ブルーアーカイブ Last on Kivotos 作:ヴィーナス
イズナの救出には、成功した。
先生とシラヌイは、泣き崩れて意識を失った彼女を抱え、誰にも気づかれることなく診療所へと戻った。
アザゼルは、診療所の奥にある簡易ベッドにイズナを寝かせると、その表情を、いつもの皮肉な笑みから、冷徹な『医者』の顔へと変えた。
「先生、彼女の呼吸が浅い。気道を確保してください。セリナ、ハナエ、あなたたちは点滴の準備を。血圧が下がりすぎている」
アザゼルの指示が、静かな診療所に鋭く響く。
時間との戦いが始まった。
まず、ABCDEアプローチによる生命の維持。
アザゼルは、イズナの口内に指を入れ、嘔吐物がないかを確認し、気道を確保する。
聴診器を胸に当て、その微かな呼吸音を聞き逃すまいと集中する。
「呼吸抑制が見られる。瞳孔は…散瞳気味か。薬物の種類は、おそらく中枢神経抑制系と、何らかの興奮剤の混合…悪趣味なカクテルですねぇ」
アザゼルは、カイザーと手を組んでいた時代、薬物乱用者の無残な末路を嫌というほど見てきた。
だが、今回は違う。目の前にいるのは、名も知らぬ中毒者ではない。チームの一員の、たった一人の娘だ。
失敗は、許されない。
「ハナエ、活性炭を。経口投与は無理だ、胃管を挿入します」
「は、はい!」
ハナエが震える手で準備をする横で、アザゼルはイズナの鼻から細いチューブを挿入し、胃の内容物を吸引し始める。
限られた設備しかないこの場所では、胃洗浄はこれが限界だ。
「セリナ、点滴の速度を上げてください。強制利尿で、体内の毒素を少しでも早く排出させる」
「はい!」
血液検査も、精密な薬物分析もできない。
頼れるのは、自らの知識と経験、そして五感だけだ。
アザゼルは、イズナの汗の匂いを嗅ぎ、皮膚の色を観察し、脈拍の僅かな乱れから、体内で何が起きているかを正確に読み取っていく。
「…くそっ、不整脈が出始めた。心臓にまで影響が…!」
彼は、医療キットの奥から、一本のアンプルを取り出した。拮抗薬だ。
しかし、薬物の種類が完全に特定できていない以上、これは諸刃の剣。
もし種類を間違えれば、彼女の容態は急激に悪化する。
(賭けるしかないか…!)
アザゼルは、一瞬の躊躇の後、注射器をイズナの腕に突き立てた。
診療所の中に、張り詰めた沈黙が流れる。
先生も、セリナも、ハナエも、固唾を飲んで心電図モニターの波形を見守る。
一分、二分…。
永遠のように感じられる時間が過ぎた、その時。
不規則だった波形が、ゆっくりと、しかし確実に、正常なリズムを取り戻し始めた。
イズナの浅かった呼吸が、深く、穏やかなものに変わっていく。
「…峠は、越えましたか」
アザゼルは、額に浮かんだ汗を拭い、深く息を吐いた。
彼の顔には、疲労の色が濃く浮かんでいた。
数日後、イズナは目を覚ました。
しかし、彼女と父のシラヌイは、先生たちに短い感謝の言葉だけを残すと、夜陰に紛れて再び姿を消してしまった。
「少しだけ、時間をくれ」
シラヌイが残した書き置きには、そう記されていた。
診療所は、相変わらず多くの患者で賑わい、人々の信頼を集めていた。
だが、百鬼夜行全体の状況は、何も変わっていない。
停滞した空気、貧しい暮らし、そして見えない上層部からの圧力。
先生は、部分的な成功の裏で、より大きな問題が、この街の根を深く蝕んでいることに気づき始めていた。
「俺たちのやっていることは、ただの対症療法に過ぎないのかもしれない…」
診療所の窓から、生気のない街並みを眺めながら、先生は呟く。
自分の無力さを、改めて痛感していた。
そして、その先生の不安を裏付けるかのように。
水面下では、新たな影が、不気味に胎動を始めていた。
百鬼夜行の片隅に、放棄されて久しい、古い学園の廃墟があった。
かつては多くの生徒で賑わったであろうその場所は、今や都市伝説の舞台となり、誰も寄り付かない。
その、最も奥まった一室。
そこに、一人の少女がいた。
花鳥風月部の「怪談家」、箭吹シュロ。
彼女は、床に広げられた百鬼夜行の設計図と、山積みの爆薬を、冷たい瞳で見下ろしていた。
「愚かですね」
シュロは、誰に言うでもなく、静かに呟いた。
その声は丁寧だが、底知れない侮蔑を含んでいる。
「あの医者も、あの先生という男も。目先の病や怪我を治したところで、この街を蝕む根本的な病巣――『停滞』そのものを治せるわけではないというのに。本当に、愚かです」
シュロは、かつてこの場所で、花鳥風月部の部長であるコクリコと出会った。
コクリコは、この「停滞」を嘆き、それを破壊することこそが、最高の「風流」であり、最も美しい「物語」になると語った。
シュロは、その思想に、その美学に、心から心酔した。
コクリコこそが、自分の全てを理解してくれる、唯一の存在だった。
しかし、そのコクリコは、この10年間の停滞の中で、病に倒れ死んでいった。
シュロは、コクリコを殺した、この「停滞」そのものを、心の底から憎んでいた。
結界に守られた、生かさず殺さずの安寧。変化を恐れ、嘘と体裁で塗り固められた日常。
その全てが、彼女にとっては許しがたい悪だった。
「嘘は、絶対に許されません。嘘の上に築かれた平和など、偽物です。それは、いずれ必ず、より大きな悲劇を生む。だから、壊さなければならないのです」
彼女の独白は、断定的で、絶対的だ。
この神秘が失われた世界では、かつてのように怪異を呼び出し、人々を惑わすことなどできない。
彼女自身も、ヘイローを失ったただのか弱い少女だ。怪我をすれば血を流し、死ねば二度と生き返らない。
だからこそ、彼女が選んだ手段は、より直接的で、より破壊的なものだった。
「この腐った楽園は、一度、全部焼き尽くさないと。それが、コクリコ様が望んだ、最高の『物語』の始まりになるのですから」
シュロの目の前には、大量の爆薬と、起爆装置が並べられていた。
彼女は、先生一行の出現によって生まれた、この街の僅かな混乱に乗じて、水面下で、着々と同時多発テロの準備を進めていたのだ。
狙うは、この街の生命線である、水道、電気、通信といったインフラ施設。
それらを同時に爆破し、街全体を修復不可能な混乱に陥れ、その火の粉で、偽りの楽園を根こそぎ焼き尽くす。
それは、単なる破壊ではない。
偽りの平和を享受する愚かな者たちに、真実を突きつけるための、聖戦の準備だった。
そして、何よりも、愛するコクリコが夢見た、破滅という名の美しい物語を、この手で完成させるための。