ブルーアーカイブ Last on Kivotos 作:ヴィーナス
先生の「記憶喪失」という告白は、アビドス対策委員会に重い混乱をもたらした。
彼が通された司令部の外、地下に広がる広大なシェルター都市では、その到着のニュースが瞬く間に巨大な波紋となって広がっていた。
「聞いたか! あの伝説の先生が、お戻りになられたそうだ!」
「古文書の通りだ! 世界を救った英雄が、我々を導くために…!」
「待て、早まるな。我々の伝承では、救世主は故郷で歓迎されぬ嵐として描かれる。手放しで喜ぶのは早い」
「馬鹿馬鹿しい。誰かが禁忌のクローン技術を使ったに過ぎん。危険な賭けだぞ」
「…違う。わしには分かる。あの御方の魂の匂いは、10年前に見たお方と寸分違わぬ。これは…奇跡じゃ」
日々の食料やカイザーの攻撃への不満しか語られなかった酒場で、故郷を失った動物族の住民たちは、初めて「未来」について語り始めていた。
希望、懐疑、科学的考察、そして霊的な畏怖。
様々な声が渦巻き、10年間淀みきっていた空気をかき乱していく。
その喧騒は、司令部のメンバーたちの耳にも届き、彼らの心をさらに複雑にさせていた。
「…どうして、アヤネ先輩が死んだ時には来てくれなかったの」
シロコは、民の声を聞きながら、ぽつりと呟いた。
彼女の力は、民からの「守護神」としての信仰に支えられている。
その民が揺れている今、彼女の心もまた、恩師への想いと目の前の男への不信感の間で激しく揺れていた。
「……」
ホシノは、何も言わずに目を伏せている。
死んだはずの先生の姿、そして忌まわしい黒服の顔を見た時から、彼女の虚ろな心に何かがざわつき始めていた。
それは、忘れたはずの過去の痛みか、あるいは未来への漠然とした不安か。
彼女自身にも、まだ分からなかった。
そして、その状況を最も冷静に、そして最も厳しく受け止めていたのは、セリカだった。
「シロコちゃんやホシノ先輩がどう思おうと、私は認めない」
彼女は、司令部の壁に貼られた物資の在庫リストと、防衛ラインの地図を睨みつけながら言った。
「伝説? 英雄? そんなもの、今の私たちのお腹を満たしてくれるわけじゃない。カイザーの攻撃を防いでくれるわけでもない。私たちが向き合わなきゃいけないのは、そういう甘っちょろい幻想じゃなくて、目の前の現実なんだから」
神性のない一般人である彼女は、アヤネ亡き後、その重責を引き継ぎ、この地下都市の運営と防衛計画の立案を一身に背負ってきた。
天才ではない彼女にとって、この10年間の努力は常にギリギリの戦いだった。
彼女は、自分にしかできない現実的な仕事に没頭することで、どうしようもない無力感と戦っていた。
先生は、そんな彼女たちの葛藤と、住民たちの喧騒を肌で感じていた。
偽物という評価。記憶のない自分。信用できない仲間たち。
このままでは、何も変わらない。
諦めて立ち去るか、それとも――。
(ダメだ。このままじゃ、何も始まらない)
先生は、司令部の壁に貼られた地図と、生徒たちの顔を交互に見つめていた。
セリカの言葉が、彼の思考の引き金となった。
『現実を見ろ』。その通りだ。
俺は、俺にできることをやる。
記憶はない。だが、思考はできる。
この目の前にある情報から、活路を見出すことなら。
(このアビドスという場所…あまりにも脆すぎる。四方を敵に囲まれ、補給もままならない砂漠の孤島。それなのに、10年も持ちこたえている。なぜだ? カイザーが本気を出していないのか? いや、違う。奴らは執拗だ。だとしたら、カイザー側にも何か、決定的な一手を打てない理由があるはずだ)
先生の思考が、高速で回転を始める。
(兵站だ。どんな戦争でも、戦いの要は兵站。この地下都市に数万の住民がいるのなら、膨大な水と食料が必要になる。自給自足には限界がある。つまり、外部からの補給ルートが、必ず存在する。そして、カイザーはそのルートを、まだ完全には掌握できていない)
彼は、意を決して口を開いた。
「――カイザーの狙いは、ここだ」
先生は、司令部の中心にある作戦地図を指さす。
そこは、アビドス自治区の端に位置する、いくつかの工業地帯だった。
「え…?」
セリカが、怪訝な顔で先生を見る。
「何を言ってる。そこはただの古い工場地帯だ。カイザーの主力はもっと中央に…」
「違う。戦いの基本は兵站だ。このアビドスは、外部からの補給なしに10年も持ちこたえられる規模じゃない。どこかに、カイザーも気づいていない、あるいは手を出せないでいる補給ルートがあるはずだ」
先生は、地図上の一点を指でなぞる。
それは、工業地帯を抜け、砂漠の外へと繋がる、か細い一本の道だった。
「ここだ。地形的に、大規模な部隊の移動には向かないが、少数の物資を運び込むには最適なルート。カイザーが本気でアビドスを潰す気なら、まずここを叩いて兵糧攻めにするのが定石だ。だが、それをしない。なぜだと思う?」
先生の言葉に、対策委員会のメンバー全員が息を呑んだ。
彼の指摘は、彼女たちが無意識に目を逸らしてきた、戦況の最も痛い部分を的確に突いていた。
「だとしたら、何だって言うんだ! そこが重要拠点だってことは、私たちだって分かってる!」
セリカが声を荒げる。
「でも、そこは…! 6年前に、アヤネ先輩が死んだ場所なんだぞ…!」
その言葉に、部屋の空気が凍りついた。
アヤネを失ったトラウマ。
それが、アビドスがその場所への積極的な攻撃を躊躇する、最大の理由だった。
「それに、この広大な砂漠のどこに、カイザーの補給部隊がいるかなんて、分かりっこない…!」
ホシノが、絞り出すように言った。彼女の顔は、血の気が引いている。
誰もが目を逸らしてきた、戦況の穴。
先生は、それを的確に、そして容赦なく抉り出した。
生徒たちが動揺し、反発する中、今まで黙って成り行きを観察していた黒服が、音もなく先生の隣に浮かび上がった。
「ふむ。それでしたら、ここに面白いリストがありますよ」
黒服は、どこからともなく一枚のデータチップを取り出す。
「これは、10年前に私がカイザーと共同で計画した、この地区の施設リストです。補給路として最適なルートや、隠された拠点の情報も含まれていますが…いかんせん、10年前の古い情報だ。信憑性は、保証いたしかねます」
黒服は、楽しげに笑う。
「賭けてみますか? この、最も信用できない男が提供する、不確実な情報に」
「ふざけるな!」
セリカが激昂する。
「敵の情報を信じろって言うのか! あんたのせいで、アヤネ先輩は…!」
アビドス勢から、猛烈な反発が巻き起こる。
先生は、その反発を一身に受け止めながら、決断を迫られていた。
生徒たちの過去の痛みに配慮し、このまま停滞を選ぶか。
それとも、偽物と罵られ、悪魔の囁きに耳を貸してでも、現状を打破する一歩を踏み出すか。
先生は、黒服からデータチップを受け取った。
そして、対策委員会の全員を見据えて、静かに、しかし力強く宣言した。
「この情報に、賭ける」