ブルーアーカイブ Last on Kivotos 作:ヴィーナス
先生たちが工業地帯で死闘を繰り広げている頃、アビドス要塞に残された少女たちもまた、それぞれの戦場に立っていた。
「――第3防衛ライン、資材消費率、予測を15%超過! このままじゃ、備蓄がもたない…!」
司令部では、黒見セリカが一人、ランプの明かりを頼りに、ひっきりなしに更新される戦況データと、残り少ない備蓄物資のリストを睨みつけていた。
先生の無謀な作戦が失敗した時に備え、彼女は地下都市の防衛体制の見直し、避難経路の再確認、そして備蓄物資の再計算に忙殺されていた。
最前線で戦う仲間たちのように、神性という特別な力を持たない彼女にとって、この地味で、誰にも褒められることのない後方支援こそが、自分にしかできない戦いだった。
ペンを走らせる指が、疲労で震える。
頭が、割れるように痛い。
その時、司令部の扉が乱暴に開かれた。
そこに立っていたのは、地下都市に住む動物族の住民数名だった。
その顔には、不満と非難の色が浮かんでいる。
「セリカさん! どういうことですか! あの伝説の先生に対して、あのような無礼な態度を取ったというのは本当ですかな!?」
「我々の希望であるあの方を、偽物呼ばわりしたと聞いたぞ!」
矢継ぎ早に飛んでくる詰問に、セリカは顔をしかめた。
噂が広まるのは、あまりにも早い。
「…事実だ。それが何か?」
「何かって…! シロコ様やホシノ様がご判断なさることならともかく、あなたが! 我々動物族にとっての古代からの厄災『色彩』を、その身の全てを犠牲にして退治なさった、あの伝説の先生に何を言うか!」
その言葉が、セリカの胸に深く、鋭く突き刺さった。
『あなたが』。
その一言に、全ての意味が込められている。
神性を持たない、ただの人間であるお前が、と。
分かっている。
自分は、シロコちゃんやホシノ先輩のようにはなれない。
民から崇拝される「神」ではなく、ただ泥臭い現実を担う「凡人」だ。
だが、その凡人が、この10年間、どれだけ必死にこの街を支えてきたと思っているのか。
「…伝説や英雄が、あんたたちの腹を満たしてくれるのか? カイザーの攻撃を防いでくれるのか? 私は、私にできることをやっているだけだ。文句があるなら…」
「まあまあ、その辺で」
セリカが感情的に言い返そうとした瞬間、不意に現れたホシノが、住民たちとの間に割って入った。
「うへぇ~、みんな、落ち着いてよ。セリカちゃんだって、色々考えてやってることなんだからさ。ね?」
気だるげながらも有無を言わせぬホシノの仲裁に、住民たちは不満げな顔をしながらも、渋々引き下がっていった。
一人残された司令部で、セリカは唇を強く噛み締め、俯いた。
悔しさで、視界が滲む。
「…別に、感謝されたいわけじゃない。でも…」
それでも、あんまりじゃないか。
彼女は、涙を振り払うように頭を振り、再びペンを握り直した。
アヤネ亡き後のインフラを維持し、時には助産の手伝いまでして、この街の命を繋ぎ止めてきたのは、自分なのだという、ささやかな誇りを胸に。
この街を守り抜く。それが、自分にしかできない戦いだからだ。
◇
物見台の冷たい風が、砂狼シロコの髪を揺らす。
遠くの地平線で、戦闘の光が星のように明滅していた。
(ん…先生は、戦ってる)
地下から聞こえてくる、ざわめき。
『英雄だ』『救世主だ』と、顔も知らない誰かが、あの人を神様みたいに崇めている声。
『偽物だ』『危険だ』と、別の誰かが、不安を囁く声。
その全てが、自分の心の中にある迷いを映し出す鏡のようで、息が詰まりそうだった。
(あの人は、先生じゃない)
知っている。私の知っている先生は、10年前に死んだ。この目で見た。
(でも、あの人は、先生だ)
シロコ*テラーが言った。「本物だ」と。あの彼女が言うのなら、きっとそうなのだろう。
(じゃあ、どうして)
どうして、アヤネ先輩が死んだ時には、来てくれなかったの。
どうして、あんな危険な人たちを連れているの。
信じたい。でも、信じられない。
セリカみたいに、感情をぶつけることもできない。
ホシノ先輩みたいに、全部忘れたふりもできない。
もう一人の私みたいに、真実を見抜く力もない。
私は、ただここで、遠くの光を見つめているだけ。
なんて、無力なんだろう。
「シロコ様。あなたの瞳には、嵐が吹き荒れておりますな」
静かな声に振り返ると、そこに立っていたのは、地下都市の動物族の長老だった。
彼の穏やかな瞳に見つめられ、シロコは思わず、心の内の言葉を漏らしていた。
「…わからない。あの人は、私たちの知っている先生じゃない。でも、みんなは英雄だと言う…」
長老は、静かに頷いた。
「我々、砂の民に伝わる古い神話があります。世界を救う『風』は、必ずしも心地よい追い風として吹くとは限らない。時には、全てを薙ぎ払う砂嵐として現れ、最も忌み嫌われた岩すらも動かして、淀んだ空気を一掃すると言います」
そして、彼はシロコの目を真っ直ぐ見て言った。
「シロコ様。見るべきは、風がどこから来たか(過去)ではありません。その風が、今、どこへ向かって吹こうとしているか(未来)。そして、誰の砂を運び、誰の種を芽吹かせようとしているか(目的)です。どうか、ご自身の曇りなき眼で、それを見極めてください」
(…自分の、目で)
そうだ。私は、いつから他人の言葉や、過去の記憶にばかり囚われていたんだろう。
信じるか、信じないかじゃない。
私が、どうしたいかだ。
私は、知りたい。
あの人が、本当に私たちの敵なのか、味方なのか。
この目で、見極めなければ。
決意が、迷いを吹き飛ばす。
シロコは、物見台を駆け下りた。
もう、ただ待っているだけの自分はいない。
先生たちの背後を脅かす敵がいないか、周辺を警戒する。
そして、あの人がどんな判断を下し、どんな戦い方をするのか、この目で「観測」する。
それが、今の私にできる、たった一つの戦い方だから。
◇
一方、シロコ*テラーは、アビドスの古い書庫の奥深くで、一人思考を巡らせていた。
彼女の周りには、埃を被った古文書や地図が散乱している。
(先生は、本物。魂の波長は、寸分違わない。でも、記憶がない。この不自然さ…誰かが意図的に消したのか、それとも、復活の代償として失われたのか…)
どちらにせよ、この状況は異常だ。
そして、最も怪しむべきは、あの同行者たち。
イズナの父と名乗る、シラヌイという男。
(あの男の動き…ただの父親じゃない。重心の移動、周囲への警戒、そして何より、ほとんど音を立てない足運び。相当な訓練と実践を積んだプロの動きだ。でも、彼が先生を復活させたとは思えない。あの男からは、そんな神秘や超常的な技術の匂いはしない)
次に、アザゼル。
(キヴォトス史上、最も悪名高い犯罪者の一人。科学者としては超一流。クローンを作るくらいはできるかもしれない。でも、それはきっと不完全な器のはず。完全に消滅した魂を、寸分の狂いもなく再構築するなんて芸当、彼にできるとは思えない)
そして、最も怪しいのは、やはりゲマトリアの黒服。
(あの男なら…あるいは。彼一人では不可能でも、ゲマトリアという組織の力を使えば、想像もつかない手段で先生を復活させ、何かを企むくらいは、しかねない)
だが、腑に落ちない点があった。
(でも、今のあの男からは、かつて対峙した時のような、悪のカリスマとしての気配が感じられない。まるで魂が抜けた抜け殻のようだ。ただ、先生を面白そうに観察して、時々場を掻き回しているだけに見える。何よりも…)
シロコ*テラーは、目を閉じる。
彼女の鋭敏な感覚が、先生の魂から放たれる「匂い」を、もう一度確かめる。
(先生の魂からは、ゲマトリア特有の、あの汚くて淀んだ匂いがしない。純粋すぎるほどに、クリーンだ)
だとしたら、誰が?
ゲマトリアでないとすれば、これほどの奇跡を起こせる存在は、キヴォトスに一つしか考えられない。
(…連邦生徒会。いや、その中枢にいる、何か)
黒幕の存在を確信した彼女は、調査の対象を、サンクトゥムタワーに関する古い文献の洗い出しへと移行する。
この書庫にある情報だけでは足りない。
だが、必ずどこかに、真実へと繋がる糸口があるはずだ。
彼女は、再び古文書の山へと向き直った。
◇
【キヴォトス外部・ネフティス・コーポレーションCEOオフィス】
一方、キヴォトスから遠く離れた世界で、十六夜ノノミは巨大なモニターに映し出されたアビドスからの定時連絡に目を通していた。
10年前、世界の崩壊と共に、彼女は両親によって強制的にキヴォトスの外へと連れ出された。
歳を重ね、今は洗練された大人の女性としての風格を漂わせている。
最初は、実家であるセイント・ネフティスの力と、いくつかの政府機関からの援助を取り付け、細々とアビドスへの支援を続けていた。
だが、それだけでは足りない。彼女はすぐに行動を開始した。
同じようにキヴォトスから帰還した生徒たちの中から、特に優秀な人材をスカウトして会社を設立。
キヴォトスの先進的な技術を応用した製品は、こちらの世界では革新的すぎた。
会社は瞬く間に成長し、莫大な富を築き上げた。
彼女は、スカウトした生徒たちに対し、まず最大規模の生存者コミュニティであるアビドスを共同で支援することを約束し、同時に、彼らの出身校への支援も確約することで、他企業からの引き抜きを防ぎ、強固な協力体制を築き上げていた。
そんな彼女の元に、数日前、セリカから緊急の連絡が入っていた。
『先生が現れた』と。
(先生が…)
ノノミは、その報告を聞いた時、驚きよりも先に、嵐の予感を感じていた。
真偽など、さほど重要ではない。
この世界には、不思議なことなど溢れている。
もし本当に危険な偽物なら、あのシロコ*テラーがとっくに始末しているはずだ。
重要なのは、あの「先生」が、再びキヴォトスに現れたという事実。
彼女は、オフィスの窓から見える、きらびやかな夜景に目を向けた。
安全で、豊かで、何不自由ないこの世界。
だが、彼女の心は、今もあの砂漠の学校にあった。
みんなと一緒に戦えなかった。
アヤネちゃんが死んだ時、そばにいてあげられなかった。
その苦悩と罪悪感が、今も彼女を駆り立てる原動力だった。
もう、誰も死なせたくない。
アヤネちゃんのような悲劇は、二度と繰り返させない。
そのために、自分はこの場所にいるのだ。
(前の先生の行動パターンから考えれば、きっと、アビドスだけじゃなく、他の学校にも関わっていくはず…)
ならば、先を読んで、動かなければ。
ノノミは、すぐさま新たな計画の立案に取り掛かった。
彼女は、以前からコンタクトを取っていた、キヴォトス出身の裕福な実家を持つ者や、投資などの運用スキルに長けた者たちへと、一斉に通信を送る。
『緊急の連絡です。皆さん、少しお時間をいただけますか? キヴォトスの未来に関する、とても重要なお話があります』
彼女の戦場は、銃弾の飛び交う廃墟ではない。
情報と資本が渦巻く、この世界の経済の中心地。
アビドスの仲間たちを、そしてキヴォトスの未来を守るため、彼女は自分にしかできない戦いを、今、始めようとしていた。
◇
そして、小鳥遊ホシノは、ただ機械的に前線の警備をこなしていた。
先生の来訪による心のざわつきと、アヤネを失った作戦の再来を予感させる状況。
その全てから逃れるように、彼女は思考を停止させていた。
次々と現れるカイザーのドローンを、感情を無にして撃ち落としていく。
しかし、その集中力は散漫で、隠しようのない疲労の色が、彼女の顔にはっきりと浮かんでいた。
「うへぇ~…キリがないなぁ…」
彼女の心は、もう限界に近づいていた。
そのことに、まだ誰も気づいてはいなかった。
ホシノ自身でさえも。
遠くの空が、一際強く輝いた。
先生たちが、工場を破壊した光だった。
その光は、アビドスに束の間の希望をもたらすのか、それとも、新たな絶望の始まりを告げる合図なのか。
彼女たちの戦いは、まだ終わらない。