白紙になった千影の世界に、私が新しい物語を書き込む日々は、至上の幸福だった。
私は彼に、私たちがどのようにして出会い、永遠の愛を誓ったのかを語って聞かせた。それは、私が創り上げた、二人だけのための神話。その物語の中で、私たちは世界の始まりから結ばれており、「姉」や「友人」といった不純な存在は、最初からどこにもいなかった。
千影は、まるで乾いた大地が雨を吸い込むように、私の言葉を、私の世界を、その魂に吸収していった。彼の瞳はもはや空っぽではなかった。そこには、ただひたすらに私だけを映す、純粋な光が宿っていた。彼は、私の最高傑作だった。
その日、私は彼のお気に入りの一節を読んでいた。それは、個体という悲劇について論じた哲学書の一節だ。
「『肉体は魂の牢獄であるばかりか、魂と魂を隔てる絶望的な壁でもある』…」私がそこまで読んだ時、それまで黙って聞いていた千影が、ふと顔を上げた。
その瞳には、以前のぼんやりとした光ではなく、鋭いほどの知性が宿っているように見えた。
「じゃあ、この心臓の音も、一つになればいいのにね」
彼の言葉は、静かな水面に投じられた石のように、私の心に波紋を広げた。
私は息を呑んだ。彼は、私の哲学を、私の渇望を、完璧に理解していた。それどころか、私が辿り着くべき結論を、私よりも先に見通しているかのようだった。
歓喜と、そして説明のつかない微かな恐怖が、私の背筋を駆け上がった。
私が愛を注ぎ続けた人形が、自らの意志で動き出し、私と同じ言葉を話し始めたのだ。
「千影…?」
「心臓は、命が別々であることの証明だ。君の音と、僕の音。二つあるから、寂しいんだ」
彼はそう言うと、おもむろに立ち上がり、書斎の机に置いてあったペーパーナイフを手に取った。その銀色の刃先を、彼は何の躊躇もなく、自らの左胸にそっと当てる。
「やめ…」
私が制止の声を上げるより早く、彼は首を横に振った。
「やめないよ。だって、君が望んでいることだろう?」
彼の唇が、恍惚とした笑みを形作る。それは、私が今まで見たどんな彼の表情よりも、官能的で、そして恐ろしかった。
「君は、僕の中から君以外の全てを消してくれた。過去も、思い出も、僕を汚していたノイズも、全部。だから今度は、僕が君に応える番だ」
彼は私の手を取り、そのペーパーナイフを握らせた。そして、ナイフの柄の上から、彼自身の指を重ねる。冷たい金属の感触と、彼の指の温もりが、私の掌で一つになった。
「境界線は、ここだ」
彼は、ナイフの先端を私の胸にも優しく触れさせた。
「この皮膚一枚を、この肋骨一枚を取り払えば、僕の心臓は君のものになり、君の心臓は僕のものになる。僕たちは、ようやく一つの命になれる」
私は、言葉を失って彼を見つめた。
私が描いていた計画。私が、彼に与えるはずだった、甘美な死という名の救済。
それを今、彼は自らの意志で、私に求めている。それも、私以上に純粋で、狂信的なほどの情熱を持って。
操っていたのは、私ではなかったのか。
求めていたのは、私だけではなかったのか。
彼の瞳の奥深くを覗き込む。そこにいるのは、私が創り上げた無垢な人形ではない。そこにいたのは、私と同じ、あるいはそれ以上に深い孤独を抱え、究極の結合を渇望する、もう一人の私自身だった。
彼が言った「これで自由になれるのかな」という言葉の意味が、今、全く違う響きを持って私の内側で反響する。彼は、記憶を失うことからではなく、この肉体という最後の檻から解放されることを、「自由」だと渇望していたのだ。
ペーパーナイフを握る私たちの手に、ゆっくりと力がこもっていく。
どちらからともなく。
ああ、そうか。
私は、彼を私の望む形に作り変えたのではなかった。
私は、彼が本来持っていた、その真の願望を、解き放ってしまっただけなのだ。
私と君は、いったいどちらが先に、この愛を渇望したのだろうか。
もう、そんなことはどうでもよかった。
答えは、すぐそこにあるのだから。