ランナーズハイ 作:どんとろりんと言葉が溶けていく
ベストな方法を誰も知らない
世界が、早送りになった。
脚が弾ける。込めた力が足先から爆発するように抜けていく。足の神経が痛みと、それ以上の熱を伝えてくる。
踏み込む際の角度はどうか?膝のバネは今のところ順調だ。衝撃は抜けてきているが…後半、どうなるか判断出来ねぇ。そもそも、練習の疲労は0には出来なかった。それがどう響くか…。
揺れる身体、姿勢がブレないようなるべく真っ直ぐに。ただ、前だけを見て。今だけは何も考えず、ひたすら前へ。その先へ。見据えて走っている。
一歩、また一歩、加速する度に合わせて思考も加速していく。
風を抜き去っていく。今この瞬間、このレースには私一人しか居ねぇ。つまり、私自身との勝負ってことになる。面倒クセェ言い方だ。
アイツは必死で走れと言ったんだ。なら少なくとも私が必死で走ったと思えるところがスタートライン。それ以上、どこまで自分を超えられるか、それが重要なのであって、それ以下にも満たない走りは即座にペケを付けるだろう。いや、ペケで済むならいいだろう。
興味を無くして、私のことをゴミのソレと同じように見る。
大した野郎だ。シンボリ家に連なる者にそんな目を向けてあまつさえ暴言でも吐いた日にゃ、お外を容易に歩くことも難しいだろう。此処は中央トレセンで影響力も馬鹿にならないからな。
だが、アイツはそんなもの歯牙にもかけねぇ。アイツにとって真に重要なのは走りだけ。他の誰よりも真摯に向き合ってきたからこそ、それを心底舐める態度を取れば即座に見限る。そういう手合いだ。
面白ェ。
膝だけじゃない足全体をバネとして見立てる走り方。これはヒトのストライド走法に近しい走り方だ。といってもヒトよりもウマ娘の方は脚力が何倍もある。一歩に踏み込める力は段違いだから、ストライド走法よりも跳ねるような形へ進化している。
アイツと私の走り。比べてみていくつか気づいた差異がある。
まず、一つ目。アイツはそもそもがヒトで、私がウマ娘ということ。ようは肉体構造からして違うということ。筋肉の付き方からして違うのだから、そもそもとしてアイツの走りを真似したところで
これがアイツが怒ったであろう理由の一つ目。
二つ目。医療系の書籍を漁っていた時に気づいた仮定だが…。ヒトには反張膝というものがあるらしい。私らウマ娘で言えば「凹膝」「膝反り」だ。膝を伸ばしてまっすぐ立った時、膝関節が真っ直ぐ以上に反ってしまうもの。
アイツがそのヒトでいう反張膝と仮定するとわかることがある。アイツの膝に負担を送る走りの切り替えは悪癖だ。下手すりゃ足が逆に曲がることになる。
だが、反張膝という性質。立った時にヒトより“前”に膝が曲がる。つまり、膝の可動域が広いということだ。その分先にも言った通り、逆に曲がる可能性がある…その反張膝の欠点だけを潰して、利点だけを享受できたらどうなる?どういう走りになる?
アイツの走りはヒトにしてはバネが強かった。軸周りもだ。ペースが速いからそうなっていたと思っていたがそうじゃない。秘密は足だ。
言い換えれば、振り戻しが異様に速い。
コースは中盤差し掛かり。コーナー曲がってやっとというところ。足のエンジンは上々だった。世界全てが自分よりも遅く感じる。脳の裏っ側が静かに弾けた。気持ちよさが全身を駆け巡る。そら来たぜ。ランナーズハイだ。これが切れたら、地獄の始まり。目が覚めるような多幸感は次第に薄れるから、その間に全力で力を込めておく。スタックしておく。ツライ時に踏ん張るよりも、楽な時に踏ん張っておいた方が良い。
速く走りたいと考える時、ウマ娘もヒトも大して変わらない問題に行きつく。
それは、如何に足の回転を速くするかだ。
一歩一歩、踏みしめる力が強ければ当然それを元に戻すまでのインターバルがある。そのインターバルを如何に短く出来るかという問題だ。身体がデカいウマ娘でも踏み込める数だけ加速するのだから至極当然の話で、小柄なウマ娘も回転数を上げなければ加速にはつながらない。
そう考えると反張膝というのはメリットもありデメリットでもあると考えられる。膝の可動域が広くなっているから、足を踏み込んだ時の軸がヒトよりも広く効く。それこそ、化け物レベルの強靭な足腰を要求するだろうが…アイツのことだ。とっくのとうに手に入れるってことだろう。
アイツの武器はソレだ。反張膝という病気を逆に利用するそのイカれた思考。それをやってのける肉体。出来るという確信と努力。どれも揃ってないとそんなことできるはずがねぇ。
真似なんて出来るワケねぇ。そもそも私は凹膝じゃねぇからな。まず膝を逆向きに曲げるところから始めなくちゃいけねぇ。ンでも、そんなことしたらアイツは多分ブン殴ってくるだろう。馬鹿なことをするなと。
あぁそうだ。馬鹿なことだ。今からやる事。そんなことはな…!
アイツの走りは
それだけじゃない。自分の脚を過信しすぎて散っていった奴らの記録。負けた奴らの走り方。今まで私よりも下だと思っていたヤツを片っ端から見直した。アイツが提示してきた怪我で引退したウマ娘達もだ。
勝った理由は偶然かもしれないが、負けた理由に偶然はない。
誰が言ったかその言葉。前の私なら鼻で笑うか…負け犬の遠吠えとしか思わないだろう。負けたヤツがお前が勝ったのは偶然だと言いたいだけの
だが今は…そうだな。一部肯定して一部否定するようになった。それは私が変わったからか?違うね。私はいつだってシリウスシンボリだ。変わることはねぇ。じゃあなんで一部とはいえ同意できるようになったか?簡単だ。
私の負けに偶然なんかあるわけねぇ。そう思えたからだ。何が運だ。何が天命だ。そんなもん勝手に祈って勝手に縋ってろ。私はあの時負けた。アイツとの勝負で負けた。それは私に負ける理由があったからだ。断じて、運や天命、そうしたあやふやで不確かなモンじゃあねぇ。
私の負けは私だけのモンだ。誰にも渡さねぇ。
それに、だ。私の勝ちにも偶然なんてあるワケねェ。私が積み上げてきたモンが、私がそこに至るまでのモンが、全部が全部偶然で片づけられるワケねぇだろが。じゃあなんだ。私が一週間、続けてきたことは全て偶然を生み出すための物だったのか?そうじゃねぇだろ。私は勝つために走ってきた。目的があった。アイツに、今一度立ち返る機会を与えられた。見えていなかった。足元が、ひいては後ろが、私が歩んできた轍が。びっくりしたぜ。なんせ、蛇行も蛇行しすぎてた。ゴールから見て、私の道筋はとんでもなく歪んでいた。それが理解できた。
だから私は一つずつ動く事が出来た。全部が全部ゼロから始めるようなモンだったが、それでも一個一個を改善していった。だから、今の私がいる。まだ改善しきれてないところはある。だがそれでも少しずつ、前に進んでいる私がいる。
それが勝ちの理由ってモンだろうが。そこに偶然はねぇ。必然しかねぇ。努力とは即ち結果だ。結果が出たということは努力したということなのだ。
視界に微かに映った。トレーナーの姿だった。それだけ流れていく世界の中知覚できた。私の感情が爆発した。全身に力がみなぎる。憐れみとかそういうもんでもねぇ。てか、そこまで思い入れねーよ。まだ出会って1か月も経ってねぇ。
ただ、1週間前の私とは違うってことを見せたかった。そんだけだ。
努力が楽しい。一歩一歩、自分が前に進めているのかどうかを確認しながら進んでいく。出来ない事が出来るようになる。それがこんな面白いことだとは思ってもみなかった。出来るからできる。出来ないからできない。そう割り切っていたが違った。
時間を掛ければ誰だってできるんだ。確かに、そこに至るまでに速い遅いはあるだろう。しかし、出来ないことはない。ただかける時間に尻込みして出来ないと言ってるだけのことだった。そんだけのことだったのだ。
私にはできないことが山積みで、山を小さいスコップで崩すように出来るようにしていく。上を見たらキリがねぇ。いつ終わるのかさえ分からねぇ。
でも、楽しい。積み重ねることが酷く楽しい。
自分の血肉に還元されていく。自身の骨を化していく。技術、力、経験、全てのものが自分になっていく。飢えていたものが満たされていく。でも
まだ、足りない。だからもっと
微かに感じた。ほんの少しだけ、いい意味にも悪い意味にも捉えられるような何か。予感。
熱、それと何かが噛み合うような感触。踏み込む。背筋がゾッとする。何かが来た。背後から襲い掛かるように、覆いかぶさるように来たソレ。悪魔とも言うべきもの。来てしまった。理由はいくらでもあるだろう。練習の疲労。準備が出来ていなかった。本当にいろいろだ。だが今来るのか。心底歯噛みしたくなった。
右足の軸がブレる。力が抜けた。足がそれていく。曲がる瞬間のことだった。曲がり切れない。力の制御が追い付かず、次の踏み込みに準備が出来ていない。
足が、滑る。
――――――――――
ガタッ
音を立てたのはいったい誰だろうか。ベンチにて座っていたウマ娘だろうか?誰も気には留めなかった。誰もが息を飲んで目の前の事に注視していたからだ。
ミスターシービーも、カツラギエースも、サイレンススズカも、トレーナーでさえ…
目の前で起こった事から目が離せなかった。
脚滑り、それは
踏み込みが甘く、力が十全に抜けきらなかった。気を抜いて踏み込む角度が悪かった。理由はいろいろあるが…本来すべての力を足に込めるからこそ、それが横へと逃げてしまうことで発生する脚滑り。こと、ヒトであるなら大した怪我にはならない。だが、ウマ娘は違う。その脚力は容易にコンクリートを砕くし、フルマラソンしても平気な顔で耐える体力がある。それだけの肉体を持っている。
走るというのは負担がかかるスポーツだ。一歩一歩が全力だから、そこを踏み外せば待ってるのは怪我で済めばいい方で、最悪、スポーツの道を絶たれてしまう。ウマ娘なら、その一生を棒に振るといってもいい。
だから、今、目の前で起こったことは紛れもなくシリウスシンボリが死ぬかもしれなかった光景であり…
シリウスシンボリが強烈な、地面に切り込むように斜めの踏ん張りを利かせ、横へかッ飛ぶような走り。シリウスの走りではないと断言できる誰かの走り。いや、誰か達の走り。横に居たシービーは気づいた。それを見るトレーナーが苦々しくも納得するような目をしたことを。その目には確かに、認めるナニカがあったのだと。
レース後半、第三コーナーを回るときのことだった。
世界が、一人のウマ娘に焦点を当てた。
今までのシリウスなら、きっと転んでいたと思います。多分。
でもそうはならなかったという事実が、きっと誰よりもシリウスを強くすると思って、入れて見ました。カッコいいんですよ。シリウスって。
お約束を踏み越えて