ランナーズハイ 作:どんとろりんと言葉が溶けていく
ようやくです。
死ぬ、このまま、死ぬのか?
限りない死の予感が全身を駆け巡った。疑問と恐怖と、それから、それらを上回る怒りがあった。
直感が脳を叩き起こす。軽い浮遊感に肝が冷える。来る衝撃に体がこわばりそうになる。倒れる寸前のところだった。耐えたのはなんてことはない意地だった。
まだだ、まだに決まってる。まだ始まったばかり。私は、まだスタートラインにすら立ってねぇ。死ぬな。死ぬな。いや、死んでも走れ。走って死ね。転んで終わりじゃ収まらない。
この
足をナイフのように地面へと食い込ませる。かかとを垂直にスイングして出来る限りのグリップを効かせる。蹄鉄が悲鳴を上げた。頭をよぎるは動画のウマ娘。加速が得意なウマ娘。ソイツがよくピンチの時にやっていたもの。
なんで過ったのか。走馬灯だろうか?それでもやらなきゃ死ぬだけだった。そこではじめてわかった。この技術の血を、肉を。必要性を。理解できた。頭でなく、心で理解できた。
滑る、滑る。芝生が切り刻まれていく。須臾、止まった。止まれた…!出来たのだ。あとは…。
力を込める。足が斜めになっているから芝生の側面を全力で蹴りあげる。失敗すればそのまま芝生の上を滑って転倒するだろう。出来る出来ないじゃない。やるしかない。
次に過るはアイツの走り。バネが強く効いた、振り戻しが早い強靭な走り。目に焼き付いて離れなかった、あの走り。
アドレナリンが全身を駆け巡る。軋むほどに歯を嚙んだ。剥き出しの、いっそ獰猛なほどの笑みがあった。
命を賭けた鋭角カーブ。負ければ死。勝ってもリターンなんてないただマイナスがゼロに戻るだけの苦肉の策。やる価値しかない。音が消えていく。時間が引き延ばされていく。目が冴える。近づく地面がよく見えた。ギリギリと引き絞った肉体を開放して
アイツの走りだ。アレが鍵。自分にとって不利な状態の時、さらなる負荷を加えて状況を乗り切る理外の走り。やるしかない。やるしかない。出来なきゃ死ぬだけ。終わるだけ。デッドラインは踏み越えた。今わの際まで加速しろ。
全身の血液が沸騰する。脳細胞が破裂するみたいなバチバチとした感覚。腕を振り抜く。
予感が、当たる。────自分の中で何かがハマってしまう感覚。まるでパズルのピースがぴったりとはまったような感覚。
もう二度と戻れないという確信があった。この瞬間、たった一瞬のカーブの切り返し、それだけで、人生全てが変わってしまったような感覚。
私は、命を捨てることができるのだ。
「勝ったッ!勝ったのは私だ。このシリウスシンボリだッッ!」
滑り込むようにカーブ。側面に飛び出すように駆け出していく。柵が目の前にあった。スレスレで横を通り抜ける。インを攻めすぎた代償を支払うかもしれなかった事実にちょっとの恐怖とデケェ高揚があった。
私は、生きている。
生きて、息してる。酷い前傾姿勢だ。身体を持ち上げようとする。足が上がらない。そりゃそうだ。足に多大な負担がかかっていた。それでも耐えられている。それは、まさしく…
口から息が、生きが漏れる。死に近づいていくような殺人的な走りが口から命を吹き出していく。一歩が私を殺していく。デッドラインは踏み越えた。きっと、私はこの後、ぶっ倒れる。予感じゃない、確信だ。
もしかしたらしばらく走れねぇかもしれなかった。それでも、きっと後悔しない。
私はこの走りを後悔しない。
だから、こっからは体力や技術じゃねぇ。意地だ。私の意地。シリウスシンボリとしての意地。肉体で走るんじゃねぇ、最後まで走り抜けるという強い意志が、精神が今の私を駆動する。
吐き出す息が熱い。世界がどんどん熱されていく。視界が狭まる。前しか見えない。ゴールは目の前、視界が明滅する。それでも前へ。
芝生の青臭い匂いが鼻を刺激する。口の中で鉄の味がする。耳は遠く、誰の声も届かない。私しかいない。ここには、私以外誰も居ない。たった一人だ。それだけがある。孤独。それでもいい。それでいい。選んだのは、私だ。
空気を掴むように腕を振るう。足を踏み壊すように跳んでいく。身体が縮みあがる。それは肉体が限界を超えて走り続けることへの緊急信号だった。それでも最低限のフォームが崩れなかったのは、一週間、ひたすら私が崩れないようにしてきたからだった。
出来ないことが出来ている。それが何よりもうれしい。
ゴール目前、焦りはない。ただ、通り過ぎるだけ。走れ。走れ。肉体に命令しろ。
まだ終わりではない。ゴールまでがレースだ。ふと頭を疑問がよぎった。本当にゴールは目の前か?
微かに捉えた。トレーナーだ。ゴールの奥に居た。思わず目標がズレる。なんでだとか、バカだろなんてわかってる。それでも変えた。がむしゃらだった。無我夢中だ。人を殺せるほどの加速がトレーナーを襲うだろう。それでもいい。意趣返しだった。私は勝った。勝利者だ。敗者は勝者の言うことを聞く権利がある。
私が求めるゴールはそこじゃあない、テメェだ。
目指すべきもの。数多の時間、努力、知識を絞り出して積み重ねてきたテメェみたいになれば、きっと世界のテッペンを取れる。
ゴールを抜けた。まだ、止まらない。
ぶつかる、ぶつかる。横に居たウマ娘達から少し離れた。察したのだろうか。どうでもいい。今は
ぶつかる。ぶつか、ぶつかった。身体を投げ出すように後ろに倒れていく。強靭な肉体を持つトレーナーでもただでは済まないだろう。それでいい。それがいい。お前だぜ。私をそうさせたのはお前だ。お前だろ?なぁ。
二人そろって吹っ飛んだ。息切れは止まらない。落ち着いてなんてられない。私を抱えて背中から落ちたトレーナー。無事じゃすまないだろう。ましてや私を庇うようにしたなら、そのエネルギーがそのままクッションとなったお前に伝わったことになる。多分、死にかけだろう。そんなアイツの胸倉をつかみ上げる。体力なんてない。死ぬ気で走ったから。だからこれは意地で、激情だ。
──────────
「はぁっ、はっ、私だ!私が、勝ったぞッ!お前との勝負ッ!私の勝ちだッ!」
耳を絞り、伝える努力を怠った酷く独善的な言葉だ。
全身が痛い。そりゃあそうだ。ゴールしたと思ったら此方に突っ込んできたのだから。常人なら死んでるぞ。
だがシリウスは言っても聞かないだろう。頭が回ってない。死ぬ気で走ったのだから当たり前だが。
「ふぅっ、ふっ、確かに私が腑抜けた走りを見せたのがワリィ。だが、だがなぁ!これが、私の走りはこれだ、これでいいんだ!人の
「アンタの言う通りだよ。私は基礎ができていなかった。自分すら確立出来てねぇのに誰かの猿真似なんざしたところでブレまくる。だが基礎が出来ているならどうだ?お前はそうだ。ずっとそうだった。最初の失望も、引退したウマ娘の奴も、お前は私にヒントを与えていた。お前、見えていたな?私の先が見えていたなッ!見えていたから、アンタは焚きつけた。どうなるかわかってたから、手の平で踊らせた。」
酷いことを言う。確かに、焚きつけたのはそうだが手の平で踊らせていたわけじゃあない。勝手に踊ったのはお前だ。
「試行錯誤だ。私が私で居るために。やらせたのは他でもないお前自身だ。さぁどうする?私は死ぬ気で走ったぞッ!これが私の覚悟だッ!この走りが私そのものだッ!」
喰らいつくような物言い、剥き出しの本心をぶつけられる。クールさの欠片もない凶暴な顔だ。
あの、何が何でも走り続けるというフォーム。土壇場の、それも思い付きと経験不足を肉体で補うパワープレイ。出来てしまった事が後悔されるような、そういう走り。
シリウスシンボリ、アイツは良い意味でも悪い意味でも俺の予想を外れた。地面に食らいつくような切り込み、足に多大な負担がかかっている。立て直すのも難しい。だが、立て直せてしまった。危険な状態で出せてしまった。出来るかどうかじゃない。すべきかどうかを考えさせられなかった。
未来を前借するような走り。自分を殺す走りだ。
俺と同じ道を行く、破滅するかもしれない走りだ。
「えほっ、がっ、はぁ…はぁ…。お前が、こうさせた!ほかならぬ、お前が教えたんだ!なぁ!わかってるよなぁ!?この意味が、この手が…!」
ギリッと両手が絞られる。首が締まる。シリウスの赤い熱が口を伝って俺に流れ落ちていく。汗が滝のように流れている。死ぬほど走ったのだから当たり前だ。今すぐにでも休ませなきゃいけない。だが、答えなくちゃいけないだろう。
「どうする!?私は示したぞッ!選べッ!選べよッ!選ばせてやるッ!私を選ぶか、捨てるか!二つに一つだッ!」
追い込んだのは、誰か。なんて簡単なことだ。俺だ。
ただ、やはり俺は馬鹿野郎なのだと自覚できた。馬鹿すぎてきっと殴られても文句は言えないくらいの愚か者だ。口をなぞるように覆う。笑っていた。知らず知らずのうちに俺は笑っていたのだ。
首を絞められた今。シービーやエースなんかが引きはがそうとするが、万力を込めているのかてこでも動かない。俺しか見えていない。そういう顔だ。
嬉しかったのだ。シリウスがそれを選んだことを。
きっとコイツはアレすら武器にするのだろう。転びそうなほどの前傾姿勢といっそ恐ろしいほどの鋭角のピッチ。人間の身体でドリフトをするようなものだった。足の回転にものを言わせて、地面を蹴り込み続けて加速するような走り。
あの走りは誰の走りだったか。見たことはある。確か、体力がない逃げ気質のウマ娘だったはずだ。誰よりも前に出て、誰かに追い抜かれる前にゴールすればいいという考えの元、ギリギリまで攻めた走りをして…攻め過ぎた。結果は柵との接触。身体が傾き過ぎたのだ。
引退。それも二度とレースに関われなくなるほどの
それだけじゃない。他のウマ娘の走りも混ざっている。それも、俺が教えた怪我で人生の脚光を閉めることになったウマ娘だけじゃない。それこそ、使えるものを欠片でも集めて鍛えたのだろう誰かの集合体。だが、それは前のような他人の褌で相撲を取るようなものじゃない。
しっかり自分という基盤の上で成り立たせている。まだ甘い。はたから見ればガタガタで突けばすぐに壊れてしまいそうな、しかしちゃんと自分という土台を作っていた。
そうして、俺の走りすら混ざっているものだった。
シリウスは気づいたのだろうか。俺が生まれつき持っていたものについて。もちろん、それだけで真似されるとは思ってないが、きっと、ある程度の当たりをつけたうえでそうしているのだろう。
シリウスのバネが跳ねあがるあの動き。弾かれるようにして地面を蹴り上げる脚。だから、加速する。ムチャクチャだ。本当にダメな走り方だぞ。俺じゃなきゃ膝を壊す。
言われたことはしている。しているからこそタチが悪い。その上でシリウスは問うているのだ。それでも私はコレなのだと。
それでも自分を貫き通す。自分を曲げない頑固者のやり方だ。そういう手合いには何を言っても聞かないだろう。なら、せめて
道標くらいにはなってやろう。シリウスが通り抜けるべき点を教えるように。足を踏み外さないように。
気道が締まる。背中のダメージがデカいのか声を出そうとして掠れた音が出た。
「シリウス!シリウスヤバいって!先生死ぬ!死んじゃう!」
「落ち着けシリウス、先生ヤバいことになってるって!」
少し、気道が空いた。答えを聞くまでテコでも動かないだろう。
「シリウス……シンボリ、お前に、聞こう」
「……あぁ」
据わった目だ。捨てるなんて言ったら殺されそうだな…なんて思いながら
「選んだ、のは、お前だ。」
一つ一つ、区切るように。
「お前が、選んだんだ。決めるのは、俺じゃあない」
俺はトレーナーだ。教え導く、ただそれだけ。それに乗るか反るかはお前次第だ。お前がそうと決めたなら、それがお前の道となる。
「俺は、言った。それでもお前が変えないと、言うなら俺は諦める。それ前提のプログラムを、組む」
シリウスにとってそれは地獄よりも酷なことだ。なにせ、自分の命をすり減らす、常人なら絶対に止めるようなものだから。
「自分の脚をすり潰して、なお、酷使するような、トレーニングだ。耐えられるか、どうかは、お前次第だ」
ヤバいな。思ったより打ちどころが悪かったのか意識が霞む。それでも、言わなきゃいけないだろう。シリウスが命を賭けたのなら、俺も命を賭けなければ。
「選択権、は、お前にある」
そうして、最後の力を振り絞り、歯をギラつかせた悪人のような笑みを見せる。大してアチラは殺意むき出しの真剣な顔。互いに死ぬ寸前だというのに、まるで気にしないというように。
言った。
「覚悟は、いいか?」
「言われるまでもねェ」
やはり、俺達にはそれで十分だった。
これにて、シリウスシンボリの一区切り。次は誰になるやら