ヤンデレ短編1   作:空田空

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その日から、私は眠れなくなった。

千影が隣で穏やかな寝息を立てるほど、私の意識は覚醒し、彼の寝言に全神経を集中させていた。だが、彼はあの日以来、意味のある言葉を口にすることはなかった。それがかえって、私の不安を増幅させた。嵐の前の静けさのように、彼の無意識の深淵で、何かが静かに胎動している。そんな予感が、冷たい手のように私の心臓を掴んで離さなかった。

 

昼間、千影は変わらず無邪気だった。彼はこの霧の町を気に入ったようで、毎日私の手を引いて海岸を散歩した。波に洗われた奇妙な石を拾っては、その一つ一つに物語を付けて私に聞かせる。それは、私が彼に与えた「私と千影だけの神話」に連なる、愛らしく、そして他愛のない物語だった。

 

私は彼の言葉に微笑みで応えながら、彼の瞳の奥を、その魂の底を、必死に覗き込もうとしていた。

本当に、君は白紙なのか?

本当に、君は私の愛だけで満たされているのか?

 

疑いは、毒だ。一度体内に入り込めば、血流に乗って全身を巡り、思考のすべてを蝕んでいく。私は、自分の愛を信じられなくなり始めていた。それは、神が自らの創造物を疑うにも等しい、冒涜的な行為だった。

 

その衝動に駆られたのは、彼が離れの風呂へと向かった、ある日の夕暮れのことだった。一人部屋に残された私は、彼の脱ぎ捨てたコートが目に入った。それは、私があの家から逃げ出す際に、慌てて掴んできたものだ。

 

私は、まるで何かに憑かれたように、そのコートに近づいた。そして、震える手で、そのポケットに触れる。何もない。内ポケットにも、何もない。

 

馬鹿なことを。私は何を調べているのだ。

自嘲の笑みが漏れた、その時だった。指先が、コートの裏地の、僅かな膨らみに触れた。それは、巧妙に縫い合わされた、小さな隠しポケットだった。私が、今まで気づかなかった場所。

 

心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

私は爪で糸を必死に引きちぎり、そのポケットの中に指を入れた。

そこにあったのは、冷たく、硬い、一つの物体だった。

 

手のひらに取り出したそれを見て、私は息を呑んだ。

それは、手のひらサイズの、古びたブリキの小箱だった。表面には錆が浮き、鍵穴がついているが、その鍵はない。そして何より、それは、私のものではなかった。私が千影に与えた、どの記憶とも一致しない、完全な異物。

 

『箱を開けないと…』

 

彼の夢の中の言葉が、脳内で反響する。

この箱のことか。では、これは、私が彼と出会う前から、彼が持っていたもの? 私が彼の全てを浄化したはずの、あの儀式を潜り抜けて、今もここに存在している、過去の残骸?

 

全身から、血の気が引いていくのが分かった。

私の哲学が、足元から崩れていく。私は、彼を無垢な存在として「保護」したのではなかったのか。だが、この箱の存在は、彼が私と出会う前から、何かを「隠していた」ことを示唆している。彼は、私が思うような、ただ無防備で純粋な芸術品ではなかったのかもしれない。

 

私は箱を必死に振ってみた。カラカラと、中で何かが転がる、乾いた音がする。中身は何だ? 彼が隠していた秘密とは? そして、鍵はどこに?

 

『鍵は、水の中…』

 

再び、彼の言葉が蘇る。水の中? この海のどこかに、この箱を開ける鍵が沈んでいるとでもいうのか?

 

その時、背後で障子の開く音がした。

振り返ると、湯上がりで頬を上気させた千影が、不思議そうな顔で私を見ていた。その視線は、私の手の中にある、ブリキの箱に注がれている。

 

まずい。見られた。

 

私は咄嗟に箱を背後に隠そうとした。だが、遅かった。

千影の表情が変わった。

いつも私だけを映していた、穏やかで純粋な瞳から、すっと光が消えた。そこにあるのは、凪いだ湖面のような、感情の読めない、底なしの静寂。

 

それは、私が知らない千影の顔だった。

 

「…それ、見つけたんだ」

 

彼の声は、平坦で、何の抑揚もなかった。

それは問いかけではなく、事実の確認だった。

 

「千影、これは…」

私が何かを言い訳しようとするより早く、彼はゆっくりと私に近づいてきた。その足取りには、以前の儚さや、私に寄りかかるような弱々しさは微塵もなかった。

 

彼は私の目の前で立ち止まり、私の手から、まるで当然のようにその箱を取り上げた。そして、それを愛おしむように、指でそっと撫でる。

 

「探し物、得意なんだね」

彼は、ふっと笑った。それは、いつもの無垢な笑顔ではなかった。どこか嘲るような、全てを見透かしているかのような、薄ら寒い笑みだった。

 

「君は、僕の中からたくさんのものを消してくれた。…でも、これは消せなかったみたいだ」

 

私は、言葉を失って立ち尽くすしかなかった。

操っていたのは、私ではなかったのか。愛を注ぎ、世界を創り上げていたのは、私ではなかったのか。目の前にいるこの男は、一体、誰だ?

 

「鍵が、必要だね」

千影は箱を弄びながら、独り言のように呟いた。

「この霧の町を選んだのは、正解だったかもしれない。…あの崖に、近いから」

 

崖?

何の、話をしている?

 

私の混乱を置き去りにして、物語は、私の知らない場所で、勝手に進行し始めていた。

私は、この物語の作者ではなかった。私は、ただの登場人物の一人に過ぎなかったのだ。それも、最も愚かで、何も知らない、道化役の。

 

甘美な死の計画は、もはや滑稽な夢物語に過ぎなかった。

目の前にあるのは、愛の哲学などでは到底解き明かせない、底知れぬミステリーの入り口。

 

そして私は、その謎の中心にいる、最も愛したはずの男のことを、何一つ知らなかったのだと、ようやく悟った。

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