中に広まっていった。

「あのよそ者の医者、犯罪者らしいが腕は確かだ。先生の影響で心を入れ替えたのかもな」

「その辺のヤブ医者よりよっぽどいい。何より、あいつの薬は副作用がほとんどない」

 

一部の動物族の古老たちは、アザゼルの処方が、百鬼夜行で古くから伝わるものの、今では忘れ去られた処方箋に酷似していることに気づき、感心していた。

並の医者では知り得ない知識だ。彼がただの犯罪者ではないと、認識が変わり始めていた。

 

支援の輪は、ゆっくりと、しかし着実に広がっていく。

まず、治療を受けた動物族やその家族が、感謝の印として食料や日用品を届け始めた。

やがて、彼らの中で影響力を持つ大物が口利きをし、一行は廃墟となっていた建物を無償で借り受け、正式な診療所として構えることができた。

一部の動物族は、先生と共に薬草の収穫を手伝うようになった。彼らの優れた嗅覚は、より品質の高い薬草を見つけ出すのに大いに役立った。

 

次に動いたのは、ホームレス同然の暮らしをしていた生徒たちだった。

頼る先のない彼女たちは、治療の対価として、自らの情報網を駆使し、診療所の評判を口コミで広めていった。

そして、多くの一般人は、自分たちより弱い立場の人々を支える者を、評価する傾向がある。

かつては極悪人だったかもしれないが、今は無償で人々を治療している。

その事実が、アザゼルへの評価を「危険な犯罪者」から「怪しいが腕の立つ医者」へと、少しずつ塗り替えていった。

 

そして、ごく一部の生徒たちにとって、アザゼルは唯一無二の希望だった。

運悪く10年前に百鬼夜行に滞在し、結界に閉じ込められた、天使や悪魔の血を引く生徒たち。

彼女たちは、その特異な体質から差別と偏見に晒され、この鎖国状態では、彼女たちの体質に合った薬を処方できる医者はいなかった。

アザゼルだけが、彼女たちの苦しみを理解し、適切な治療を施すことができた。

治療によって救われた彼女たちは、種族単位でアザゼルへの支持を表明し、それはやがて、無視できない政治的な力となっていく。

 

診療所が繁盛し、人手不足に悩み始めた、そんなある日のことだった。

 

「お困りの方はいませんかー? 救護騎士団、ただいま参上しました!」

 

診療所の入り口から、明るく、しかしどこか控えめな声が聞こえた。

そこに立っていたのは、見慣れない制服を着た二人の少女だった。

 

「あなたたちは…トリニティの?」

 

先生が問いかけると、背の高い方の少女、セリナが優雅に一礼した。

 

「はい。私は救護騎士団の鷲見セリナと申します。ふふっ、どうやら間に合ったみたいですね」

 

隣では、小柄な少女、ハナエが救急箱を胸に抱きしめ、心配そうに診療所の中を見回している。

 

「た、大変です! こんなにたくさんの患者さんが…! すぐに治療しないと!」

 

セリナが説明を続ける。

「私たちは、『色彩消滅作戦』の後方支援で百鬼夜行に来ていたのですが…大結界に巻き込まれて、脱出できなくなってしまって…。それで、こちらの診療所の噂を耳にしたのです」

 

よそ者として、ずっと肩身の狭い思いをしていた彼女たちは、自分たちの技術を役立てたいと願ったのだ。

 

「…ふむ。救護騎士団、ですか」

 

アザゼルは、値踏みするように二人を見た。

彼の知識の中に、もちろん救護騎士団の情報はある。トリニティが誇る、慈愛と奉仕の医療集団。

だが、同時に彼は、その限界も知っていた。

 

「あなた方の治療は、そのほとんどが神秘を用いたものでしょう。この神秘が消えつつある世界で、その力はどれほど残っているのですか? 付け焼き刃の知識では、ここでは何の役にも立ちませんよ」

 

アザゼルの言葉は、二人の痛いところを突いていた。

実際、彼女たちの力は大幅に減衰し、本格的な治療は行えず、無力感に苛まれる日々を送っていたのだ。

ハナエが、目に涙を浮かべて俯く。

 

「うぅ…おっしゃる通りです…。私たちだけでは、もう…」

 

しかし、セリナは、悔しさを滲ませながらも、真っ直ぐにアザゼルを見つめ返した。

 

「…はい、その通りです。だからこそ、私たちは学びたいのです。神秘に頼らない、本物の医療技術を。あなたの知識と技術を、どうか私たちに教えてください! みんなの健康を守るためにも、私たちはもっと強くならなければいけないのですから!」

 

その瞳に宿る、純粋な探究心と、患者を救いたいという真摯な光を見て、アザゼルは小さく頷いた。

 

「いいでしょう。私の元で、その甘ったれた奉仕の精神を、一から叩き直してあげますよ」

 

こうして、キヴォトス最悪の犯罪者が率いる、奇妙な医療チームが誕生した。

それは、この停滞した楽園に灯った、小さく、しかし確かな希望の拠点となっていく。

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