茂山影男   作:ピンチャンよ永遠なれ………

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4話 青春蜻蛉

 ────「セイシュンカゲロウ」

 

 または、「あおはるとんぼ」

 

 


 

 

 夏油の一日は、日の出前のランニングから始まる。呪術師でない今も肉体作りは欠かさず行っており、入念に準備運動をしてから薄明るい道を10kmほど走る。同じようにランニングする男や犬の散歩をする老人を颯爽と抜き去り、一汗かいた後はシャワーを浴びる。

 

 次は家事だ。洗濯に朝食作り。このあたりで影男が寝癖のひどい姿で起きてくる。

 

 朝が弱いのか、影男はリビングのソファーで口を半開きにしたまま二度寝する。そして目が覚めたら顔を洗いに行き、服を着替える。

 

 

 高専時代に夏油はほとんど自炊をしなかった。自分で作らなくとも頼めば寮で食事が出た。呪霊操術で呪霊を球体にして飲み込んでいた頃は、その吐瀉物を処理した雑巾のような味のせいで、食べることの喜びが希薄になっていた。クソまずいものを食べすぎて味覚がおかしくなっていたのかもしれない。

 

 それから距離を置いて、さまざまな場所の食べ物を口にした。味覚が刺激され、喉を通り胃にたどり着いた時、美味さがじんわりと腹の中から広がった。

 

 

「このスクランブルエッグ美味しいですね」

 

「……本当はね、目玉焼きにしたかったんだ」

 

 アッ、みたいな顔をした影男は何かフォローすべきか迷ったが、上手い言葉が見つからない。開いたお口にはその代わりにズゾゾッと味噌汁が入る。

 

 家の台所にはレシピ本や調理器具が増えた。子供の栄養や毎食のメニューを考えるたび、夏油は世の中の母親に尊敬の念を募らせている。最近は電話で母に感謝の言葉を伝えた。

 

「…僕も何か手伝わなきゃいけないのに」

 

「気にしなくていい。子供は食べて遊んで勉強して、寝ればいいんだ」

 

「夏油さんもまだ未成年じゃないですか」

 

「ほとんど大人みたいなものだよ」

 

 酒もタバコもすでに経験しているし、とは言わなかった夏油。影男の情操教育に悪そうなことは控えている。

 

 

 

 それから学校に行く影男を見送り、家事の続きや、勉強に、トレーニング。それらの合間に手抜きの昼食を挟みながら夕食を考える。

 

 影男が帰って来て宿題が終わったら、一緒に買い物に行き、夕食の時間だ。影男は洗濯物を畳んだり、風呂のボタンを押して湯を張ったりと、危険度の少ないミッションが与えられる。

 

 両手を合わせて「いただきます」。どんな料理でも基本的に美味しそうに頬張る影男の食いっぷりはいい。ただその割に少食である。

 

「今日は何か楽しいことはあったかい?」

 

「うーん……体育の授業で空を見たときに、ドーナツの形をした雲が浮かんでたことかな」

 

 学校での出来事を聞いたりして、夕食が終わったら影男が風呂に入っている間に皿洗いを済ます。風呂場からはよく鼻歌が聞こえてくるのだが、浴室に反響するその歌はアマチュアのロボットダンスのような素っ頓狂さがある。愛嬌のある音痴と言うべきか。

 

 

 その後は自由時間を過ごしたり、またトレーニングしたり。9時にはベッドで朝までぐっすり眠る影男に「おやすみ」と告げて、夏油も長い髪を乾かしたら眠りに落ちる。

 

 心地いい疲れが全身にゆっくりとのしかかって、そのまま夢の世界に誘われる。

 

 眠りに落ちる前に夏油はふと、自分が母親のような、父親のような、兄のような。全部混ぜられてできあがった、超生命体になっていることに気づいた。

 

「ねっむ……」

 

 一瞬よぎった思考は、すぐに思考の外へと流れていった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 影男は授業参観以来、二度目の集中砲火に遭っていた。謎の塩顔イケメンが影男の保護者だと知った女子たちがこぞって押し寄せたのだ。

 

「あの人が影男くんが言ってた親戚のお兄さん!?」「すっごいカッコイイね!!」「影男くんと親戚なのに全然似てない!!」──などなど。子供らしい無邪気さと残酷さの表裏一体な質問責めが彼を襲う。

 

 女の子に囲まれてちょっと浮かれていた気持ちが奈落の底に突き落とされた。うら若き淑女諸君は笑顔で手榴弾を投げてくださる。影男だって、イケメンに生まれたかった。

 

 この騒ぎもまた、一週間も経たない頃には沈静化した。相変わらず影男の友達はメダカのキンちゃんである。

 

 

 

 

 

 それから時期はゴールデンウィークとなった。5月には他に家庭訪問もある。もうすぐ夏ということもあり、影男には一つの難題が待ち構えている。

 

 

 ────そう、プールである。

 

 

 GWの旅行の場所は沖縄に行こう、という話になっていた。真依と真希も予定を合わせて一緒に行くことになっている。美々子と菜々子も誘われたが、「パンダと正道が行けないから…」と断った。

 

 旅行の準備は着々と進み、影男は夏油同伴の下、禪院姉妹とともに水着を買うことになった。真希は「学校のでよくね?」と話していたが、真依がそれを許すはずがない。

 

 服屋に着くと、夏油は目が届く範囲で三人から離れた。美々子と菜々子の件が以前にあったからである。

 

 

 真希が適当に選んだのは黒の上下一体型のタイプで、下がスカートになっているもの。真依が熟考して選んだのは上と下がセパレートの、フリルの入った清楚なデザインの水着だった。それぞれ麦わら帽子も買った。堂々と試着姿を見せた真希に対し、真依は10分ほど渋ったため、無理やり姉にカーテンを開けられた。

 

「すごく似合ってると思います」

 

「だってよ、恥ずかしがり屋の真依チャン」

 

「……ッ! 〜〜ッッ!!」

 

 カーテンをさっと閉めた真依の顔は茹で上がったタコのようだった。

 

 最後は影男の番で、彼もまた水着選びに苦戦していた。“大人っぽい”を意識した水着は謎のキャラクターが入っており、控えめに言ってもダサい。

 

 

「影男くん、あなたふざけてるの? 私たちが行くのは沖縄なのよ? 青い海に白い砂浜。そんな場所でその格好を晒してみなさい。発生した台風だってあさっての方向に逃げて行くわよ」

 

「………ハイ」

 

「私と真希が選ぶわ。異論は?」

 

「……ないです」

 

 

 結局真依が中心になって影男の水着を選び、派手すぎない柄の入ったサーフパンツと、パーカー型のラッシュガードを買うことになった。ついでにゴーグルや学校のプールで使う帽子や水着、タオルにバッグなども購入した。もちろん浮き輪も。夏油がいなくても姉妹がいるおかげで影男は買い忘れることがなかった。

 

 三人が夏油と合流すると、向こうもまた水着を買ったらしく紙袋を持っていた。

 

 

 さて、沖縄に行ったら早速影男にはミッションが待っている。

 

 真希ティーチャーによる泳ぎの指導が始まった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

「マッジで全然泳げねぇな、お前」

 

「すみません……」

 

 水泳帽をつけて、泳ぎの練習をする影男の姿がある。彼の手を引くようにして真希は透明度の高い水の中を泳いだ。観光客の数はさすがに多く、真依の方は泳いだり夏油を埋葬したりと忙しそうだ。

 

「だからぁ、下半身を浮かすようにしてバタ足すんだよ」

 

ぶくぶくぶくっ(すみましぇん)

 

 呪力が多くなる代わりに運動能力がなくなる天与呪縛でもあるんじゃなかろうかと、真希は思った。一時間ほど練習したが、一向に上達の気配はない。

 

 そろそろお昼のため、二人は海から上がった。水泳帽を取って頭を犬のように振る影男の顔を、真希はまじまじと見つめる。

 

「お前ってさぁ……前髪切らねぇの?」

 

「前髪?」

 

「傑の前髪みたいに、何か譲れないポリシーがあるんだったら別にいいんだけどよ」

 

「ポリシーとかはない…かな?」

 

「ふーん」

 

 ボサボサな影男の前髪を上げたり下げたりと真希は繰り返す。何か思いついた彼女は自分の髪を解き、ゴムで影男の前髪を縛った。ぴょこんと短いしっぽが上に持ち上がる。

 

「その顔で真依んトコ行こーぜ!」

 

「なんかすごく変な感じがするんだけど…」

 

 真希に腕を引かれた影男は、真依にせっせと埋められている夏油を目撃する。顔の部分には真希の麦わら帽子が乗せられていた。何やってんだ、と真希は呆れた声を漏らす。

 

 真剣な表情の真依は何十年と腕を磨いた職人の顔つきだった。興味本位で始めたら、想像以上に熱中してしまったようだ。

 

 

「あっ、もう終わったの? 影男く……」

 

「どうだ真依、この髪型可愛いだろ?」

 

「………べ、別にぃ」

 

「もう下ろしていい? やっぱりなんか気持ち悪い」

 

 

「ねぇ、何の話?」──と、埋もれている夏油から声がかかった。真希は自分の麦わら帽子を回収し、影男のちょんまげを手で動かしてみせる。

 夏油の目が一瞬丸くなる。次の瞬間には緩んでいたゴムが解け、ボサボサの前髪が降りた。

 

 影男は能力を使って夏油を救出し、四人は海の側の店で焼きそばを食べた。その時も時折、夏油の視線が影男の前髪に向かっていた。

 

 禪院家の血は確かに流れているのかと、口元に傷のある男に似た顔つきになった影男の顔を見て、夏油は思ったのだった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 影男が泳ぎをマスターできないまま、旅行最終日になった。最後の海をめいいっぱい楽しむ姉妹と対照的に、疲れ果てた影男は夏油の隣に座った。

 

 ビーチパラソルの下は快適というわけではないが、幾分かは暑さが和らぐ。ここ数日で焼けた影男を見て、夏油は笑う。少女たちの方は日焼け止めを怠らなかった。

 

「また来たいかい、モブくん?」

 

「……はい」

 

 真希が親身に協力してくれたのに泳げなかったが、みんなで来た沖縄は楽しかった。

 

 浜辺を走って転んだり、ボールを飛ばそうとして空振りしたり、いいところは少なかった。

 しかし、みんなで笑って過ごしたこの思い出は、しっかりと影男の心に刻まれた。だから少し寂しくも思うのだ。

 

「夏油さんはあまり参加しなかったですね」

 

「まぁ、私はみんなの保護者的立場だから」

 

「泳がないんですか?」

 

「泳げるけど、いいかな」

 

「海をあんなに眺めてたのに?」

 

「……あぁ」

 

「せっかく来たんだから、泳ぎましょうよ」

 

 影男は腕を引っ張ってみたが、夏油は動かない。パラソルの下に出たのは指の先だけだ。ここを出たら暑いが、同時に熱狂する海が待っている。影男は夏油ともっと思い出を作りたい。

 

 

「泳ぎたくないんだ」

 

「焼けるからですか?」

 

「泳ぎたくないんだよ、影男くん」

 

「……じゃあ僕も帰るまでここにいます」

 

「ダメだ。君はもっと楽しんで来なくちゃ」

 

「夏油さんは楽しめてるんですか?」

 

「………」

 

「一歩だけ、出てみませんか?」

 

 もう一度、影男が手を引っ張った。のっそりと立ち上がった夏油は、酔っ払いのように少しふらついて、転ばないようにしっかりと地面を踏み直す。

 

 砂は燃えるように熱かった。だらりと流れたその汗はしかし、本当に暑さから来たのか。日を手で遮るようにして、夏油はビーチパラソルの外に出た。元々香っていた海の匂いが、さらに増した気がする。

 

 

「……海は青いね」

 

「あとしょっぱいです」

 

「ハハッ、そうか! …そうだね、少し泳いでみようかな」

 

 

 大きな足跡と、小さな足跡が遠ざかっていく。

 

 

 夏油の目に映ったのは海を楽しむ幼子たちの姿か。────それとも。

 

 

 


 

【ナマコさんに失礼やぞ】

 

「真依見ろ、ナマコだ!」

 

「いやぁ──っ!! その醜悪な生物を私に近づけないで!!」

 

「……モブ」

 

「う……!! ………っ!!!」

 

 生理的に無理な真依。意外と可愛いなと思っている真希。手にナマコを乗せられて固まった影男。

 

 

「くくっ……」

 

 それと、一連の光景がツボってしまった夏油。

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