夜行バスは、夜明けと共に私たちを寂れた海辺の町に降ろした。空気は潮の匂いと、濃い霧を含んで湿っていた。まるで世界全体が、曖昧な輪郭の中に溶けてしまったかのような場所。ネオンの暴力的な光も、人々の喧騒もない。ここは、私たちのための場所だ。私は直感的にそう感じた。
「寒い…」
千影が私のコートの袖を掴む。私は彼を庇うように抱き寄せ、霧の向こうにかすかに見える、古い民宿の看板を目指して歩き出した。宿の主人は、ほとんど喋らない老婆で、私たちの事情を詮索するような野暮な真似はしなかった。ただ黙って、一番奥の、海に面した離れの部屋の鍵を渡してくれた。
部屋に入り、障子を開けると、すぐ目の前に灰色の海が広がっていた。絶え間なく寄せては返す波の音だけが、この世界の唯一の音だった。あの部屋の静寂とは違う、もっと根源的で、巨大な何かの胎動のような音。
「きれいだ…」
千影が、ガラス窓に額を寄せ、ぽつりと呟いた。彼の横顔は、この霧の風景に溶け込んでしまいそうなほど、儚く、そして美しかった。私は安堵していた。この場所は、彼の魂と共鳴している。私たちの最後の舞台として、これ以上ふさわしい場所はないだろう。
旅の疲れからか、私たちはその日、ほとんどの時間を眠って過ごした。外の世界から完全に隔絶された、二人だけの時間。私は千影を腕に抱き、彼の規則正しい寝息を聞きながら、これまでの出来事を反芻していた。早苗という女の顔、警察のポスター、逃亡の恐怖。それら全てが、この霧の向こうの、遠い世界の出来事のように思えた。
問題は、何もない。
私たちの愛は、試練を経てより強固になった。
ここで、私たちは完璧な死を迎え、永遠に一つになるのだ。
そう、信じていた。
その夜、千影が夢に魘(うな)されるまでは。
「…鍵は…」
隣で眠っていた彼が、苦しげに眉を寄せ、はっきりとした声でそう言った。私ははっとして身を起こす。
「千影?どうしたんだい?」
「…鍵は、水の中…箱を開けないと…」
彼の言葉は、明瞭な意味を持っていた。それは、忘却の雫によって思考が混濁した人間の、意味のないうわ言ではなかった。まるで、誰かに語りかけるように、何かを必死に伝えようとしているかのように。
箱? 水の中の鍵?
私の知らない言葉。私の知らない物語。
「…何の夢を見ているんだい?」
私は彼の肩を優しく揺さぶった。彼はうっすらと目を開けたが、その瞳は焦点を結んでおらず、まだ夢と現実の狭間を彷徨っていた。
「…思い出さないと…あの人が…」
あの人。
その言葉に、私の全身の血が凍りついた。
まさか、早苗のことか?忘却の雫の効果が、切れかかっているというのか?
いや、違う。彼の口調は、姉を思う弟のものではなかった。もっと切迫した、恐怖と、そして…使命感のようなものが滲んでいた。
翌朝、目を覚ました千影は、昨夜のうわ言のことなど何も覚えていなかった。彼はいつも通り、私の淹れた紅茶を飲み、私の言葉だけに静かに頷いていた。だが、私の中に生まれた疑念の種は、消えることなく、じっとりと根を張り始めていた。
私は、彼の全てを理解しているはずだった。
彼の魂は、私が書き込むための白紙のページだったはずだ。
それなのに、あの夢は何だ? 私の知らない物語が、その白紙の下に、まだ隠されているというのか?
その日の午後、私たちは二人で霧の中の海岸を散策した。千影は、波打ち際に打ち上げられた、奇妙な形の流木や、色褪せたガラスの破片を、子供のように拾い集めた。
「見て。宝石みたいだ」
彼が掌に乗せて見せてくれたのは、角が丸くなった青いガラス片だった。太陽の光を失った、鈍い輝き。
「そうだね。きれいだ」
私は微笑んでみせたが、心の中は冷たい霧で満たされていた。
彼の無邪気さ。彼の私への絶対的な信頼。それら全てが、もしかしたら、私が作り上げた幻想なのではないか。あるいは、もっと巧妙に仕組まれた、何か別のものの現れなのではないか。
考えすぎだ。薬の副作用が、彼の脳に無意味な残像を見せているだけだ。
私はそう結論付けようとした。だが、一度芽生えた疑いは、愛という名の養分を得て、さらに大きく育っていく。
この逃避行は、世界から逃げるためのものだった。
だが、今や私は、すぐ隣にいる、世界で最も愛する人間の中に潜む「未知」から、逃げようとしているのかもしれない。
私たちは、宿に戻った。
部屋の窓から見える海は、夕闇が迫り、さらに深い灰色に沈んでいた。
千影が、私の背中にそっと寄り添う。
「ずっと、ここにいようね」
その言葉に、私はただ頷くことしかできなかった。
この霧の涯(はて)で、私たちは本当に一つになれるのだろうか。
それとも、この場所は、私が今まで知らなかった、千影という名の、より深い謎への入り口に過ぎないのだろうか。
甘美な死の計画は、静かに、しかし確実に、予期せぬ亀裂を生み始めていた。