TS八尺様   作:御花木 麗

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闇に溶ける

 

 

「という事だ……」

 

圭太がノートパソコンをこちらに向けたまま話を締めくくった。

 

 

「どういう事だってばよ」

 

 

部屋の隅々まで冷房の風が行き渡った部屋で、カーテンの隙間から差し込む西日が、床に淡い金色の線を描いている。窓の外では、蝉がけたたましく鳴いており、窓越しでも聞こえる。

 

そんな友達の部屋で俺はゲーミングチェアにだらんと座って、ガリガリくんを口にくわえながら、圭太の話を聞いていた。

ほとんど聞き流していたが。

 

 

「バカッ。今話しただろうが。俺が懇切丁寧に話してやったってのによ」

 

俺の幼馴染みである圭太のオデコに青筋が浮かぶ。

圭太は眼鏡をクイっと上げて口を開いた。

 

 

「……いいか!とにかくお前はあの山に行くべきじゃない!」

 

「じゃあ、あれか?お前は俺にこれを信じろとでも?」

 

 俺は呆れつつ、ノートパソコンを指差しながら言う。

 

 画面には《最近あった不可思議な出来事を報告し合うスレ part38》という文字が。

 

その画面には変な話の書き込みが並んでいた。封印、石碑、笑顔の生首、など物騒な言葉の羅列。どれもこれも、いかにもネット怪談って感じで、作り話としてはよく出来てる。

 

舞台になっているのは、一応は地方都市に分類されるものの、実際にはかなり田舎寄りのこの地域にある、昔から馴染みの山だ。特に珍しいわけでもない、あの山から心霊だとか曰くつきといった話も聞いたことが今までなかったし、そんなありふれた山がネットで取り上げられていること自体に変なむず痒さを覚えた。

 

 

 「見ろよ、これ。封印がどうとか、この前実際にあった地震で石碑が崩れたかもしれないとか……。行く場所、そこだろ?たまたま見つけたスレでうちの近くの山の話してると思ったらこれだよ……」

 

こんな馬鹿げた話を真剣な顔つきで語る友人を冷ややかな目線でみる。

 

 「却下」

 

 「は?」

 

 圭太が信じられないという顔つきで俺を見るがそんな顔をしたいのは俺だ。

 

「俺はあんまそんな話を信じるたちじゃないって、昔から付き合いのあるお前だったら分かるだろ?それにこんな話、地元の俺らでさえ知らなかったじゃねぇか」

 

「それはそうだが……。実際にあそこの山には石碑があるじゃないか」

 

「確かに石碑はあるし、俺も小さい頃から、なんであんな場所にあんなものがポツンとあるのか不思議には思っていた。でも、だからといって今回の話が理由になるのは納得がいかない。たぶん、俺たちと同じように石碑を見て不思議に思った誰かが、インスピレーションを受けてこんな怪談をでっち上げたんだろう」

 

真実なんて蓋を開けてみれば呆気ないことが多い。

 

「昔、近所で廃墟になった旅館に「女の霊が出る」って噂もあったけど、実際は野良猫が住みついてただけだったろ」

 

「確かにあれはそうだったが……噂も馬鹿に出来たもんじゃない。言霊っていうだろ?言葉には力があるんだ。噂からそういったモノが生まれることだってある」

 

さっきの掲示板に書かれていたことと、似たような事を圭太は言う。圭太は一呼吸置いて、「――今回のは噂がどうのと言うより、1人の死人の思念が化け物を生み出したケースだと思うけど」とボソボソ呟いた。

 

こいつは基本的にいい奴だし、接しやすいが、オカルトの話になるとどうもついていけない。

昔からオカルトが超が付くほど好きでオカルト以外では普通なのにここだけが残念な親友だと思ってしまう。

 

 

「だいたいあそこ、小学生の時俺らの遠足の場所だった事もあるだろ。覚えてるか?」

 

「あぁ……うっすらだが。……何が言いたいんだ?」

 

「そんな場所が実は超危険な心霊スポットでしたってか?信じられねぇよ。却下だ」

 

「そんなに弟くんとあの山に虫取りに行きたいのか……?」

 

「当たり前だろ?可愛い可愛い弟が俺に、虫取りをしたいから手伝ってと頼みに来たんだ。そんなの断れるわけないじゃないか」

 

そうだ。この話は俺が明日、小学一年生の弟とあの山に虫取りに行くと言う話から広がったものだった。

 

 

 「あいつ、この夏休みの間で、友達と“どっちがかっこいいカブトムシを捕まえられるか”って勝負してんだってさ。どうしても弟に勝たせたい俺にとってあそこよりいい場所を知らない」

 

 「それだったら、今、危ないかもしれない山に連れて行くより、昆虫ショップとかでとびっきりいいやつを買ってあげればいいだろ」

 

「分かってねぇな。そんな事したら弟との楽しい思い出が作れないだろうが。それによあいつ、普段は俺に頼み事なんて一切しねぇんだぜ? 俺に気を遣ってか“兄ちゃん、これやって”とか、“一緒に遊ぼう”とか、そういうの、全然ない。俺が“どっか行くか?”って聞いても、“ううん、大丈夫”って、にこって笑って終わり。マジで、手のかからない、いい子なんだよ」

 

そう言いながらも、口元が緩むのを自分でも止められなかった。いや、止める気なんて最初からなかった。

圭太はまた始まったみたいな顔をしてやがる。

 

 

「……それが?」

 

 「それがさ、今朝だよ? 寝癖つけたまま、パジャマのまんまで、目こすりながら俺の部屋に来てさ。“兄ちゃん、明日一緒に虫取り行ってくれる?”って……。目はうるうるしてるし、しかも、ちょっとだけ袖つかんでくるんだよ? あんなの、反則だろ。完全にノックアウトだわ」

 

 圭太は、ため息をついた。それは深く、長い。

 

 「……お前、前々から思ってたが流石にブラコンがすぎるぞ。兄バカとかそういう領域超えたんじゃないか」

 

「それは、俺にとって何よりも褒め言葉だぞ」

 

「お前は弟が絡まないと普通で、基本的にいい奴なのに弟が絡むと急激にIQが下がって困る」

 

「奇遇だな。俺もさっきお前に対してオカルトが絡まなければなって同じような事思ったぞ」

 

「……ったくよ。忠告はしたからな?」

 

「0.1%くらいは心に留めとくよ」

 

「それは留めたとは言わない」

 

「……ま、明日の夕方、弟と仕掛け置きに行って、明後日の朝早くにカブトムシを取りに行く予定だ。夜じゃないんだから、もし実在したとしても問題はないがな」

 

「化け物の霊力が強ければ、朝も昼も夜も関係なく現れるんだが」

 

 圭太は首をすくめた。

 

「あ」

 

俺がすっとんきょうな声を出す。

 

「なんだよ」

 

 圭太が怪訝そうな顔で問いかける。

 

「ガリガリくん一本当たった」

 

俺は食べ終わったガリガリくんの当たり棒を眺めながらそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日の夕方、俺は弟の凪葵(なぎ)と一緒に家を出た。

 

 空はまだ明るいけど、陽射しはだいぶ和らいでいて、風がほんの少しだけ涼しく感じる。

 蝉の声は相変わらずうるさいくらいに鳴いていて、アスファルトの上に俺たちの影が長く伸びていた。

 

 俺の手には、昨日から仕込んでおいたバナナトラップを入れたジップロックがいくつもぶら下がっている。

 潰したバナナに砂糖と焼酎と味噌を混ぜて、ジップロックで一日発酵させたやつだ。これを仕掛ける事で明日の朝にはカブトムシが居るだろう。

 昨日、二人で台所に並んで作ったのだ。

 有意義な時間だった。

 

 

 

「兄ちゃん、こっちのバナナトラップ、ぼくが持つ」

 

「おう、ありがとな。落とすないように気をつけてな」

 

「……うん」

 

 凪葵は小さな手でジップロックをぎゅっと握りしめて、俺の隣をぴょこぴょこと歩いていく。

 肩まで伸びた髪が、夕暮れの風にふわりと揺れている。

 透き通るような白い肌に、長いまつげ。

 その顔立ちは、中性的で綺麗に整っている。

そのためか、声変わりも来ていない凪葵は少女とよく見間違われる。

 

「なあ、凪葵」

 

「ん」

 

大きな瞳が俺を捉えた。

俺はさっきから気になっていた事を聞いてみる。

 

「その首に付けた鈴のネックレスどうしたんだ?」

 

「あーこれ?これね。駄菓子屋のくじの景品でもらったんだ」

 

 凪葵はそう言って、首元の小さな鈴を指先でつまんだ。

 銀色の球体に、細い赤い紐が通されている。

 動くたびに、しゃん、と小さく音が鳴った。

 

 「へえ……」

 

 「うん。昨日、友達と駄菓子屋行ったんだけど、その時に」

 

 凪葵は、何でもないことのように言う。

 けれど、俺には少し引っかかっている部分があった。

 

鈴という単語から連想ゲームのように辿っていって、昨日、圭太が見せてきた掲示板のスレッドが、ふと頭をよぎったからだ。

 

 しゃらしゃらさん。

 鈴の音。

 美しい少女。

 封印の石碑。

 

――俺も圭太に毒されすぎてんな。

 

俺はその考えを振り払うかのように、かぶりを振って凪葵に尋ねる。

 

 

 「……それ、気に入ってるのか?」

 

 「うん。音がきれいで、なんか落ち着く感じがする」

 

 凪葵は、しゃん、と鈴を鳴らしてみせた。

 確かに、音は澄んでいた。

 心地よい金属の響きが、耳の奥に残る。

 

 

 「兄ちゃん?どうしたのそんな事聞いて」

 

 「……あ、いや。大した事はないさ」

 

 俺は無理矢理に作った笑みで誤魔化した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目的の山についた。

 

それから俺たちはバナナトラップを仕掛ける作業に取り掛かったが、思ったよりも順調だった。

 凪葵と俺は黙々と、けれど丁寧に、木の幹にバナナトラップを結びつけていく。

一所懸命汗を垂らしながら、作業する弟をみて心が穏やかになる。俺の心が浄化されていく…………。

 そんな矢先、俺は、ふと気づく。

 

蝉の声が、いつの間にか止んでいた。

 

 さっきまでの道中や住宅街の木の少ない場所でさえ、耳を塞ぎたくなるほど鳴いていたのに。

 今は、木々に囲まれた森の中。

 蝉にとっては、まさに“本拠地”みたいな場所のはずだ。

 それなのに、一匹の蝉の声すら聞こえない。

 

 おかしい。

 静かすぎる。

 

 さっきの道中までは聞こえていたのに、山の中で消えるはずが……ないんだ。

 

 

「兄ちゃん……あれ……」

 

 嫌な予感を覚えている俺を神が嘲るように展開が芳しくない方向へと導かれる。

――凪葵が指さした先に、それはあった。

 

 ――――石碑。

 

 いや、正確には、倒れて、砕けた石碑の残骸だった。

 

 地面に横倒しになったバラバラの石。

 まるで中から何かが這い出たように、土が盛り上がっている。

 

 「……地震、で……?」

 

 俺の声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 凪葵は、何も言わずに俺の袖をぎゅっと掴んだ。

 

 

俺の頭の中に先ほどからあの掲示板の内容が思い返されていた。

ぐるぐると頭の中を駆け巡る。

石碑が掲示板で言われてたように壊れたとしても、これは地震なはずだ。掲示板でもそういう話だった。これに関しては怪異とやらは関わっていない。だったらそれ以上でもそれ以下でもないはずだ。

……だけど、あの話を信じるにしても、信じないにしても……流石にこのような状況でいい気持ちはしない。あと少しで仕掛けも終わる。終わったらとっとと帰ろう。

 

 

 

 俺がそう思った刹那だった。

 

 ――――しゃら……しゃら……

 

森中に響き渡るような高い鈴の音色が聞こえた。

その音は、音の消えた森の中で、存在感を放つ。

 

 

 真っ先に俺は弟を見る。

 弟が首に付けているネックレスかと思ったのだ。

 だが、弟は俺の裾を掴んで立ち止まっているし、風もないのでなるわけが無い。

 

 

「……今の、聞こえたか?」

 

 凪葵は、こくりと頷いた。

 

周りから俺ら以外のは()の気配を感じない。

だけど、誰か俺らと同じように鈴を持っていた人が鳴らした。……または昨日掲示板を見せてきた圭太が俺の事を揶揄う為にやったのだと信じたい……。

 

 

 

 弟には掲示板の話を俺からしてないし、あんな情報は圭太みたいにオカルト板に張り付いていないと知り得ないはずなのだが、弟も直感で気味が悪いと感じているらしい。

唇が微かに震えている。

あるいは、昔、圭太が俺の弟は俺より霊感があると言っていた。俺が感じれないものまで、弟は感じているのかもしれない。

 

 

 ――――しゃら……しゃら……しゃら……

 

 音が、近づいてくる。

 

 どこからともなく、風が吹いた。

 さっきまで止まっていた空気が、急にざわめき出す。

 木々の葉が揺れ、枝が軋み、森がざわざわと騒ぎ始めた。

 

 「走るぞ!」

 

 俺は弟の手を掴んで、来た道を駆け出した。

 足元の土が滑る。枝が顔をかすめる。

 でも、構っていられない。

 

 ――――しゃら……しゃら……

 

音が、だんだんと着実に近づいているのだ。

 

不気味以外の言葉が見つからない。

 

流石に俺の直感も危険だと告げている。

ガンガンと頭が痛くなる。

 

 

 凪葵の手を強く握りしめて、ただひたすらに来た道を戻る。

 息が詰まる。

 空気が重い。

 まるで、森そのものが俺たちの逃走を拒んでいるかのようだった。

 

「兄ちゃん……」

 

 凪葵が泣きそうな声を出す。

 その声に、俺は振り返らずに答える。

 

 「大丈夫だ。大丈夫だから、今は走るんだ!」

 

そう言いながら、自分に言い聞かせていた。

大丈夫だ。

これはただの偶然。

何かの偶然が重なったもの奇妙に感じているだけ。

そう思い込もうとしていた。

 

 

 でも――――

 

 ――――しゃら、しゃら、しゃら、しゃら……

 

 その音は、俺たちの背後から、確実に追ってきていた。

 

 音が、近い。

 もうすぐそこにある。

 背中に、何かの気配が張りついている。

 

 

 振り返るな。

 絶対に振り返るな。

 見たら終わる。

 そう思った。

 

 でも――――

 

 今何に怯えているのかもわからない現状、振り返らざるにはいられなかった。

 

 その瞬間、時間が止まったように感じた。

 

 そこに、“それ”がいた。

 

 

 

 

最初に目に入ったのは、脚だった。

 異様に長く、白く、関節が逆に折れ曲がっている。

 それが、地面を這うように、音もなく滑ってくる。

 

 次に見えたのは、胴体。

 それは、“人間”の構造をしている。

 けれど、人間のあらゆる部位が無理やり蜘蛛のように変形させられたような姿だった。

 

 背骨は逆に反り返り、肩甲骨は突き出し、

 四肢は異様に長く引き伸ばされ、関節は不自然な方向に折れ曲がっていた。

 まるで、人間の骨格を無理やり折って、蜘蛛の形に組み直したような、そんな異様なフォルム。

 

 そして――――

 

 胴体全体に、無数の“顔”が張りついていた。

 

 それは、まるで昆虫の複眼のように配置されていた。

 沢山の女の顔が張り付いている。

 

 

 ――そして、どれもこれも、笑っていた。

 

 けれど、その笑みは、どこかおかしかった。

 目は虚ろで、焦点が合っていない。

 口元だけが、裂けるように、限界まで引きつっている。

 それを見て掲示板の、『死の直前に貼りついた“作り笑い”が、そのまま固まってしまったまま取り込まれた』という話を思い起こしていた。

 

 その顔たちが、一斉にこちらを見た。

 

「……ひっぃ」

 

そしてその化け物から鈴以外の得体の知れない音が発せられる。

 

 

 

「……ァァァ……ギャ……繧√s縺薙>縺ュ鬘斐a繧薙%縺??せジャラ……ギャララ……ァァァァ……縺。繧?≧縺?縺」

 

 それは、言葉ではなかった。

 まるで、壊れたスピーカーが吐き出すノイズのような、

 文字化けしたテキストを無理やり音声に変換したような、

 そんな、**意味を持たない“音”**だった。

 

 けれど、意味はなくても、ソイツから伝わってくる強い意思は伝わってきた。

 

 ――――それは、凪葵を““欲している”。

 俺たちは、ただひたすらに走るこしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 木々の間を縫うように、斜面を滑り、枝をかき分け、息を切らしながら、出口の見えない森を駆け抜ける。

 

 けれど、“それ”は追ってきていた。

 

 ――――しゃら、しゃら、しゃら……

 

 鈴の音が、空間を裂くように響く。

 

 その鈴の音は俺達……いや弟を追いかける為にずっと後ろについて回る。

 

「怖いよ……!何が起こってるの!?なに……あの化け物」

 

弟の声音には完全に怯えが混じっている。

弟もアレを見てしまったらしい。

 

 俺は叫ぶ。

 

 「こんなの一時の悪い夢だ。明日になったら悪い夢だったで笑い話になって終わる!」

 

 

 ――――ドンッ!

 

 後ろから木の幹を蹴る音がした。

 俺はそれを見る。

 次の瞬間、“それ”が跳んだ。

 

 木の上から、枝から枝へ、器用に飛び移りこちらへとやってくる。

 

 

 

 「………っざけんなよ。まじでいちいち動きがキモいんだって!!」

 

 俺は少しでも怖さを紛らわせる為にわざとそうやって悪態をつく。

 

 掲示板で書いてあった。

 

 ――――“美しい少女を狙う”

 ――――“鈴のかんざしをつけた人間が生贄に”

 

 

 「……違う……!」

 

 

 

 通じるか分からないが、俺は、走りながら化け物に向かって吠える。

 

 「お前は勘違いをしてる……!俺の弟はそもそも男だ。確かにコイツは可愛い女の子に見えなくも無いが全然っ違う!ちゃんとついてるから!」

 

 あいつは、俺の弟が“生贄の少女”だと思ってるのではないかと憶測を立てた。だから俺の弟を必要以上に狙っているのではないかと。

 

「……ァァァ……ギャ……縺サ縺励>縺サ縺励>縺サ縺励>せジャラ……ギャララ……ァァァァ……繧上◆縺励?縺九♀」

 

 

 

 

意味のない音を発するだけで、当然俺の話なんて聞く耳を持たない。

 

「ならッ」

 

 「凪葵!首にかけてる鈴を捨てろ!早く!」

 

 凪葵は走りながら、首元に手を伸ばす。

 

 これも生贄と思われている原因だろうと思った。

 

 「……わ、分かった……!」

 

 しゃん、と音が鳴る。

 鈴が、地面に落ちた。

 

 でも――――

 

 後ろから追ってくる音は止まらなかった。

 

 ――――しゃら、しゃら、しゃら……

 

 “それ”の音は、変わらず、俺たちを追ってきていた。

 

 「……嘘だろ……」

 

 鈴を外しても、意味がなかった。

 万策つきた……。

 

 この間にも、必死に俺たちは走っているが一向に森から出れる気配がない。

 

もう、限界だ。

――そう思ってしまった。

実際に無事に家に戻れる光景が浮かばない。この山でコイツの餌食になって終わりなのだろうか。

 

――いや、それは許せない。

兄として。

――許せる範囲を超えている。俺がまだどうにかなるのはいい。だが俺の可愛い弟だけにはそんな事はさせてたまるかと強く思う。アイツの標的が俺だったらよかったのに、よりにもよって弟だなんて、あまりにも酷だ。

弟はまだ小学一年生。俺よりも生きた年数が少ないのに死なせてたまるかよ!

 

俺は立ち止まった。

このままじゃ、2人が餌食になる。

せめて、兄としてできる事をやらなければ――。

 

 

 

 「どうしたのっ!兄ちゃん止まったらっ」

 

 凪葵が不安そうに俺を見上げる。

 その目が、俺の決意を揺らす。

 でも、もう迷っている時間はない。

 

 

 

 「……凪葵、走れ」

 

 「え?」

 

 「いいから、走れって言ってんだよ!」

 余裕がなくてこんなに強い口調になってしまった。

 本当に情けない兄だよ。

 俺は……。

 

 俺は弟の背中を押した。

 その小さな身体が、よろけながらも前へ進む。

 

 「絶対に振り返るなよ。俺はあとから向かうから。だから、先に行け!」

 

 

 俺はそれを見る。

 “それ”が、木々の間から姿を現す。

 白く長い手足。

 歪んだ骨。

 笑う顔、笑う顔、笑う顔――

 

 

 

 「……来いよ、化け物ッ!」

 

俺は、足を踏み出した。

凪葵の逃げる時間を稼ぐために。

この山に入ることができたんだ。だったら抜け出すこともできる。

きっと凪葵は脱出できると信じて、俺はアイツのためにも少しでも時間を稼いでやらなきゃ。

 

 

 

 “それ”が迫ってくる。

 俺は弟と”それ”の間に入るような方になって、”それ”の行手を阻もうとする。

 

 風が唸る。

 空気が震える。

 そして、妙に長い腕が横から振られたかと思うと――

 

 

 

 ドガッ!!

 

 ものすごい衝撃が腹を打ち抜いた。

 何かが、俺の身体を貫いた。

 

 

 

 「……っ……!」

 

 視界が揺れる。

 地面が傾く。

 そして、背中から倒れ込んだ。

 

 

 

 腹に、太い枝が突き刺さっていた。

 深く、斜めに。

 血が、温かく流れ出すのがわかる。

 

 

 

 「……あ……」

 

 声が出ない。

 喉が詰まる。

 息を吸うたびに、焼けるような痛みが腹の奥から広がる。

 

 動けない……。

 

 手を伸ばそうとするが、力が入らない。

 指先が痺れている。

 視界が、霞んでいく。

 口から大量の血が溢れる。

 

アイツに手で払われた俺は簡単に吹っ飛び木の枝に刺さったようだった……。

 

笑えねぇ。

 

少しでもとはいったが、10秒も稼げたか怪しい。

それは流石に短すぎる。

 

アイツの障害物ですらなり得ず、人間が邪魔なハエを追い払うように、手を振られただけでこの有様だ。

 

 

 「……凪葵……」

 

……ごめん、こんな兄で頼りなくって。

 

あの時ちゃんと圭太の忠告通り、昆虫ショップで買っとけば良かったんだ。

 

なのにこんな事に弟を巻き込んで……兄ちゃん失格だ。

 

 

 

 弟の姿が、遠ざかっていく。

 夕暮れの中、小さな背中が、必死に走っている。

 

どうか、どうか生き延びてください。

 

 

 ――――俺の弟で居てくれてありがとう。

 ――――本当にごめんな。

 ――――お前の兄でいれて幸せだったよ。

 

 

 

 その言葉を、心の中で繰り返しながら、

 俺は、静かに、目を閉じた。

 

 

 

 そして、すべてが、闇に溶ける。

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目を開けた瞬間、世界は静まり返っていた。

 

風の音も、虫の声も、何もない。

ただ、淡く白んだ空気が、森の奥に沈殿している。

 

俺は立っていた。

確かに、立っていた。

けれど、足元に目を落とした瞬間、思考が凍りついた。

 

そこに、俺がいた。

 

木の枝に突き刺さるように倒れた身体。

腹を貫いた枝が、皮膚を裂き、肉を割き、血を吸っている。

顔は歪み、目は虚ろに開いたまま、何も映していない。

 

『……ああ、そうか』

 

声は出た。けれど、空気を震わせることはなかった。

俺はもう、死んでいる。

そして霊になった。

そこにあるのは俺の死体だろう。

それを、妙に冷静に受け止めていた。

 

涙も出なかった。

恐怖もなかった。

ただ、ひとつの思いだけが、胸の奥に残っていた。

 

――凪葵は、まだ生きている。

 

それが、唯一の救いであり、同時に最大の焦燥だった。

 

「……まだ、終わってない」

 

俺はそこらを見渡す。

弟の姿は見えない。

けれど、あの鈴の“音”は、まだ森のどこかで響いている。

 

俺の霊体は、徐々に薄れていっていた。

輪郭が曖昧になり、指先が透けていく。

このままでは、何もできない。

ただ見ていることしかできない。

このような状態で、大昔から憎しみだけで怨霊として存在し続けてきたアイツに敵う気がしない。

先程のようなオチになってしまう。

 

「……くそっ……!」

 

歯を食いしばる感覚すら、もう曖昧だった。

悔しさだけが、確かな熱を持って胸に残っている。

 

そのときだった。

 

森の奥、木の向こうに――何かが立っていた。

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