ランナーズハイ 作:どんとろりんと言葉が溶けていく
絶対に負けない唯一の方法は、戦わないことだ。
ピンポン―佐久間学(アクマ)より
静かに私が死んでいく。
あの後、シリウスさんもトレーナーさんも、入院することとなりました。
怪我の程度としてはトレーナーさんの方が大きかったらしく、大きな打撲と背中の皮が擦り捲れていたと。シリウスさんは、トレーナーさんがクッションになったからか、オーバーワークによって全身が痛んでいたことを除けば無事とのことでした。
その件で、トレーナーさんはシンボリ家に呼び出しを受けていましたが、シリウスさんがすべて取り潰したと笑顔で言っていました。少し、怖い笑顔でした。邪魔はさせない、私が選んだことだからと言っていましたが、本当に良かったのでしょうか。
それと、トレーナーさんは私の約束を守ってくれました。ちゃんと、シリウスさんに謝罪しました。
『お前の覚悟を侮辱するような真似をした。済まない』
『必要だからだろ。謝るくらいならさっさと治して指導しろ』
たったそれだけ、一つの対話のラリーを返したくらい、ただそれだけの言葉でしたがそれでも十分伝わったのでしょう。それ以上、兎角言う資格は私にはありませんでした。
本当にこれでよかったのでしょうか?いらぬ心配が、過りました。
私はずっと一人だった。私以外にこんなヒトが居るとは思っていなかった。
トレーナーが入院する間、私達は渡されたトレーニングを行っています。
それは、はたから見ると少々異質なものでしたが、確かに実力となって、血肉となって定着していることは実感できていました。
基礎体力の増加。ウマ娘は大抵、前傾姿勢での走りになります。…バランスは尻尾で取っているが、それでも空気抵抗を考えるならばできる限り体全体でバランスを取れた方が良い…そういって重しを手首に取り付けました。
何故、手…?と思いましたが、腕を振る動作というのは意外にも意識して振らなければ身体のブレや加速に密接に関わるらしく、実際に重しを付けて走ってみると、重みに重心が寄ってしまい、身体が揺れるということがわかりました。
前傾姿勢になればなおのこと手を振る動作は重くなります。振り子を描くように腕を振ると楽なのですが、それでは重しがなくなったときに、重しありきの走りになってしまうと指摘されました。
大事なのは正しい腕の振り方と、例え重しがあろうとなかろうと適切に体を動かせるかということ、と言っていました。
同じ、人間が居るとわかった時、一体どれほど喜んだのだろう。
トレーナーさんは病室に固定(二度ほど脱走しようとして器具にて固定されました)されているので、練習風景を動画に撮って見せる方式にしています。
トレーナーさんの指示は的確とは言わずとも、自分が行くべき道が見えるものでした。粗削りで、でも積み重ねたものを感じられる言葉、酷く具体的な、それこそ自分で味あわないとわからないものでした。
ですが、やはり経験しないとわからないこともあるでしょう。他のトレーナー方の練習方法の方が良い時もあります。その時は、方々に教えを乞い、それを自分の経験と合わせて消化し、教えてくれました。
自分がこうありたいという「道」それが見える教え方と言うのは初めてのことでした。
しばらくは練習を続け、私は夏の中京ジュニアステークスに。シービーさんは秋の芙蓉ステークス、それから京都ジュニアステークスに。シリウスさんはサウジアラビアRCに走る事が決まりました。
シービーさんが間を開けずに走ることに関しては、本人からの要望でしたがそれでもやっかみというのはすごくありました。ましてや、トレーナーさんが着任して1か月も経たずに立て続けに病院に通い、あまつさえ入院することになったのですから、やっかみ…というより心配の声が他トレーナー方はもちろん同級生からの声が上がるのもしょうがないことでした。
それでも、自分たちが納得したことだからとシリウスさんは封殺し、シービーさんは聞き流し、トレーナーさんもまた自分に出来る事はこれしかないと言って気にせず続けました。
人も、環境も、これだけ恵まれているのに、私はどうしてこうも不安に駆られているのだろう。
私を心配する友人はたくさんいます。同室のスペちゃんも、フクキタルも、心配してくれました。
嬉しかったです。ありがたかったです。迷惑をかけて申し訳ない気持ちでいっぱいです。
それでも、私と同じようなヒトと出会えることが奇跡だと思ったから、私はその奇跡を逃さないことにしました。
これで、良かったと思います。
誰も助けてくれない。私が静かに終わっていく。足がバタつく。溺れる。沈んでいく。なんて、
そんなことを、思ったりもして。
私は本格化して、ようやく本物の練習を始めることが出来ました。それは、朝、好きに走るようなモノではなく、少しの束縛感と動きづらさと、それでも必要なことだからと飲み込む不満感がありました。練習なんて、そんなものだと、シリウスさんもシービーさんも笑っていました。
走ること自体、面白い事です。楽しい事です。
肉体が風を切る感覚、跳ね飛ぶ反射神経、身体に命令する電気信号、足先はとうに痺れていて、終わりなんてないと思えるほど引き延ばされた時間が世界を支配する。
風の音、血肉の走る重みと痛み、目に写るは手で擦られたような景色、ターフの匂い、血の味、五感と痛覚が私を染め上げていくその様は、とても、とても楽しいものでした。
だから、こんな時間が、ずっと続けばいいなんて。そんな、都合が良い事を願ったりして。
私は、何がしたいんだろう。ただ走っていれば、それでよかったのに。
最近、嫌な夢ばかり見るんです。誰にも言えない、言う事ができない、ただ悪夢だという事を自覚できる曖昧な夢。ベットに入るのが億劫で、夜駆けしてもヒトは寝なくちゃいけないから、いやいやながらも床に着く。
いつも、いつもいつも見る。いやな夢。それは、今日もでした。
私は走っていたと思います。必死で、楽しいけれど本気で、朧気で昔のことのように忘れかけていることでしたが、確実にこう言えました。
私は、楽しんで走っていたのです。
それ以上を求めるのは、悪いこと?それなら、私は、悪い子?
一等賞、取ったんです。運動会でした。一番でした。嬉しかったんです。楽しかったんです。私にはそれだけが取り柄みたいに感じて。
そのはず、だったんです。
『君は、此処じゃないよ』
誰かにそう言われた気がして、手に握らされたソレは一位の、一等賞の旗でも、なんでもなくて
二位以下の、注目されない誰かのものだった旗。
『目を覚ました方が良い』
それで、目の前で、私じゃない誰かが表彰されていて、
じゃあ、私は?
『すごい、こんなに早かったんだ!』
『才能があるって。中央だって夢じゃないよ!』
『きっと世界だって取れるよ!』
そんな言葉を投げかけられていた誰かは、はにかむような、寂しいような顔をしていて
私は思わずその後ろ姿に声を掛けようとして
『サイレンススズカ?あぁ、二位の子でしょ』
『逃げ気質の子ってやっぱり無理なんだよ』
『てか、もういいじゃん。負けたんだし』
えっ?
あれ?此処は、どこだろう?私はどこに立っている?
運動会じゃないの?アレ?徒競走じゃないの?あれ?地方の大会じゃないの?
此処、何処?
立っている場所が途端に薄氷みたいに罅割れて、私が経っている場所は一位でもなんでもなくて
真っ暗闇で何も見えない。私はどこに立っているのなんて聞いても誰も答えてくれない。
『目を覚ました方が良い』
知らない誰かが前を歩んでいく。私は立ち止まっている。歓声が沸く。それは私に向けてじゃない。暗がりの中、日陰に立ち尽くしている。日向を歩く誰かを、ただ見つめている。これがいいの?これで、いいの?
焦燥感が支配して、得体のしれない恐怖が私を襲っていく。覆いかぶさるように、心臓に突き刺すように。
あれ、私って、負けたら、どうなるの?
わからない。何もわからない。
シリウスさんは乗り越えた。トレーナーさんを乗り越えた。焚きつけられたのもあるだろうけど、それでも自分の力で乗り越えることができた。
シービーさんは何があったかわからないけど、固い、固い、意志で走っていた。最初から揺らぐことはないであろう気持ちでトレーナーさんに臨んでいた。
じゃあ、私は?
私は向き合えてたの?先生に、トレーナーさんに向き合えていたの?本当に?
シリウスさんみたいに噛みついた?いや、そんなことしてはいない。ただ、シリウスさんの気持ちを勝手に借りただけ。
シービーさんみたいに貫いた?いや、そんなことはない。走っていればそれでよかったのに口を出した。口を出すべきだったのか?わからない。
『目を覚ました方が良い』
あれ?アレ?そういえば、私、私って負けたことあったっけ?いや、あった。あったはず。ちっちゃい頃に、確かに。あった。あったはず。あれ?ちっちゃい頃だけ?今は?私、最近負けたことって、あるんだっけ?
確か、確か確か確か、すごく、すごく怖かった。怖かったはずだ。怖かったのか?怖い?
本当に、怖かった?
トレーナーさんは私だけのものだったはず。のはずだったのに。それなのに。
離れていく。離れて、離れて、離れて、離れて、せんせいが、みんなが、離れていく。行かないで。行かないでなんて…そんなこと言うけれど
『目を覚ました方が良い』
本当に、そうだろうか?
離れていくのはトレーナーさん?本当に?近づいてるはずだ。先生なら、近づいて来てるはずだ。私と、先生の距離を縮ませようと、必死に、必死に。
みんなも、そうだ。みんな、みんなみんな頑張ってる。
なら、なんで追いついてこないの?なんで、私の元に来ないの?
『目を覚ました方が良い』
本当に、離れていくのは先生?みんな?わかっているんじゃないの?本当のこと。本当は、誰が離しているのかを。
トレーナーさんが一歩進んでいくのに、二歩、三歩進むのは誰?
みんなが一歩進む時間で、五歩も進むのは誰?
本当に、離しているのは
私が
『目を覚ました方が良い』
知らない誰かが振り向いた。それは、誰かの言葉だった。顔が塗りつぶされて、何も見えませんでした。ただ、栗毛色の髪をしていました。それだけでした。
そこで、目が覚めました。
「はぁっ、っ、はぁ。はぁっ、あぁ、はぁっ…はぁ…」
息切れ。心臓がバクバクする。冷や汗で気持ち悪くて、シャワーでも浴びたい気分。額に手を当てて、零れる髪の間から、いつの間にか震える手を見て、そして
「あれ、私、なんの夢見てたんだっけ」
いつもと変わらぬ今日が、始まる。
天才の苦悩。追いついてほしいなら止まればいいのに、止まることができないから天才なのだ。
ランキングに乗っていたと、嬉しい限りです。いつもながら感想評価ありがとうございます。
スズカのじっくりローストです。調理工程まだまだあります。