ブルーアーカイブ Last on Kivotos 作:ヴィーナス
祭りの喧騒が、遠い潮騒のように退いていく。
夜明け前の、最も深く、そして澄んだ静寂が、百鬼夜行の街を包んでいた。
空にはまだ星が瞬き、その下では復興の槌音が、新しい時代の産声のように、途切れ途切れに響いている。
焦げ付いた匂いと、祭りで焚かれた香の残り香が混じり合った独特の空気が、この街が死と再生の狭間にいることを物語っていた。
先生は、旅立ちの準備を終えた装甲車両のそばで、一人、夜明けを待っていた。
彼らが乗る車両には、「新生キヴォトス連合」からの最初の援助として、食料、水、そして真新しい医療キットが満載されている。
車体も、百鬼夜行の機械整備が得意な生徒たちが、徹夜で完璧にメンテナンスを施してくれた。
その頑丈な装甲に触れながら、先生は、この短い期間に築かれた絆の重みを、改めて感じていた。
「主君! このイズナ、準備万端であります! これからは、どこまでもお供しますぞ! ニンニン!」
背後から聞こえた弾むような声に、先生は微笑んで振り返った。
そこには、過去の呪縛から完全に解放され、忍装束を誇らしげに着こなしたイズナが立っていた。
その瞳は、夜明け前の星々よりも強く、希望に輝いている。
彼女の隣では、父であるシラヌイが、寡黙ながらも穏やかな表情で頷いていた。
正直に言えば、彼は、娘を救出した後のことなど、何も考えていなかった。ただ、二人でどこまでも逃げ続ける、そんな未来しか描けなかった。
だが、先生は、自分の犯した罪や憎悪を、ただ黙って受け止め、そして、娘を救うために、共に戦ってくれた。
自分一人では、決して、娘のあの笑顔を取り戻すことはできなかっただろう。
その恩義、娘の望み、そして、先生が描く新しい未来への期待。
彼ならば、きっとやり遂げる。その確信が、シラヌイを、先生と共に歩む道へと導いていた。
「やれやれ。手間のかかる先生の面倒は、やはり私が見るしかなさそうですねぇ」
真っ新な白衣に身を包んだアザゼルが、相変わらずの皮肉を口にしながら合流した。
だが、その声には、もう、かつてのような虚無の色はない。
彼は、セリナとハナエという後継者を育てることで、自らの魂を、蘇らせたのだ。
これから、どこで、何を言われようと、もう気にしない。
彼のプライドは、化学者として、そして、本来の姿である『医者』としての、確かな根拠を取り戻したのだから。
「その白衣、よく似合っているよ、アザゼル」
先生の言葉に、アザゼルは一瞬虚を突かれた顔をしたが、すぐに鼻を鳴らした。
「当然です。誰が着ていると思っているのですか」
黒服は、少し離れた場所で、黙ってその様子を眺めている。
彼の目的は、相変わらず先生の観察だ。だが、その興味の対象は、少しだけ変化していた。
理事長、カード、そして、サンクトゥムタワー。
かつて、生徒会のネットワークにウイルスを仕掛けた時も、先生の復活や、理事長の動向に関する記録は、一切見つからなかった。
理事長は、クズノハのように、通常の物理法則の外側にいる存在なのかもしれない。
その謎が、彼の知的好奇心を、強く刺激していた。
先生は、集まった仲間たちの顔を見回した。
イズナ、シラヌイ、アザゼル、そして黒服。
誰もが傷を負い、歪みを抱えている。だが、だからこそ信頼できる、かけがえのない仲間たち。
「ありがとう、みんな。行こうか」
先生がそう言って、車両に乗り込もうとした、その時だった。
「――お待ちください、先生」
静かで、しかし凛とした声に呼び止められ、一行は振り返った。
そこには、ナグサをはじめとする百花繚乱の主要メンバーと、桑上カホ、そしてホシノたちアビドス対策委員会が、見送りのために集まっていた。
盛大な見送りはない。百鬼夜行も、アビドスも、今は、復興と、大結界の完全解除という、目の前の仕事で手一杯だ。
それでも、彼らは、この夜明け前のわずかな時間に、駆けつけてくれたのだ。
ナグサが一歩前に進み出ると、百花繚乱のメンバーたちが、一糸乱れぬ動きで、先生に対して敬礼を捧げた。
「指揮官殿。我々の、そして百鬼夜行の未来を、あなたに託します。ご武運を」
その瞳には、もう嫉妬や疑念の色はない。
ただ、共に戦った指揮官への、揺るぎない信頼だけが宿っていた。
「うへぇ~、先生、もう行っちゃうんだぁ」
ホシノが、眠そうな目をこすりながら言う。
「先生、またすぐ会えるよね? アビドスにも、ちゃんと顔、出してよね!」
セリカが、少しだけ寂しそうに、しかし力強く言った。
先生は、彼女たちの前に膝をつき、視線を合わせる。
「ああ、約束だ。新生キヴォトス連合は、始まったばかりなんだから。これからは、いつでも会える」
その言葉に、生徒たちは安堵の笑顔を見せた。
一行は、改めて仲間たちに別れを告げ、静かに装甲車両に乗り込んだ。
運転席にはシラヌイが座り、慣れた手つきでエンジンを始動させる。
重低音の響きが、夜明けの静寂を破った。
先生は、助手席から、もう一度、仲間たちの顔を見回した。
その顔には、もう、かつてのような憂いはない。
「行こう」
先生の静かな合図で、装甲車両はゆっくりと走り出す。
バックミラーに映る、手を振る仲間たちの姿が、少しずつ、小さくなっていく。
やがて、朝日が地平線を黄金色に染め上げ、その光が、瓦礫の街を、そして走り去る車両を、優しく照らし出した。
車内は、しばらく静寂に包まれていた。
やがて、先生が、胸元で微かな光を放つカードに触れながら、静かに口を開いた。
「黒服。君は、『理事長』について、何か心当たりは?」
「ククク…残念ながら。ですが、実に興味深い謎ではありますねぇ。先生、あなた自身の謎と、深く関わっている」
先生は、頷いた。
自分の失われた記憶。
そして、自分をこの世界に蘇らせた、黒幕の存在。
旅は、まだ、始まったばかりだ。
いや、ここからが、本当の始まりなのだ。
自分の意志で、確かなビジョンを持ち、本当の意味での『チーム』となった仲間たちと、共に。
新生キヴォトス連合。
その、まだ誰も見たことのない、新しい物語を紡ぐために。
先生と、その仲間たちの、夜明けへの誓いの旅が、今、静かに、そして力強く、始まった。
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