ヤンデレ短編1   作:空田空

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医学書を閉じた私は、書斎の奥にある、決して開けることのなかった古い木箱に手をかけた。中に入っているのは、かつて植物学者であった祖母が世界中から集めた、様々な薬草や種子。その一つ一つに、効能と、そして毒性が記された札が添えられている。

 

私はその中から、数種類の乾いた葉と根を慎重に選び出した。人の意識を夢幻に誘うもの。記憶の繋がりを緩やかに解きほぐすもの。そして、心を穏やかな凪へと導くもの。これらを完璧な比率で調合すれば、それは薬となり、愛となる。

 

私はそれを『忘却の雫』と名付けた。

 

翌日の午後、私はその特別な茶葉で紅茶を淹れた。琥珀色の液体が、美しい陶器のカップの中で湯気を立てる。千影が好きな、ベルガモットの香りを強く焚きしめて、本来の薬草の匂いを隠す。

 

「千影、お茶の時間だよ」

 

書棚をぼんやりと眺めていた彼が、ゆっくりと振り返る。ここ数日、彼の思考は少しずつ輪郭を失い、霧の中を彷徨っているようだった。それは「姉」という不純物が彼の内で起こした、魂の拒絶反応なのだと私は解釈した。

 

「ありがとう」

 

彼は素直にカップを受け取り、一口含む。

私は、彼の表情の微細な変化も見逃すまいと、じっと彼を見つめた。神の御業を待つ、敬虔な信徒のように。

 

「……なんだか、とても落ち着く」

彼はそう言って、ふわりと微笑んだ。成功だ。忘却の雫は、彼の魂に優しく受け入れられた。

 

それから、私たちの時間はさらに密度を増し、そして静かになった。

千影は眠っている時間が増えた。起きている時も、以前のように難しい哲学書を熱心に読むことはなくなり、ただ窓辺に座って、移ろう雲の形を一日中目で追っていることが多くなった。

 

私はその変化を、愛おしく見守っていた。

雑多な知識や、汚れた過去の記憶から解放され、彼の魂が純粋な白に還っていく。それは、色鮮やかな花がやがて枯れて土に還り、新たな命の礎となる様に似て、宇宙の摂理に則った、この上なく美しい過程だった。

 

ある夜、私の腕の中で眠りかけていた彼が、不意に口を開いた。

「ねえ…」

「どうしたんだい、千影」

「これで…自由になれるのかな」

 

その言葉に、私の心臓は歓喜に打ち震えた。

ああ、彼はついに理解し始めたのだ。私が与えようとしているこの静寂こそが、彼をあらゆる苦悩から解き放つ、絶対的な自由なのだと。

 

「そうだよ、千影。君はもうすぐ、本当の自由を手に入れる」

 

私は彼の額に口づけ、その時が来たことを確信した。浄化の儀式は、最終段階へと進む。

 

私は、彼が以前読んでいた哲学書を手に取り、何気ないふりをしてページをめくった。

 

「この間、ブックカフェの話をしていただろう?君のお姉さんと行ったという」

 

私は、彼の反応を窺った。もし彼の内に、まだあの女の幻影が巣食っているのなら、その瞳に何らかの感情が灯るはずだ。

 

千影は、私の言葉を聞いて、小さく首を傾げた。その瞳は、静かな湖面のようで、何の波紋も立っていない。

 

「…お姉さん…?」

彼は、まるで知らない単語を聞いたかのように、不思議そうな顔で私を見つめた。

「誰のことだい…?」

 

その瞬間、私は神になった。

私の愛が、彼の世界を創り変えたのだ。不純な過去は消え去り、彼の歴史は白紙になった。これから、この紙に物語を書き込めるのは、世界でただ一人、私だけ。

 

私は歓喜のあまり、彼の華奢な体を強く抱きしめた。

 

「そうか…忘れてしまったんだね。いいんだ、それでいいんだよ。思い出す必要のないことだから」

 

彼は、私の腕の中でこくりと頷いた。その素直さが、私の胸を締め付ける。

 

ああ、千影。空っぽになった君の瞳は、どんな星空よりも美しい。

君という名の器から、私以外のすべてが零れ落ちていく。

もうすぐだ。もうすぐ、この器が私の愛だけで満たされる。

 

そしてその時こそ、二人が永遠に一つになる、甘美な祝宴の始まりなのだ。

 

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