都会の夜は、光と音の洪水だった。私たちの聖域にあった静寂とは真逆の、無秩序な暴力。千影は私の腕にしがみつき、その細い体を小刻みに震わせていた。彼の純粋な魂が、この世界の汚濁に耐えかねて悲鳴を上げているのが、私には痛いほど伝わってきた。
「大丈夫、千影。私がいる」
私は彼を強く抱き寄せ、耳を塞ぐようにして路地裏へと駆け込んだ。追いかけてくるサイレンの音はまだ聞こえない。だが、時間の問題だろう。早苗という女が、警察という名の俗世の権力を手引きしたのだ。私たちは、この街から一刻も早く消えなければならない。
タクシーを拾うのは危険だ。すぐに足がつく。私たちは人混みに紛れ、最も遠くへ向かう夜行バスのターミナルを目指した。行き先はどこでもよかった。ただ、この場所から遠く、私たちの存在を知る者が誰もいない場所であれば。
バスの硬いシートに身を沈めると、安堵よりも先に、言いようのない疲労感が押し寄せてきた。千影は私の肩に頭を預け、すぐに浅い眠りに落ちた。その寝顔は、あの部屋で見ていた穏やかなものとは違い、どこか苦しげに歪んでいる。
私は鞄から『忘却の雫』の小瓶を取り出した。これを飲ませれば、彼はまた穏やかな夢の世界へ旅立てる。だが、今はその時ではない。逃避行には、最低限の体力と意識が必要だ。この薬は、私たちの新しい楽園を見つけた時に、最後の仕上げとして使えばいい。
バスの窓から、流れていく街の灯りを眺める。一つ一つの光の中に、人々の営みがある。食事をする家族、愛を囁き合う恋人たち、孤独に酒を飲む男。それら全てが、私にはひどく空虚で、無意味なものに思えた。彼らは、何のために生きているのだろう。有限の命を、刹那の快楽と苦痛の中で浪費し、やがては無に帰るだけの存在。
それに比べて、私たちの愛はどうだ。
私たちは、死を超越した永遠の結合を目指している。それは、彼らのような凡俗な人間には到底理解できない、崇高な哲学の実践だ。この逃避行は、そのための聖なる巡礼なのだ。
そう自分に言い聞かせながらも、私の心には、あの女、早苗の言葉が棘のように突き刺さっていた。
『あなた、この人に何をされたの!?』
何を、されたのか。
違う。私は、彼に何かをしたのではない。私は、彼が本来あるべき姿に戻る手助けをしただけだ。彼の魂が渇望していた静寂と純粋さを、私が与えただけなのだ。
だが、もし。
もし、私の知らない千影が、本当にいたとしたら?
私が消し去った記憶の中に、彼が「大切だ」と思っていたものが、本当にあったとしたら?
いや、そんなはずはない。
それは、早苗という不純物が私の心に植え付けようとしている、悪魔の囁きだ。私は、千影を誰よりも理解している。彼の魂の形を、その隅々まで知っている。
バスが、サービスエリアで停車した。深夜にもかかわらず、煌々と明かりが灯り、人々が自動販売機の前で缶コーヒーを啜っている。その光景が、ひどく現実離れして見えた。
「…喉、渇いた」
隣で、千影が目を覚ました。私は彼を連れてバスを降り、自販機でミネラルウォーターを二本買った。彼がペットボトルのキャップを上手く開けられないのを見て、私が代わりに開けてやる。その指先の不器用さが、彼の無垢さを証明しているようで、私の心を安堵させた。
「ありがとう」
そう言って水をごくりと飲む彼の横顔を、私は見つめた。
その時、彼の視線が、自販機の横に貼られた一枚のポスターに留まった。それは、行方不明者の情報を求める、警察のポスターだった。
そこに、見慣れた顔があった。
少し幼い、まだ私の知らない頃の、千影の顔写真。
そして、その下には彼の名前と年齢、そして「姉・早苗」という連絡先が記されていた。
私の心臓が、冷たく凍りついた。
千影は、そのポスターを、ただ不思議そうに見つめている。そこに写っているのが自分だとは、気づいていない。
「…この人、可哀想だね」
千影が、ぽつりと言った。
「お家に、帰れないのかな」
その言葉は、あまりにも純粋で、そして残酷だった。
彼は、自分の過去を「他人事」として憐れんでいるのだ。
「…そうだな。だが、もしかしたら、この人は帰りたくないのかもしれない」
私は、自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。
「今の場所が、その人にとっての本当の楽園なのかもしれない」
「楽園…」
千影が、その言葉を繰り返す。
「僕たちの、楽園…」
そうだ、千影。惑わされるな。
世界がお前を「行方不明者」と呼び、お前の過去を勝手に捏造しようとも、真実は一つしかない。お前の楽園は、私の隣にしかないのだ。
私は、彼の視線をポスターから引き剥がすように、その手を強く引いた。
「さあ、もう行こう。バスが出てしまう」
私たちは再びバスに乗り込み、闇の中へと走り出した。
だが、私の脳裏には、あのポスターが焼き付いて離れなかった。
世界が、私たちの存在を認めようとしない。
世界が、千影を私から奪い返そうとしている。
ならば、私たちは、世界そのものから消えるしかない。
物理的に、そして概念的にも。
誰の記憶にも残らない、完全な二人だけの世界へ。
逃避行の目的地が、この時、明確に定まった。
それは、ただの静かな場所ではない。
私たちが、誰にも邪魔されずに、永遠の眠りにつける場所。
甘美な死の舞台として、最もふさわしい場所を探さなければならない。