茂山影男 作:ピンチャンよ永遠なれ………
成人式を迎え、飲酒運転をした若者が起こした事故だ──と、世間では報道された。対向車線を猛スピードで乗り越えた車は別の車に乗っていた夫婦二人を即死させた。後部座席にいた子どもは意識不明の状態に陥っている。飲酒運転をしていた男と隣の友人は即死し、その後ろにいた女性二人は重傷ながらも一命を取り留めた。
夏油が病院に着いた時、影男は集中治療室にいた。通された霊安室には布で覆われた二つの遺体があった。
連絡を聞いてからずっと頭が回っていない夏油は、さびついたロボットのように一歩一歩と踏み出す。綺麗にセットしたはずの髪がすっかり乱れてしまっていた。
「ご覧になりますか?」
「……は、い」
詰まりながら言葉を出す。めくられた両親の遺体はなぜかきれいで、まるで眠っているだけのようだった。医者もなぜ事故にあったにも関わらず、遺体が損傷していないのか原因がわからないらしい。
夏油にはしかしわかった。二人の腕に付いていた、小さな血の痕で。まるで子どもがつかんでそのままズルズルと滑ったような痕だ。
影男が治したのだろう。想像を絶する痛みの中で、意識を失う前にどうにか助けようと二人の傷を治したのだ。
夜の冷たい廊下で、夏油は手術が終わるのを待った。看護婦が時折声をかけてきたが、何も返さずただじっとソファーに腰かけていた。
色々な考えを巡らせなければならないが、その余力が今の彼にはない。すでに親友にこの件を頼んだ。もしかしたら上層部が絡んでいるかもしれないから、慎重に調べてくれと。
硝子の手を一刻も早く借りたいが、高専が信用できない以上、今は無理だ。影男の生命力を祈るしかない。
本当にこの事故は偶然起こったものだったのだろうか? にしては都合が良すぎる。夏油の関係者三人が同時に、しかも狙ったように事故に遭った。
ハァ、と吐く息が白い。食欲は一切なかった。むしろ吐きそうだった。どん底だった心はそれでも親友の声を電話越しに聞いたことで、真っ逆さまに落ちていた自分というものが、突き出ていた木に引っかかるようにして止まった。
任せろ、と五条は言った。その言葉だけで、夏油はどれほど救われただろうか。
壁にかけられた時計の秒針がチクタクと進む。一日の疲れでうつらうつらとしていた脳が、廊下の奥から響いてきた音を聞き、覚醒する。
手術を終えた医者は、影男の状態について説明する。
「まだ予断は許さぬ状態ですが、ひとまず山場は抜けました」
影男の両足は膝から下が複雑に折れている状況だと言う。衝突の影響で、一度は前方が大破したはずの車。そのエネルギーは夏油夫妻を即死させるもので、加わった圧力が後ろにもかかった。現場に着いた救急車や警察も、なぜぶつかられた側の車が綺麗にそのままだったのか、理解に苦しんだことだろう。
「子どもの回復力は高いので、今後手術をしていけば以前のように歩けるようになるでしょう。ただ…」
影男は脳に大きな衝撃が伝わったせいで、いつ意識を取り戻すかわからないという。一週間後か、それとも一か月後か。はたまた一年。あるいはこのまま一生目覚めないかもしれない。
夏油は、呆然と立ち尽くした。
◇
事故から一か月が経った。
あれから学生たちは学校が始まり、いつもの日常を過ごしている。真希と真依の誕生日が過ぎ、夏油の誕生日も過ぎた。夏油夫妻の葬式も終わった。
影男の入院先は夏油の自宅から近い大病院に移った。五条によれば、飲酒運転をした男の体内に何者かの残穢が微量に残っていたという。その残穢を現場と照らし合わせて探ったが、足取りはつかめなかったとのこと。
相手は間違いなく手練れだ。五条は人に取り憑くタイプの呪霊だと推測している。それも高知能の。少なくとも彼が残穢の特徴を覚えた。今後何かしらの進展があることを待つしかない。
これは偶発的なものだったのだろうか? それとも必然的なものだったのだろうか? 五条は夏油を脅すようなマネをしていた件を含め上層部に問いただしたが、我々は知らぬ、で通された。
ただでさえ上層部はクソだと思っていた五条は、「コイツら全員消すか?」と呪詛師メーターを高めた。言わずもがな夏油も上がっている。家入も上がった。
「おーおーコイツ、お姉さんを前にして照れちゃってんじゃん」と思っていた子どもが、組み立てる前のプラモデルのようにさまざまな機械に繋がれてどうにか生きている姿を見せられたら、そりゃあ呪詛師ってしまうものだった。
反転術式を脳に使うのは現状だと難しいため、意識を回復させてやることはできなかった。
病室に面会に来た真希と真依は、眠る影男に世間話をした。真希は正月、実家に帰って早々に絡んできたドブカスの話をしたり、誕生日をまだ祝ってもらってねぇぞ、と愚痴った。
真依は姉と作った千羽鶴を病室に飾った。手術の際に刈られた頭はすっかり短くなり、惜しげもなくカッコいい顔を晒している。
「モブくん、モブくん……。痛かったよね、つらかったよね………」
「……真依」
「モブくんは不器用で、優しいんだよ。他人のことは治せるのに、自分のことは治せないんだからっ……!!」
「………」
「うっ、ふえっ……」
「バカ、泣くんじゃ……ねぇよぉ…!」
ついには大声で真依が泣き出し、真希もメガネを外して何度も涙を拭う。
騒がしくなった病室に気づいたナースが、あらあら、とやって来る。それから夏油もやって来た。手におしるこを二つ持っている。
「これ、飲みなよ。少しは落ち着くよ?」
「のみっ……ます…!!」
「……おしるこかよ」
大丈夫そうだと判断したナースは部屋を出て行った。甘くて温かいものを飲んだおかげか、二人は少しホッとする。手から伝わる熱さが、心臓の方から広がる熱と押し合っているようだ。
「影男くんは、いつになったら起きるんですか?」
「……まだわからないんだ」
「………殴れば起きるか?」
「本気でやめてね、真希ちゃん」
冗談だよ──と言って、真希はまたおしるこを啜る。
「そう言えば、二人に渡しておこうと思ってさ」
夏油はバッグから包装された長方形の物体を二つ取り出す。中から聞こえた音で、二人はそれが何かわかった。ピンクの方が真依で、青い方が真希。影男が用意していた誕生日プレゼントだと知った二人は唇を噛みしめる。また瞳が潤み始めた。
「私が渡すべきじゃなかったのかもしれないけど……」
「ううん。ありがとう、夏油さん」
「………ありがと」
二人が見た鉛筆の柄は、やっぱりダサかった。
◇
カレンダーが一枚、二枚と破られる。桜の季節がやって来た。窓を開けるとカーテンの透けた先に青空が見える。
鳥も花も、虫も人も。温かい陽気のせいで浮き足立っている。中には頭までお花畑になった人間が奇行に走っている。
影男は相変わらず眠っていた。夏油は影男の顔を見ながら、時折外へ視線を向けて話す。
真希たちは小学三年生になった。五条は上層部へ完全に見切りをつけ、自分なりの改革方法を考え教員の道を選んだ。家入は医師免許をズルして取ろうとしている。
時は流れるが、夏油の心は冬で止まったままだった。来月が来たら影男の誕生日になる。8歳から9歳になるのだ。
「真希ちゃんと真依ちゃんはお返しのプレゼントを考えていたよ。私も何にしようか考えているんだ」
夏油はベッドに投げ出された手を握り、頭を撫でてやった。その手があまりにも小さく、細いせいで、呼吸がしにくくなる。
「もう成人したのに…情けないね。本当に、本当に自分が情けないよ……」
言葉が震えた。影男の手を握っている方とは反対の手で涙を拭う。夏油の中で渦巻くのは何もできない己の無力感と、激しい怒りや憎悪である。
上層部の連中を殺すことはできる。彼は特級術師だ。
しかし同じ考えに五条がいたった時、夏油は止めた。彼が止める側で、五条が止められる側だった。
「力ですべて解決したとしても、そこに残るのはきっと不毛の地だ。それに私が人を殺したら、誰より傷つくのが君だろうからね」
容易に想像できる。影男は夏油がそうなったのは、自分のせいだ、と思い込む。抱え込んだ苦しみは外側へぶつけることもできず、内側へと仕舞い込もうとして、最後は溢れて幼い子どもの心は粉々になる。
「みんな君と話したいことがたくさんある。だから…どうか」
早く、目覚めておくれ。
少年の目尻からあふれた涙が流れて耳の裏を通り、シーツに染み込んだ。
◇
影男は真っ白な空間で胎児のように丸まっていた。何も身に纏っていないその肌と白い色が混ざり合い、そのまま溶けてしまいそうだった。影男の腕の中には黒い頭があり、その下に人間の体がつながっている。大きさは二つとも同じだ。
それは、彼自身の心である。影男はその心が爆発しないように、強く抱きしめている。でなければ、今すぐに力が暴走してしまうからだ。
(僕は、どうしてこんなに苦しいんだろう?)
なぜ自分が今の状況になったのか思い出せない。唯一思い出せるのは吐く息が白かったことと、手がとても冷たかったことだ。
ずっと横たわっていると、時折何かが聞こえてくる。それは水の外から聞こえてくるような、ひどくあやふやなものである。目を開ければそこに何があるのかわかるかもしれないが、影男は目を開けない。瞼の暗闇が落ち着くのだ。
声は次第に、だんだんとクリアになってくる。何か言葉を発しているのだと分かると、次は声の違いがわかるようになった。大人だったり子どもだったり、女だったり男だったり。
彼らは何かを話している。その言葉が何を言っているのか、影男にはわからない。
声が無視できないほどに大きくなってきた。影男は自分の心を強く抱きしめる。目も強く瞑った。
声は気になる。それこそ今すぐに目を開けて、そこに誰がいるのか確認したい。しかし開けない。のりでくっ付いたようにピッタリと瞼は動かない。
なぜ頑なに目を開けないかと問われれば、理由は怖いからだった。好奇心以上に恐怖がある。開けたら最後、恐ろしい光景が見えてしまうかもしれない。ゆえに目を瞑る。
小さな体が震えた。影男は嗚咽を漏らし、自分の心を抱きしめる。
(おばさん、おじさん……)
どれほど揺すっても目覚めなかった。体を治したものの、空いた目は虚で、そこに影男が必死に呼び戻そうとしていたものが宿ることはなかった。二人は影男ではなく、どこか遠くを見つめていた。
(僕はもう、このままでいい…)
外は辛いことばかりで儘ならない。ならばこのまま消えていった方がいい。そうすれば、影男のせいで傷つく人も生まれずに済む。
『早く、目覚めておくれ』
その声は朝のアラームのような声だった。
今まで理解できなかった言葉がそれを機にわかるようになった。どれも聞き覚えのある声で、誰もが影男の知り合いだった。
それでも、聞かん坊のように目は開けない。
それからまたもう少し過ぎたある日。誰かが自分の頭を撫でているのが分かった。心を抱きしめている片方の手に、大きな手が握られる。影男くん、と呼んでいる。優しい声で呼んでいる。
(いやだ、いやだいやだいやだ……!)
影男は何もできなかった。夏油の両親を救うこともできなかった。
きっと二人が死んだのは自分のせいで、両親が死んだのも自分のせいだ。影男が力で他人を傷つけたから、神様が怒って影男が大切に思ったものを奪ってしまったのだ。
なら、いつか夏油のことも死なせてしまう。真希や真依、その他の人たちも影男が大切に思ったせいで死んでいく。
────僕なんか、死んじゃえばいいんだ。
直後、大きな衝撃が起きた。驚き、目を開けたそこにあったのは、存在するはずの白い空間ではなく、ぶつぶつの入った天井だった。消毒液のような独特なにおいもする。
何が起きたのかわからない影男は、無意識に自分の頬に触れた。触るとジンジンと痛む。
「……自分が、死ねばいいだって?」
「えっ?」
「もういっぺん言ってみろッ!!!」
影男の病院服の胸ぐらを掴んでいるのは夏油で、その目から次々と涙が溢れてくる。状況を理解できない影男は「夏油さん…?」と尋ね、何度も目を瞬いた。
息の荒かった向こうは、次の瞬間顔を真っ青にする。襟首を離されると軽い体がポンと跳ね、ベッドに転がった。咳こむ影男を見て、もはやウォーキングデッドじゃないかと見紛うほどにゲトーズブラッドが消える。
「す、すまなっ…」
「…あ、いえ、大丈夫です」
側にあった椅子に座り込んだ夏油は、じっとフローリングを見つめてから徐に立ち上がる。医者を呼んでくるのだろう。
「自首してくる」
「待って夏油さん!!!!」と、影男の大声が病室に響いた。