ランナーズハイ 作:どんとろりんと言葉が溶けていく
放課後、件の…約束の日を迎えた。バインダーを眺めているとやにわに影が差す。
「来たか」
返事はなかった。仁王立ちのまま、風に揺られる髪の隙間から刺すような視線だけが目を引いた。夕焼けに照らされる中、その目だけが爛々と、背後の沈む太陽よりもギラギラと輝いている。
静かな覚悟と抑えきれない闘志、一人のウマ娘の本気の姿として、ターフに立っていた。
見る限り、とても走れるようには見えなかった。一体どれだけのハードワークをこなしたのか、身体はボロボロで何度も転んだであろう土が拭われぬまま、頬に張り付いていた。急いで来たのか。息は途切れ途切れ、普通のトレーナーであればトレーニングの中止を言い渡すだろう。俺はそれをしないが。
兎角、シリウスは選んだ。俺みたいな奴を見返すために必死で積み重ね、焚きつけた奴を叩きのめすために知恵を絞り、血肉を鍛えた。そうして、確固たる意志を持って此処に居る。俺はそれに祝福と敬意を表したい。
気高く餓えた狼が、刺し貫かんと研ぎ、磨いた牙を剥く。鋭く、重く、いっそすがすがしいほど実用性のみに目を向けた試行錯誤の末に研磨された
今までのシリウスシンボリにはなかったある種の泥臭ささえ、きっと糧にして此処に立っている。それは前のシリウスなら忌避したものかもしれない。あるいは自分とは遠いものとして見ていたかもしれない。
泥に体を沈めることを良しとし、苦汁を啜り、この時までに備えていた。
シリウスはきっと正しく
遠目にはミスターシービーとサイレンススズカ、カツラギエースその他数人のウマ娘が見える。止めてくれるなよ。シリウスシンボリの焚きつけた覚悟に水を差されたくはない。
俺はたった一言告げた。それ以外に伝える事等なかったしな。
「位置につけ。 走るぞ」
きっと、それだけで十分だ。
――――――――――
「シービーは…どう思う?」
「何が?シリウスのこと?んー、まぁ大丈夫かなって」
「そんな他人事みたいな…」
「ジッサイ、他人事だしね。んでも、あそこまでやったシリウスならきっと先生…トレーナーを見返せるよ」
「でもよぉ…」
「エース…、シリウスがやるって言ってやった。焚きつけられたのが理由だけど、それでもシリウスが決めたこと。それに口出しするのも違うんじゃない?」
「ん~……」
難しい顔して頭を抱えるエースに苦笑する。まぁ言わんとすることはわかるよ。ちょっと不安って気持ちは私もあるし、なんなら今のシリウスの姿が別人みたく見えるってのもある。あぁいう顔するシリウスなんて見たことないもん。
それでも、シリウスは選んだんだよ。それを良しとした。
それならさ
「エース、応援しようよ。これでへたっぴな走りでも見せたら今度こそ先生に捨てられちゃうからね」
「シービーあのなぁ…!」
不安をあおるような言葉にガシガシと頭をかいたエースに笑いかけて、シリウスを見て、先生を見て
ふと
横に居るスズカちゃんに目を向けた。
なんでなのかって、なんとなく?でも一瞬、いやな感じがしたからふいに目を向けた。
まだ春で、少しずつ日が暮れていくだろう夕焼けが私たちを迎えに来る時間、私の目に映ったサイレンススズカの瞳はまるでガラス玉みたいに無感情で、無色透明で
「スズカちゃん?」
「……… はい?どうか、なさいましたか?」
空っぽの、抜け殻みたいに映った姿がどうにも怖くなって思わず声を掛ければ、少し反応は遅れたけどいつもと変わらないスズカちゃんがいる。
見間違いだったのかなって思いながら言葉を紡いだ。少しでも不安を紛らせたかったってのもあるかも。
「スズカちゃんはさ。この走り、どうなると思う?」
ターフの方、眩しそうに目を細めたスズカちゃんはぽつりと、吐き出すように言った。
「そう、ですね。私は…」
「きっと
――――――――――
「改めて、距離は2000、芝。一般的な中距離コースだ。走り方は問わない。全力…いや、“必死”で走れ。準備はいいか?」
「言われなくても」
身体を前傾姿勢に、足に力を溜める。だだっ広いゲートに私一人だ。邪魔する奴は誰も居ねぇ。息を整える。香る土の匂いが鼻腔を擽る。私たちにとって慣れ親しんだ匂い。
気分は妙に落ち着いていた。適度に体から力が抜ける。
ふぅー…… 深く、強く、息を吐いた。視界は明瞭に、思考はクリアに。
回路が巡った。シナプスが弾けたように思考が加速する。スタートダッシュに最適なウマ娘を頭に思い浮かべろ。脚質:逃げだからこそ、前を防がれると致命的だからこそ、スタートダッシュにこそ力を入れたウマ娘を脳裏に描け。
踏み出し一歩目は、まるで転ぶように。身体を前に投げ出すように。ヒトもウマ娘も反射が一番反応できるとして、転びそうなときに手をつこうとするように身体全体を前へ、放り出す。足の甲が伸び切り、全体重を片足に集中させるという、とんでもない負担を掛けるこの出だしを、二歩目でぶち抜く必要がある。
身体が熱い。燃えるようだ。息が喉を焼いて、高揚感が後頭部にて破裂する。どうやればいい。どうすればいい。選択肢は無数にある。そのどれもが私がこの一週間で重ねたものだ。使えるものも、使えないものも、使えるようにしたものも、まだ付け焼刃のものでさえ、選択肢が無数にある。
足が震える。紛れもない武者震いだ。キッと前を見た。震えが止まった。それでいい。怖気づくなんて私らしくない。
もっと、私らしく、もっと、シリウスシンボリらしく
「…お前が何をして、何を積み上げたのか。」
耳を打った言葉がどんな意味を持つのか、極度の集中状態に入った私にはわからなかったし気にも留めなかった。ただ、その声色が
「それを見せてみろ」
ガコンッ
一気に身体を加速させた。
ようやく、ようやくシリウスの走りです。
貴方は私だけを見てくれない。