ブルーアーカイブ Last on Kivotos   作:ヴィーナス

4 / 37
第4話:虚無と探求

シラヌイという、歩く憎悪のような男との二人旅は、想像以上に過酷なものだった。

 

彼は必要最低限のことしか話さず、その視線は常に先生を監視し、そして値踏みしている。

張り詰めた空気の中、ただ黙々と歩き続ける時間は、精神をすり減らしていく。

 

数日後、一行は開けた場所に出た。

そこは、世界の果てを思わせるような、巨大な崖の上だった。

眼下には、干上がった川底のような景色がどこまでも続いている。

 

その崖の縁に、一人の男が立っていた。

白衣を纏い、ただ空虚に景色を眺めている。

その背中からは、生きる意志のようなものが一切感じられなかった。

 

シラヌイが警戒して足を止める。

先生も、その男の異様な雰囲気に息を呑んだ。

 

男が、ゆっくりとこちらを振り返る。

そして、先生の顔を見るなり、凍りついたように動きを止めた。

その瞳が、驚愕に見開かれる。

 

男――アザゼルの脳裏に、忘れることのできない過去の光景が、洪水のように押し寄せていた。

 

(――ああ、そうだ。あの顔だ)

 

脳を焼くような硝煙の匂い。

耳をつんざく銃声と、少女たちの悲鳴。

 

『きゃあああっ!』

『腕が…!血が、止まらない…!』

 

いつもと同じ、銃弾が飛び交う日常のはずだった。

ヘイローが輝き、銃弾を弾き、笑い声さえ聞こえるはずの戦場。

だが、目の前の光景は違った。

 

アスファルトに飛び散る、鮮やかな赤。

神秘の加護を失い、ただの鉛玉に体を貫かれ、苦悶に顔を歪める生徒たち。

 

そうだ。あれは私が望んだ光景。

私がカイザーと手を組み、完成させた「神秘無効化薬」がもたらした、静かで、平和な世界の始まり。

 

地獄?

いや、これが正しい世界なのだ。

神秘などという不条理な力がなければ、誰もが平等に傷つき、死ぬ。

争いなど、すぐに馬鹿らしくなるはずだ。

 

そう、信じていた。

 

(――違う)

 

思考が、さらに過去へと遡る。

もっと前の、まだ神秘の力が当たり前に猛威を振るっていた日常。

けたたましい銃声の中、自分に向かって駆け寄ってくる、小さな影。

 

『お兄ちゃん!』

 

その声が聞こえた次の瞬間、流れ弾が、彼女の小さな体を、まるで紙切れのように貫いた。

ヘイローが砕け散る、ガラスのような音。

腕の中で、急速に冷たくなっていく妹の感触。

 

神秘さえなければ。

こんな理不尽な力さえなければ、彼女は死ななかった。

そうだ。私の憎悪は、ここから始まったのだ。

 

(――そして、お前が、それを)

 

場面が切り替わる。薄暗い研究室。

全ての計画が、完成するはずだった。

だが、そこに現れたのは、ただの「大人」だった。

カードの力も、特別な権能も持たない、教育実習生だと名乗る、ただの男。

 

その男は、ただ真っ直ぐな目で、私を見て言った。

 

『君のやり方は、間違っている』

 

その瞳に、私の歪んだ正義は、いとも容易く打ち砕かれた。

 

(――終わったはずだったのに)

 

最後に見たのは、崩れ落ちる監獄の壁。

「色彩」とかいうものが世界を飲み込み、全てが崩壊したあの日。

私は自由を手に入れた。

だが、そこに広がっていたのは、私の理想とは似ても似つかぬ、ただ静かに朽ちていくだけの、死んだ世界だった。

 

長いフラッシュバックから、アザゼルの意識が現在に戻る。

目の前には、あの時と同じ顔をした、しかし何も知らない、空っぽの「先生」。

 

アザゼルは、このあまりに皮肉な運命の巡り合わせに、全てを嘲笑うかのように乾いた笑みを漏らした。

 

「ククク…これは、傑作だ」

 

その声は、ひどく乾いていて、何の感情も乗っていない。

 

「私を止めた張本人が、私の理想とした世界を完成させるとは。どうです、先生。争いのない、静かで平和な世界でしょう?」

 

アザゼルは両腕を広げ、眼下に広がる死の世界を指し示す。

その言葉は、先生の胸に深く突き刺さった。

この男もまた、自分に何かを問いかけている。

だが、シラヌイの憎悪とは質の違う、もっと冷たく、虚無的な何かを。

 

「……君は、誰だ?」

 

「私はアザゼル。かつて、キヴォトスから神秘を根絶しようとした、ただの科学者ですよ」

 

アザゼルは、もはや何にも期待していなかった。

ただ、この空っぽの男が、かつての自分と同じ過ちを犯すのか、あるいは違う道を選ぶのか。

それをこの目で見届けるまでは死ねない。

その皮肉な執着だけが、彼をこの死んだ世界に繋ぎとめていた。

 

彼は、隣に立つシラヌイを一瞥すると、探るような視線を向けた。

 

「そちらの方は、見かけない顔だ。キヴォトスの人間ではないようですが…あなたも、この『先生』に何か用が?」

 

「……貴様には関係ない」

 

シラヌイは忌々しげに吐き捨てる。

外部の人間であることを見抜かれたことに、わずかな警戒を滲ませながら。

 

こうして、憎悪を抱く者と、虚無に生きる者、そして記憶を失った者という、歪な三人組の旅が始まった。

 

 

その夜、一行は砂嵐を避けるため、半壊したビルの陰で火を囲んでいた。

シラヌイは壁に背を預けて腕を組み、アザゼルは楽しげに燃え盛る炎を眺めている。

先生は、そのどちらとも距離を取り、ただ沈黙していた。

 

憎悪と虚無。

二つの強烈な感情に挟まれ、彼の存在はますます希薄になっていくようだった。

 

パチパチと薪がはぜる音だけが響く、静かな夜。

その静寂を破ったのは、誰の声でもなかった。

 

ふっと、焚火の向こう側の闇に、何かが音もなく浮かび上がったのだ。

 

それは、胴体も手足もなく、ただ頭部と、そこから伸びる首だけが宙に浮かんでいるという、あまりに異様な存在だった。

 

「これは面白い」

 

その声は、まるで上質な楽器のように、滑らかで、しかし底知れない響きを持っていた。

 

シラヌイがクナイを構え、アザゼルが眉をひそめる。

先生は、そのあまりに非現実的な光景に、言葉を失った。

 

「死んだはずの人間が歩き、罪を犯した人間が贖罪を求め、そして全てに絶望した人間が希望を探している。実に、実に興味深いですねぇ」

 

頭部だけの男――ゲマトリアの黒服は、楽しげに三人の顔を順番に見渡す。

その視線は、まるで舞台上の役者を鑑賞しているかのようだった。

 

「貴様…ゲマトリノか!」

 

「おや、これは手厳しい。私はただの、知の探求者ですよ」

 

黒服は、シラヌイの殺気など意にも介さず、その視線を先生に固定した。

 

「『先生』。あなたという存在は、実に興味深い。死と生の理を超え、記憶という個の根幹を失いながらも、こうして『役割』を演じようとしている。あなたは、この世界の神秘のルールから完全に外れた、唯一無二の特異点だ」

 

黒服は、うっとりとした様子で語る。

 

「あなたを観測し続ければ、あるいは、我々ゲマトリアが追い求める『神秘の根源』に到達できるかもしれない。そう思いましてね。しばらく、ご一緒させていただきますよ」

 

それは、宣言だった。

同行の許可を求めるのではなく、決定事項としての一方的な通告。

 

シラヌイもアザゼルも、この不気味な男の乱入に顔をしかめたが、追い払う術を持たないことを理解していた。

この男は、自分たちとは違う次元の存在だ。

 

こうして、最後の仲間(?)が加わった。

 

娘を想う「憎悪」。

世界を呪う「虚無」。

全てを観察する「探求心」。

 

そして、その中心にいる、記憶のない「空っぽの器」。

 

あまりにも歪で、危険な歯車たちが、今、確かに噛み合った。

 

先生は、自分を取り巻く三人の大人たちを見渡す。

なぜ憎まれ、なぜ嘲笑われ、なぜ観察されるのか。

 

痛みを伴う問いが、彼の心を容赦なく抉っていく。

この旅の先に、本当に答えはあるのだろうか。

それとも、さらなる絶望が待っているだけなのか。

 

焚火の炎が揺らめき、四人の奇妙な影を、廃墟の壁に長く、長く映し出していた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。