ブルーアーカイブ Last on Kivotos 作:ヴィーナス
冷たい石畳の感触が、薄い服を通して伝わってくる。
今日の任務も、終わった。
いつものように、誰もいない路地裏で、膝を抱える。
これが、今のイズナにとって、唯一、息ができる時間だった。
10年前、イズナは故郷に帰ってきた。
でも、そこはもう、イズナの知っている百鬼夜行じゃなかった。
お祭りの音も、みんなの笑い声も聞こえない。
ただ、静かで、暗くて、息が詰まるような場所になっていた。
忍術研究部の仲間たちも、みんな、疲れた顔をしていた。
イズナは、分かってた。今のイズナがここにいたら、みんなをもっと苦しめるだけだって。
だから、イズナは、みんなの前から消えた。
ニンニン、って。
でも、一人ぼっちは、寂しかった。お腹も、すいた。
そんな時、あの人たちが現れたんだ。陰陽部の、偉い人たち。
「君の力を、この百鬼夜行のために役立ててみないか?」
「君が夢見る、誰かを助ける『かっこいい忍者』になれる、またとない機会だ」
嬉しかった。
イズナの力を、必要としてくれる人がいた。
もう一度、『かっこいい忍者』になれるかもしれない。
温かいご飯と、ふかふかのベッド。
そして、久しぶりにできた『仲間』たち。
イズナは、ここが自分の新しい居場所なんだって、信じてた。
「はい! このイズナ、お役に立ってみせます! ニンニン!」
最初は、本当に楽しかった。
仲間と一緒に、情報収集をしたり、尾行をしたり。
まるで、本物の忍者みたいだって、ワクワクした。
でも、任務はだんだん、おかしくなっていった。
危ない場所に忍び込んだり、他の部活の人たちと戦ったり。
そして、仲間が、一人ずついなくなった。
『失敗したから』って、あの人たちは言ってた。
でも、イズナは知ってる。
あの人たちは、最初からイズナだけが欲しかったんだって。
そして、イズナは、また一人ぼっちになった。
一人になったイズナに与えられる任務は、もう、忍者のお仕事じゃなかった。
「これは…イズナがなりたかった、忍者じゃない…」
誰かを、傷つけた。
大切なものを、壊した。
もう、イズナの手は、真っ黒だ。
お父様が、昔、教えてくれた。
『いいか、イズナ。どんな時も、最後の一線は越えるな。心を殺すな。そうでなければ、ただの人殺しだ』って。
その言葉だけが、イズナを、イズナでいさせてくれる。
でも、その言葉が、一番、イズナを苦しめる。
だって、自分がどれだけ汚いことをしているか、分かってしまうから。
今日も、小さなノートを開く。
インクの匂いが、少しだけ、心を落ち着かせてくれる。
『主君、助けてください…』
『イズナは、もう、どうすればいいか分からないのです…』
ペンを持つ手が、震える。
『主君』って、誰なんだろう。
昔、かっこいいって憧れてた、お父様のこと?
それとも…。
ふと、空を見上げる。
遠い、遠い記憶。
あの『色彩消滅作戦』の最後、イズナたちを守るために、たった一人で光の中に消えていった、優しい大人の人。
『先生』。
イズナの夢を、笑わずに「かっこいいね」って言ってくれた、たった一人の主君。
あの時みたいに、また、空から降ってきてくれないかな。
「よく頑張ったね」って、頭を撫でてくれないかな。
…無理だよね。
分かってる。先生は、もういない。
死んじゃった人は、帰ってこない。
そんなの、当たり前だ。
でも、もし、万が一…。
そんなありえない奇跡を、心のどこかで、ずっと待ち望んでいる。
この悪夢から、イズナを救い出してくれる、誰かを。
でも、きっと、もう時間がない。
あの人たちの命令は、日に日にエスカレートしている。
近いうちに、きっと、イズナに『人殺し』を命じるだろう。
父との約束を破り、心を完全に殺さなければいけない、最後の一線を。
その日が来たら、イズナは、もう、イズナじゃなくなってしまう。
声にならない叫びは、やっぱり、誰にも届かない。
イズナは、静かにノートを閉じた。
また、明日が来る。
心を殺して、任務をこなす、ただの人形としての一日が。