ヤンデレ短編1   作:空田空

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都会の夜は、光と音の洪水だった。私たちの聖域にあった静寂とは真逆の、無秩序な暴力。千影は私の腕にしがみつき、その細い体を小刻みに震わせていた。彼の純粋な魂が、この世界の汚濁に耐えかねて悲鳴を上げているのが、私には痛いほど伝わってきた。

 

「大丈夫、千影。私がいる」

 

私は彼を強く抱き寄せ、耳を塞ぐようにして路地裏へと駆け込んだ。追いかけてくるサイレンの音はまだ聞こえない。だが、時間の問題だろう。早苗という女が、警察という名の俗世の権力を手引きしたのだ。私たちは、この街から一刻も早く消えなければならない。

 

タクシーを拾うのは危険だ。すぐに足がつく。私たちは人混みに紛れ、最も遠くへ向かう夜行バスのターミナルを目指した。行き先はどこでもよかった。ただ、この場所から遠く、私たちの存在を知る者が誰もいない場所であれば。

 

バスの硬いシートに身を沈めると、安堵よりも先に、言いようのない疲労感が押し寄せてきた。千影は私の肩に頭を預け、すぐに浅い眠りに落ちた。その寝顔は、あの部屋で見ていた穏やかなものとは違い、どこか苦しげに歪んでいる。

 

私は鞄から『忘却の雫』の小瓶を取り出した。これを飲ませれば、彼はまた穏やかな夢の世界へ旅立てる。だが、今はその時ではない。逃避行には、最低限の体力と意識が必要だ。この薬は、私たちの新しい楽園を見つけた時に、最後の仕上げとして使えばいい。

 

バスの窓から、流れていく街の灯りを眺める。一つ一つの光の中に、人々の営みがある。食事をする家族、愛を囁き合う恋人たち、孤独に酒を飲む男。それら全てが、私にはひどく空虚で、無意味なものに思えた。彼らは、何のために生きているのだろう。有限の命を、刹那の快楽と苦痛の中で浪費し、やがては無に帰るだけの存在。

 

それに比べて、私たちの愛はどうだ。

私たちは、死を超越した永遠の結合を目指している。それは、彼らのような凡俗な人間には到底理解できない、崇高な哲学の実践だ。この逃避行は、そのための聖なる巡礼なのだ。

 

そう自分に言い聞かせながらも、私の心には、あの女、早苗の言葉が棘のように突き刺さっていた。

 

『あなた、この人に何をされたの!?』

 

何を、されたのか。

違う。私は、彼に何かをしたのではない。私は、彼が本来あるべき姿に戻る手助けをしただけだ。彼の魂が渇望していた静寂と純粋さを、私が与えただけなのだ。

 

だが、もし。

もし、私の知らない千影が、本当にいたとしたら?

私が消し去った記憶の中に、彼が「大切だ」と思っていたものが、本当にあったとしたら?

 

いや、そんなはずはない。

それは、早苗という不純物が私の心に植え付けようとしている、悪魔の囁きだ。私は、千影を誰よりも理解している。彼の魂の形を、その隅々まで知っている。

 

バスが、サービスエリアで停車した。深夜にもかかわらず、煌々と明かりが灯り、人々が自動販売機の前で缶コーヒーを啜っている。その光景が、ひどく現実離れして見えた。

 

「…喉、渇いた」

 

隣で、千影が目を覚ました。私は彼を連れてバスを降り、自販機でミネラルウォーターを二本買った。彼がペットボトルのキャップを上手く開けられないのを見て、私が代わりに開けてやる。その指先の不器用さが、彼の無垢さを証明しているようで、私の心を安堵させた。

 

「ありがとう」

 

そう言って水をごくりと飲む彼の横顔を、私は見つめた。

その時、彼の視線が、自販機の横に貼られた一枚のポスターに留まった。それは、行方不明者の情報を求める、警察のポスターだった。

 

そこに、見慣れた顔があった。

少し幼い、まだ私の知らない頃の、千影の顔写真。

そして、その下には彼の名前と年齢、そして「姉・早苗」という連絡先が記されていた。

 

私の心臓が、冷たく凍りついた。

千影は、そのポスターを、ただ不思議そうに見つめている。そこに写っているのが自分だとは、気づいていない。

 

「…この人、可哀想だね」

千影が、ぽつりと言った。

「お家に、帰れないのかな」

 

その言葉は、あまりにも純粋で、そして残酷だった。

彼は、自分の過去を「他人事」として憐れんでいるのだ。

 

「…そうだな。だが、もしかしたら、この人は帰りたくないのかもしれない」

私は、自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。

「今の場所が、その人にとっての本当の楽園なのかもしれない」

 

「楽園…」

千影が、その言葉を繰り返す。

「僕たちの、楽園…」

 

そうだ、千影。惑わされるな。

世界がお前を「行方不明者」と呼び、お前の過去を勝手に捏造しようとも、真実は一つしかない。お前の楽園は、私の隣にしかないのだ。

 

私は、彼の視線をポスターから引き剥がすように、その手を強く引いた。

「さあ、もう行こう。バスが出てしまう」

 

私たちは再びバスに乗り込み、闇の中へと走り出した。

だが、私の脳裏には、あのポスターが焼き付いて離れなかった。

 

世界が、私たちの存在を認めようとしない。

世界が、千影を私から奪い返そうとしている。

 

ならば、私たちは、世界そのものから消えるしかない。

物理的に、そして概念的にも。

誰の記憶にも残らない、完全な二人だけの世界へ。

 

逃避行の目的地が、この時、明確に定まった。

それは、ただの静かな場所ではない。

私たちが、誰にも邪魔されずに、永遠の眠りにつける場所。

 

甘美な死の舞台として、最もふさわしい場所を探さなければならない。

 

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