ブルーアーカイブ Last on Kivotos   作:ヴィーナス

3 / 37
第3話:憎悪との遭遇

アビドスへの旅を始めて、数日が経過した。

 

太陽が昇れば歩き、沈めば廃墟の片隅で眠る。

そんな単調な毎日が、先生の感覚を少しずつ麻痺させていた。

死んだ世界の風景にも、孤独にも、そしてあの背中に突き刺さるような視線にも、彼は慣れ始めていた。

 

その日も、彼は瓦礫の山と化した市街地を歩いていた。

崩れかけたビルの間を吹き抜ける風が、割れた窓ガラスを揺らし、不気味な音を立てている。

 

目的地までは、まだ長い。

タブレットに表示される地図を眺め、溜息をついた、その瞬間だった。

 

「――ッ!」

 

視界の隅で、影が動いた。

先日の視線とは違う。

明確な殺意を伴った気配が、背後から猛烈な速度で迫ってくる。

 

先生が振り返るよりも早く、凄まじい衝撃が体を突き飛ばした。

 

「ぐっ…!?」

 

受け身も取れず、彼はコンクリートの壁に叩きつけられる。

肺から空気が押し出され、一瞬、呼吸が止まった。

視界が火花を散らす中、喉元に突きつけられた金属の冷たさが、初めての「死」の感触を彼に教えた。

 

見上げた先に、男がいた。

獣のような鋭い眼光。顔には深い傷跡が走り、その瞳は純粋な憎悪で燃え上がっていた。

手には、鈍く光るクナイが握られている。

その切っ先が、先生の喉笛に寸分の隙間なく突きつけられていた。

 

「見つけたぞ……『先生』…!」

 

絞り出すような、地を這う声。

その声には、10年という歳月をかけて煮詰められた、どす黒い憎しみが凝縮されていた。

 

「お前のせいだ!」

 

獣のような、しかしどこか悲痛な叫びが、廃墟に響き渡る。

先生は抵抗もできず、ただ混乱していた。

痛みや恐怖よりも先に立ったのは、自分が誰かの「敵」であるという、根源的な事実。

リンに与えられた「英雄」という役割とは、あまりにもかけ離れた現実だった。

 

「俺の娘を……イズナを返せッ!!」

 

男の絶叫が、先生の鼓膜を叩く。

 

イズナ。

 

その名前に、記憶のどこも反応しない。

だが、男の瞳の奥で燃え尽きることなく燻り続ける、深い悲しみの炎が、彼の言葉が紛れもない真実であることを示していた。

 

自分は、この男から、かけがえのない何かを奪ったのだ。

覚えてもいない罪の重さに押しつぶされそうになりながら、先生はかろうじて言葉を絞り出した。

 

「……誰…ですか…? イズナ…?」

 

それは、何の偽りもない、純粋な響きを持った問いだった。

 

その言葉を聞いた瞬間、男――シラヌイの殺意に、ほんのわずかな揺らぎが生じた。

目の前の男は、自分が10年間追い続けた憎悪の対象と、同じ顔をしている。

だが、その瞳は違う。

目の前にいるのは、ただの、空っぽの器だ。

 

その事実は、シラヌイの復讐心を、行き場のない虚しさへと変えた。

この男を殺したところで、何の意味もない。イズナは帰ってこない。

10年間の憎悪は、どこにも行き着くことなく、この廃墟の空気に溶けて消えるだけだ。

 

クナイを握る力が、わずかに緩む。

 

だが、とシラヌイは思考を切り替えた。

この男を殺しても意味はない。

しかし、この男は、娘の行方を知る唯一の「鍵」かもしれないのだ。

 

10年前のあの日、イズナは「先生」と共にいた。

そして、作戦の後、イズナは消えた。

生死も、行方も分からないまま。

 

この男が記憶を失っているというのなら、その記憶を取り戻させればいい。

あるいは、この男を餌にすれば、あの日の関係者たちが姿を現すかもしれない。

 

シラヌイの瞳から、純粋な殺意が消え、代わりに獲物を見据える捕食者のような、怜悧な光が宿った。

 

「…とぼけるな。だが、いいだろう。その空っぽの頭、利用価値はありそうだ」

 

シラヌイはクナイを引くと、代わりに先生の胸ぐらを掴んで引き起こした。

 

「お前を利用させてもらうぞ、先生。娘を見つける、その時までな」

 

そう吐き捨てると、彼は先生を突き放す。

不意打ちながら、しかし、これ以外の選択肢はない。

シラヌイは、先生との同行を決意した。

 

「……」

 

先生は、壁に背を預けたまま、激しく咳き込んだ。

喉に残る圧迫感と、首筋を伝う冷や汗が、今起きた出来事が現実であることを告げている。

 

リンに与えられた「希望の象徴」という役割。

今、初めて目の前の男の憎悪によって、根底から揺さぶられていた。

 

自分は、誰かを救った英雄であると同時に、誰かの全てを奪った仇でもある。

その矛盾した現実を、彼は受け止めきれずにいた。

 

「行くぞ。目的地はどこだ」

 

シラヌイが、感情のこもらない声で尋ねる。

先生は、おそるおそるタブレットを取り出し、『アビドス』の文字を指さした。

 

「アビドス…か。あの砂漠のガキどもか。まあいいだろう」

 

シラヌイは、それ以上何も言わず、先に立って歩き始めた。

その背中は、先生の同行を拒否していない。

 

こうして、奇妙な二人旅が始まった。

 

一人は、失われた娘の手がかりを求めて。

もう一人は、与えられた役割と突きつけられた罪の間で揺れ動きながら。

 

先生は、シラヌイの背中を追いながら、自問自答を繰り返す。

 

自分は、一体何者なのか?

なぜ、憎まれなければならないのか?

 

その問いに答えを与えてくれる者は、どこにもいなかった。

ただ、乾いた風が、二人の間を吹き抜けていくだけだった。

旅の始まりに感じていた根拠のない楽観性は、シラヌイの憎悪によって完全に打ち砕かれ、代わりに重苦しい現実が、彼の両肩にのしかかっていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。