混乱? 恐怖?
いいえ、違う。それはほんの一瞬、私の思考を掠めた幻覚に過ぎなかった。
目の前にいる、この男。私の知らない顔で、私の知らない言葉を話すこの存在。
それは、私を混乱させるための敵ではない。
それは、私が愛する千影の中に巣食う、最後の「病」だ。
ああ、そうか。私は、なんて愚かだったのだろう。
忘却の雫で彼の記憶を洗い流し、彼の世界を白紙にしたつもりでいた。だが、病巣は、私が想像するよりも、ずっと深く彼の魂に根を張っていたのだ。このブリキの箱は、その病巣が産み出した、悪性の腫瘍。
私が彼を愛しているのなら、私が彼を救うと決めたのなら、やるべきことは一つしかない。
根こそぎ、摘出する。
彼の魂を蝕む最後の病魔を、この手で完全に消し去るのだ。
「それを、よこしなさい」
私の声は、絶対的な静寂と、燃えるような意志を帯びていた。もはやそこに、先程までの動揺はない。私は、私の愛を取り戻さなければならない。
千影の目が、私を捉えた。その底光りする瞳には、嘲りの色が浮かんでいる。
「嫌だと言ったら?」
「お前は、誰」
私は一歩、彼ににじり寄った。
「お前は、私の千影ではない。彼の中に潜り込み、彼を内側から蝕む寄生虫だ。違うかい?」
彼は、初めて心からの笑い声を上げた。それは、この霧の町で聞いた、どんな波の音よりも冷たい響きだった。
「面白いことを言う。君が僕の中から全てを消したんだろう? だから、最後に残ったのが、これだけだったんだよ」
「黙れ」
私は、彼の言葉が終わる前に、その手から箱を奪い取ろうと飛びかかった。だが、彼は驚くほど俊敏に身を翻し、私の腕を掴んだ。その力は、私が知っている、華奢で儚い千影のものではなかった。骨が軋むほどの力で、彼は私の動きを封じ込める。
「君には無理だよ」
彼の顔が、私の目の前に迫る。
「これは、君が僕と出会うよりも、ずっと深い場所にあるものだから。君のその浅薄な愛では、届かない」
浅薄な、愛だと?
その言葉が、私の理性の最後の糸を、焼き切った。
「ああああああああああああああああああッ!」
私は、獣のような叫び声を上げ、渾身の力で彼を突き飛ばした。不意を突かれた彼は体勢を崩し、畳の上に倒れ込む。ブリキの箱が、彼の力ない指から滑り落ち、甲高い音を立てて転がった。
私は、その箱には目もくれず、倒れた彼の上に跨った。
そして、その白い喉に、両手の指を食い込ませる。
「お前は誰だ…!私の可愛い、私の完璧な千影はどこへやった!返せ!彼を私に返しなさいッ!」
私の指に、力がこもる。
彼の顔が、苦痛に歪む。だが、その瞳の奥の、冷たい光は消えない。彼は、喘ぎながら、なおも私を嘲笑っていた。
「…これが…君の愛の…形か…」
「そうよ!」
私は、涙を流しながら叫んだ。
「これが私の愛!お前のような不純物から、彼を守るための愛!彼を傷つけるものは、たとえ彼自身の中に巣食うお前であろうと、私が許さない!私がこの手で殺してあげる!」
ああ、そうだ。私は、ようやく本当の答えに辿り着いた。
この箱が問題なのではない。鍵がどこにあるかなど、どうでもいい。
問題は、この「未知の何か」を内包したままの、千影という存在そのもの。
私の浄化は、不完全だった。
だから、もう一度、やり直せばいい。もっと完璧に。もっと徹底的に。
私の指の力が、ふと緩んだ。
私は、彼の喉から手を離し、代わりにその頬を、震える手で優しく包み込んだ。憎しみも、怒りも、嫉妬も、すべてが昇華され、ただ一つの、純粋な愛だけが残っていた。
私は、彼の顔に自分の顔を寄せ、その唇が触れ合うか触れ合わないかの距離で、囁いた。
「大丈夫よ、千影」
私の声は、聖母のように、慈愛に満ちていた。
「どんなお前でも、私が愛してあげる。お前が、お前でなくなってしまったとしても。だから、その中にいる『誰か』も、お前ごと、私が綺麗に殺してあげるね」
それが、私の愛の最終結論。
それが、私にしかできない、彼への究極の救済。
甘美な死の計画は、もはや感傷的な哲学ではない。
それは、彼の魂を巣食う魔を祓う、聖なるエクソシズム(悪魔祓い)となったのだ。
私の言葉を聞いた彼の瞳から、初めて嘲りの色が消えた。
代わりに宿ったのは、恐怖とも、歓喜ともつかない、ただ一点を見つめる、ガラス玉のような空虚。
それでいい。
それでこそ、私の千影だ。
さあ、始めましょう。私たちの、本当の儀式を。