ブルーアーカイブ Last on Kivotos   作:ヴィーナス

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第27話:忍びの涙

シラヌイが、仲間たちに全てを打ち明けていた、その頃。

陰陽部の薄暗い一室で、一人の男が、モニターに映るイズナのプロファイルを眺めながら、満足げに口元を歪めていた。

 

彼は、陰陽部の上層部の一人。

桑上カホの政敵であり、彼女のような若輩の小娘が自分より上に立つ現状を、苦々しく思っている男だった。

 

「駒は、熟したか…」

 

彼は、部下を呼びつけると、冷徹な声で命令を下した。

 

「久田イズナに、新たな任務を伝えろ。標的は、最近、街の広場で無料診療所を開き、住民たちの支持を集めている、謎の医者だ。我々の統治の、邪魔になっている。――暗殺せよ、と」

 

部下が、恐る恐る口を挟む。

 

「し、しかし、カホ副部長からは、彼らへの干渉は禁ずるようにと…」

「黙れ」

 

男は、部下を冷たく一瞥した。

 

「あの小娘の指図など、聞く必要はない。これは、我々の派閥の力を示す、絶好の機会だ。あの医者を消し、同時に、この久田イズナという駒に、最後の一線を越えさせる。一度でも人を殺せば、もう元には戻れん。完全な操り人形の完成だ。まさに、一石二鳥だろう?」

 

男の目には、イズナの未来も、医者の命も、ただの消耗品としか映っていなかった。

 

その頃、イズナは、その非情な命令を前に、凍りついていた。

医者殺し。

今までとは、次元が違う。これは、ただの破壊工作ではない。明確な、人殺しだ。

 

(だめだ…そんなこと、できるわけない…!)

 

イズナの全身が、拒絶に震える。

父から教わった、たった一つの教え。『心を殺すな。そうでなければ、ただの人殺しだ』。

この命令を受ければ、父との約束を破り、完全に道を踏み外すことになる。

倫理観のかけらもない、この命令だけは、絶対に。

 

「…お断り、します」

 

声が、震えた。

しかし、上層部の男は、表情一つ変えずに、冷たく言い放った。

 

「そうか。ならば、この任務は他の者に回そう。お前は、もう用済みだ」

 

その言葉が、イズナに冷酷な現実を突きつけた。

自分が断れば、どうなる?

他の誰かが、あの医者を殺しに行くだけだ。そして自分は、用済みとして、この場で消される。

結果は、何も変わらない。

いや、自分が死ぬ分、もっと悪くなる。

 

(拒否、できない…)

 

絶望が、彼女の心を完全に支配した。

選択肢など、最初からなかったのだ。

 

「…承知、いたしました」

 

震える声を、必死に押し殺す。

 

任務実行までの数日間、イズナは地獄を味わった。

眠れない夜が続いた。目を閉じれば、自分が医者を殺す光景が、繰り返し脳裏に再生される。

食事は、喉を通らなかった。無理に口に入れても、砂を噛んでいるようで、味がしない。

水さえ、吐き戻した。

 

だが、本当の地獄は、そこからだった。

上層部から支給される食事や水に、何かが盛られていることに、彼女は気づいていた。

微量の、しかし確実に精神を蝕む薬物。

 

思考が、まとまらない。

現実と、悪夢の境界が、曖昧になっていく。

体が、自分の言うことを聞かない。

これは、拒否できないようにするための罠だ。

そして、任務が終わった後、自分を「薬物で狂った女が、犯罪者を誤って殺した」という筋書きの、使い捨ての駒にするための。

 

その夜。

イズナは、もはや自分の意志とは関係なく、ふらつく足で診療所へと向かっていた。

父から教わった忍びの術は、完璧だった。体が覚えていた動きで、誰にも気づかれることなく、音もなく、彼女は標的の寝室へとたどり着く。

 

月明かりが、部屋の中をぼんやりと照らしている。

ベッドには、一人の男が眠っていた。

あの医者、アザゼルだ。

 

イズナは、懐からクナイを抜き放つ。

冷たい鋼の感触が、薬で混濁した意識の中で、唯一、確かなものに感じられた。

 

(これを、この人の胸に突き立てれば、全部、終わるんだ…)

 

思考が、ぬかるみの中を引きずられるように、重く、鈍い。

目の前の光景が、ぐにゃりと歪む。ベッドに横たわる男の輪郭が、滲んで、溶けて、また形を結ぶ。

 

あれは、誰だっけ。

ああ、そうだ。標的の、『医者』。

殺さないと。殺さないと、私が、殺される。

 

クナイを握る手に、力が入らない。

指先が、氷のように冷たい。

何日、眠っていないんだろう。

最後に、何かを食べたのは、いつだっけ。

思い出せない。

 

頭の中が、白い霧で満たされているみたいだ。

呼吸が、うまくできない。

吸っても、吸っても、空気が肺まで届かない。

心臓だけが、肋骨を突き破りそうなほど、激しく、不規則に脈打っている。

ドクン、ドクン、と。

 

うるさい。

もう、どうでもいい。

考えるのは、疲れた。

怖いのも、悲しいのも、苦しいのも、全部、疲れた。

早く、楽になりたい。

この、終わらない悪夢から、解放されたい。

 

そうだ。

この冷たい鉄の塊を、あの静かな胸に突き立てれば。

そうすれば、全部、終わる。

この苦しみも、この任務も、そして、こんな風になってしまった、イズナの人生も。

 

それで、いい。

それが、いい。

 

朦朧とする意識の中、私は、ただ無心に、腕を振り上げた。

その、瞬間だった。

 

「――そこまでだ、イズナ」

 

声が、した。

薬で鈍った頭に、直接響くような、低くて、懐かしい声。

ありえない。

だって、その声の主は、もう、どこにもいないはずだから。

 

ゆっくりと、錆びついたブリキの人形みたいに、振り返る。

そこに立っていたのは、幻じゃなかった。

10年間、夢にさえ出てきてくれなかった、お父様。

そして、その隣に。

 

「―――え?」

 

息が、止まった。

心臓が、止まった。

時間が、止まった。

 

『先生』。

10年前、あの光の中に消えたはずの、優しい人。

あの日のままの姿で、あの日のままの優しい目で、私を見ている。

 

(なんで…? どうして…?)

 

薬で狂った頭が、現実を理解できない。

任務とか、暗殺とか、恐怖とか、そんなものが、全部、どこか遠くへ消えていく。

目の前の光景が、あまりにも、ありえなさすぎて。

洗脳よりも、薬物よりも、もっとずっと、信じられない現実が、任務への恐怖を、何もかもを、上回ってしまった。

 

体が、動かない。

金縛りにあったみたいに、身動き一つ、できなくなった。

そんな私に、先生が、静かに、でも、はっきりと、言ってくれた。

 

「もう、いいんだ。もう、一人で戦わなくていい」

 

その言葉が、引き金だった。

ぷつん、と。

今まで、ずっと張り詰めていた、最後の糸が、切れた。

 

(あ…ああ…)

 

心の奥底に、鍵をかけて、無理やり押し込めていた、たくさんのものが、一気に溢れ出してくる。

怖かった。

ずっと、ずっと、怖かった。

誰も助けてくれないって、絶望してた。

悲しかった。

苦しかった。

 

でも、今、目の前に。

お父様と、先生が、いる。

助けに、来てくれたんだ。

 

「あ…ああ…うわああああああああああッ!」

 

もう、我慢できなかった。

手から、クナイが滑り落ちる、カラン、という小さな音も聞こえない。

私は、その場に崩れ落ちて、ただ、泣いた。

子供みたいに、声を上げて、わんわん泣いた。

 

10年間、ずっと、ずっと、溜め込んでいた涙。

止まらなかった。

止める方法も、もう、分からなかった。

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