ブルーアーカイブ Last on Kivotos 作:ヴィーナス
シラヌイが、仲間たちに全てを打ち明けていた、その頃。
陰陽部の薄暗い一室で、一人の男が、モニターに映るイズナのプロファイルを眺めながら、満足げに口元を歪めていた。
彼は、陰陽部の上層部の一人。
桑上カホの政敵であり、彼女のような若輩の小娘が自分より上に立つ現状を、苦々しく思っている男だった。
「駒は、熟したか…」
彼は、部下を呼びつけると、冷徹な声で命令を下した。
「久田イズナに、新たな任務を伝えろ。標的は、最近、街の広場で無料診療所を開き、住民たちの支持を集めている、謎の医者だ。我々の統治の、邪魔になっている。――暗殺せよ、と」
部下が、恐る恐る口を挟む。
「し、しかし、カホ副部長からは、彼らへの干渉は禁ずるようにと…」
「黙れ」
男は、部下を冷たく一瞥した。
「あの小娘の指図など、聞く必要はない。これは、我々の派閥の力を示す、絶好の機会だ。あの医者を消し、同時に、この久田イズナという駒に、最後の一線を越えさせる。一度でも人を殺せば、もう元には戻れん。完全な操り人形の完成だ。まさに、一石二鳥だろう?」
男の目には、イズナの未来も、医者の命も、ただの消耗品としか映っていなかった。
その頃、イズナは、その非情な命令を前に、凍りついていた。
医者殺し。
今までとは、次元が違う。これは、ただの破壊工作ではない。明確な、人殺しだ。
(だめだ…そんなこと、できるわけない…!)
イズナの全身が、拒絶に震える。
父から教わった、たった一つの教え。『心を殺すな。そうでなければ、ただの人殺しだ』。
この命令を受ければ、父との約束を破り、完全に道を踏み外すことになる。
倫理観のかけらもない、この命令だけは、絶対に。
「…お断り、します」
声が、震えた。
しかし、上層部の男は、表情一つ変えずに、冷たく言い放った。
「そうか。ならば、この任務は他の者に回そう。お前は、もう用済みだ」
その言葉が、イズナに冷酷な現実を突きつけた。
自分が断れば、どうなる?
他の誰かが、あの医者を殺しに行くだけだ。そして自分は、用済みとして、この場で消される。
結果は、何も変わらない。
いや、自分が死ぬ分、もっと悪くなる。
(拒否、できない…)
絶望が、彼女の心を完全に支配した。
選択肢など、最初からなかったのだ。
「…承知、いたしました」
震える声を、必死に押し殺す。
任務実行までの数日間、イズナは地獄を味わった。
眠れない夜が続いた。目を閉じれば、自分が医者を殺す光景が、繰り返し脳裏に再生される。
食事は、喉を通らなかった。無理に口に入れても、砂を噛んでいるようで、味がしない。
水さえ、吐き戻した。
だが、本当の地獄は、そこからだった。
上層部から支給される食事や水に、何かが盛られていることに、彼女は気づいていた。
微量の、しかし確実に精神を蝕む薬物。
思考が、まとまらない。
現実と、悪夢の境界が、曖昧になっていく。
体が、自分の言うことを聞かない。
これは、拒否できないようにするための罠だ。
そして、任務が終わった後、自分を「薬物で狂った女が、犯罪者を誤って殺した」という筋書きの、使い捨ての駒にするための。
その夜。
イズナは、もはや自分の意志とは関係なく、ふらつく足で診療所へと向かっていた。
父から教わった忍びの術は、完璧だった。体が覚えていた動きで、誰にも気づかれることなく、音もなく、彼女は標的の寝室へとたどり着く。
月明かりが、部屋の中をぼんやりと照らしている。
ベッドには、一人の男が眠っていた。
あの医者、アザゼルだ。
イズナは、懐からクナイを抜き放つ。
冷たい鋼の感触が、薬で混濁した意識の中で、唯一、確かなものに感じられた。
(これを、この人の胸に突き立てれば、全部、終わるんだ…)
思考が、ぬかるみの中を引きずられるように、重く、鈍い。
目の前の光景が、ぐにゃりと歪む。ベッドに横たわる男の輪郭が、滲んで、溶けて、また形を結ぶ。
あれは、誰だっけ。
ああ、そうだ。標的の、『医者』。
殺さないと。殺さないと、私が、殺される。
クナイを握る手に、力が入らない。
指先が、氷のように冷たい。
何日、眠っていないんだろう。
最後に、何かを食べたのは、いつだっけ。
思い出せない。
頭の中が、白い霧で満たされているみたいだ。
呼吸が、うまくできない。
吸っても、吸っても、空気が肺まで届かない。
心臓だけが、肋骨を突き破りそうなほど、激しく、不規則に脈打っている。
ドクン、ドクン、と。
うるさい。
もう、どうでもいい。
考えるのは、疲れた。
怖いのも、悲しいのも、苦しいのも、全部、疲れた。
早く、楽になりたい。
この、終わらない悪夢から、解放されたい。
そうだ。
この冷たい鉄の塊を、あの静かな胸に突き立てれば。
そうすれば、全部、終わる。
この苦しみも、この任務も、そして、こんな風になってしまった、イズナの人生も。
それで、いい。
それが、いい。
朦朧とする意識の中、私は、ただ無心に、腕を振り上げた。
その、瞬間だった。
「――そこまでだ、イズナ」
声が、した。
薬で鈍った頭に、直接響くような、低くて、懐かしい声。
ありえない。
だって、その声の主は、もう、どこにもいないはずだから。
ゆっくりと、錆びついたブリキの人形みたいに、振り返る。
そこに立っていたのは、幻じゃなかった。
10年間、夢にさえ出てきてくれなかった、お父様。
そして、その隣に。
「―――え?」
息が、止まった。
心臓が、止まった。
時間が、止まった。
『先生』。
10年前、あの光の中に消えたはずの、優しい人。
あの日のままの姿で、あの日のままの優しい目で、私を見ている。
(なんで…? どうして…?)
薬で狂った頭が、現実を理解できない。
任務とか、暗殺とか、恐怖とか、そんなものが、全部、どこか遠くへ消えていく。
目の前の光景が、あまりにも、ありえなさすぎて。
洗脳よりも、薬物よりも、もっとずっと、信じられない現実が、任務への恐怖を、何もかもを、上回ってしまった。
体が、動かない。
金縛りにあったみたいに、身動き一つ、できなくなった。
そんな私に、先生が、静かに、でも、はっきりと、言ってくれた。
「もう、いいんだ。もう、一人で戦わなくていい」
その言葉が、引き金だった。
ぷつん、と。
今まで、ずっと張り詰めていた、最後の糸が、切れた。
(あ…ああ…)
心の奥底に、鍵をかけて、無理やり押し込めていた、たくさんのものが、一気に溢れ出してくる。
怖かった。
ずっと、ずっと、怖かった。
誰も助けてくれないって、絶望してた。
悲しかった。
苦しかった。
でも、今、目の前に。
お父様と、先生が、いる。
助けに、来てくれたんだ。
「あ…ああ…うわああああああああああッ!」
もう、我慢できなかった。
手から、クナイが滑り落ちる、カラン、という小さな音も聞こえない。
私は、その場に崩れ落ちて、ただ、泣いた。
子供みたいに、声を上げて、わんわん泣いた。
10年間、ずっと、ずっと、溜め込んでいた涙。
止まらなかった。
止める方法も、もう、分からなかった。