ヤンデレ短編1   作:空田空

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私の手は、もはや震えていなかった。

彼の頬を包む私の指先は、絶対的な確信と、これから始まる聖なる儀式への静かな興奮で、むしろ温かいくらいだった。

 

目の前にあるのは、私の愛する千影の肉体。そして、その中に潜む、未知の病巣。

ならば、私がすべきことは一つ。

外科医が患者の体から腫瘍を摘出するように、私もまた、彼の魂から異物を切り離すのだ。

 

「大丈夫、千影。痛くしないから」

 

私は、彼の上に跨ったまま、囁いた。その声は、自分でも驚くほど穏やかで、優しかった。恐怖に歪む子供をあやす母親のように。

 

彼の瞳は、まだ空虚なまま、私を見つめ返している。そのガラス玉のような瞳の奥で、寄生虫が最後の抵抗を試みているのかもしれない。だが、もう遅い。この肉体の主導権は、完全に私が握ったのだから。

 

私は、彼の衣服をゆっくりと、一枚一枚剥がしていく。それは猥褻な行為などでは断じてない。神に捧げられる生贄を清める神官のように、敬虔で、厳かな儀式の一環だ。やがて現れた、彼の白い肌。そのあまりの美しさに、私は嘆息した。この完璧な器を、汚れた病巣が内側から蝕んでいたという事実が、改めて許しがたい冒涜に思えた。

 

「どこに隠れているの…?」

 

私は、彼の胸にそっと耳を当てた。トクン、トクン、と響く、規則正しい心音。これは、私の千影の音だ。だが、その奥に、もっと不規則で、不快な何かの律動が感じられるような気がした。

 

「ここね…」

 

私は確信し、顔を上げた。

そして、部屋の隅に転がっていた、あのブリキの箱に目をやる。

違う。道具は、あれではない。あんな錆びついた過去の遺物で、彼の聖なる肉体を傷つけるわけにはいかない。

 

私の視線は、部屋の隅に置かれた、私たちの荷物を捉えた。その中に、私がこの旅のために用意したものが、ある。

 

私は彼から一旦離れ、鞄の中からそれを取り出した。

それは、私がかつて、生物の標本を作るために使っていた、小さな解剖用のメスだった。美しく磨き上げられた、銀色の刃。それは、ペーパーナイフのような間に合わせの道具ではなく、生命を切り開くためだけに存在する、純粋な機能美の結晶。

 

これこそが、私たちの愛を完成させるための、聖なる祭具だ。

 

メスを手に、私は再び彼の元へと戻った。

彼は、まだ畳の上に横たわったまま、身動き一つしない。ただ、その視線だけが、私の手の中のメスに釘付けになっていた。彼の瞳に、初めて明確な感情が宿った。それは、恐怖だった。

 

ああ、そうだ。それでいい。

彼の中に巣食う寄生虫が、ついに私の愛の形を理解し、その存在を脅かされているのだ。

 

「怖がらなくていいのよ、千影」

私は、彼の髪を優しく撫でた。

「これは、あなたを傷つけるためのものじゃない。あなたを、救うためのものだから」

 

私は、メスの冷たい刃先を、彼の左胸、心臓の真上に、そっと触れさせた。

ぴり、と走る緊張。彼の肌から、小さな血の玉が、赤い宝石のように滲み出る。

 

その瞬間、それまで人形のように動かなかった彼が、初めて抵抗らしい反応を見せた。

「やめ…」

その声は、か細く、掠れていた。

「それだけは…やめてくれ…」

 

「どうして?」

私は、純粋な疑問として尋ねた。

「お前は、この肉体を捨てて、私と一つになりたかったのだろう? それとも、それは、お前の言葉ではなかったのか? 私を騙すための、寄生虫の嘘だったのか?」

 

「違う…!」

彼は、首を必死に横に振った。

「箱を…箱さえ開ければ、全てが…」

 

「まだ言うか、その戯言を!」

私は、彼の抵抗に苛立ち、メスを持つ手に力を込めた。

「その箱は、お前を蝕む病そのものだ! 鍵など、最初から存在しない! お前が作り出した幻覚に過ぎない!」

 

「あるんだ! 鍵は…あの崖の…約束の場所に…!」

 

約束の場所?

その言葉に、私の動きが一瞬だけ止まる。

だが、すぐに首を振った。駄目だ、惑わされてはいけない。これは、寄生虫が生き延びるために吐いている、最後の嘘だ。彼の意識を、この部屋から、私の愛から、逸らそうとするための、卑劣な罠だ。

 

「もう、お前の嘘には付き合わない」

私は、彼に最後通告を突きつけた。

「お前が大人しく消えるか、それとも、私がこの手で、お前を心臓ごと抉り出だすか。選びなさい」

 

メスの刃が、さらに深く、彼の皮膚に食い込んでいく。

彼の顔が、絶望に歪む。その瞳から、大粒の涙が零れ落ち、白い頬を伝った。

 

その涙を見た瞬間、私の心は、歓喜に打ち震えた。

ああ、なんて美しいのだろう。

私の愛によって、彼が浄化されていく。彼の内なる不純物が、涙となって流れ出ていく。

 

「そうよ、千影…それでいいの…」

私は、恍惚として囁いた。

「全部、出してしまいなさい。そうすれば、あなたはまた、私の知っている、あの美しくて純粋なあなたに戻れるのだから」

 

私は、彼の涙を、自分の舌でそっと拭った。

それは、ほんのりと塩辛く、そして、この世のどんな蜜よりも甘美な味がした。

 

さあ、儀式は最終段階へ。

この聖なる刃が、私たちの愛を永遠のものにする。

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